第四十七話 怨嗟は廻る①
「兄さんもスクートもよくやってくれた。私の出番ね、でもそのまえに――――」
席を立ったナタリアは、柱に
「その目はなんだ、小娘! くそ、どいつも、こいつも……!」
頭に登った血が冷めきらないムヴィスは、様々な悪感情がこもった視線をナタリアに返す。
だがその悪態は、長くは続かなかった。
「闘技は終わった。約束どおりお前を解放する。安心して、殺しはしない」
ナタリアが虫でも払うかのように手を振ると、ムヴィスを縛り付けていた縄が突如として発火し、瞬時に燃え尽きる。
「ぎゃあああ!? 落ち――――ぐへぇ!?」
ムヴィスは声が裏返った悲鳴を叫ぶ。脊髄から脳へと、身を焦がされる痛みが走り抜けるのと同時、彼の身体は重力に従い落下した。
「どうやら足は折れてなさそう、よかった。もう用はないから、さっさと歩いてここから失せて頂戴」
「ぐ、おおお……」
潰れた蛙のようにうずくまるムヴィスに、ナタリアは冷たい言葉を淡々と投げかける。
「さてと、わたしもスクートにちょっとした用事ができた。後はあなたに任せるわ、ナタリア。……ここにわたし達がいたら何かと都合が悪そうだしね」
「うん、その方がありがたい」
リーシュはホルスと共に、忙しない足取りで出口へと向かう。
「――――スクート。あの鞘を作るのにどれだけ苦労したのか……勝ったから許すにしても、じっくりと教えてあげる必要があるわね。ふふふ」
「……スクートも、大変な主を持った」
リーシュの去り際に聞こえてきた独り言に、ナタリアは闘技の勝者へ哀れみを送る。
「でも、とても感謝している。呪われたあなたは、ミスティアにとっての祝福となり、昇華した」
ばたり……扉が閉まる乾いた音。それから少し間を開けて、ナタリアは目を閉じて深呼吸する。
「――――全ては、この日のために」
新しい木材の香りがナタリアの鼻腔をくすぐる。時代の節目を迎えるであろうこの瞬間を、匂わせるかのように。
再び目を開けたナタリアの
「声を張る練習はしてきた。何を話すかも頭の中に叩き込んだ。準備は万端。……人前で演説なんて性に合わないし憂鬱。でも、いまは、今日からは。ただ為すべきことを為す。そして、これからも」
特設された観客室の一角、闘技場の全貌を見渡せる壇上へ進みながら、ナタリアは自分に言い聞かせるように呟く。
彼女の歩みは遅い。その一歩を踏みしめるたびに、これまでの辛い記憶が湧き上がり、脳を駆け巡る。
――――四年前。自身の両親が暗殺されたことにより、ミスティアの内乱はその火蓋を切った。
復讐に囚われた兄は激情のまま剣を振るい、事件に携わったものたちを斬って回った。その犠牲者には、いまのミスティアを騒がせているムヴィスの両親もいた。
殺しに殺し、確かに火種は消えたかに見えた。
しかしフレドー本人は人斬りを悔い、そして恐怖による統治を良しとしなかった。
己が所業を悔い改め真摯に七炎守を勤めるフレドーの姿に、徐々に里の民は彼を認めていく。フレドーの極まった剣の腕に、神への信仰にも似た感情を持つ者さえいた。
だが消えたかに見えた火種は、不穏な残り火としてくすぶっていた。そしてムヴィスを核として燃え上がりつつある炎は、ミスティアを灰にせんと期を伺っていた。
繰り返してはいけない。勝者なきあの惨劇を、もう二度と。
焼死体となった両親。我に返った兄が、血濡れた剣を呆然と見つめるさま。兄に殺された者の家族や友人の、怒りと悲しみの叫び。
そのどれもが、頭にこびりついて離れない。
「だから、私が――――ミスティアを導く」
恒久的な平和などというおこがましい願いはしない。だが自分が死んでも二百年は平和なミスティアを創り上げる。
怒りも恨みも、不満も悲しみも、全てを乗り越える。それがナタリアが己に課した使命であった。
「認めん……認めんぞ! 無能が無能なりに己の器を理解して、どんな手段も使ってきた結果が、これなどとは!!」
壇上まであと数歩というところで、ナタリアは
「へえ。そんな目もできるとは、予想外」
ナタリアが振り返ると、産まれたての子鹿のようにぶるぶると足を震わせたムヴィスが立っていた。
涙ぐみ赤く腫れたムヴィスの目は、普段の欲に染まったものとはほど遠い。その目に宿るは……ただ純粋な、恨みであった。
「私……いや、オレは! 父と母を殺した貴様の兄がぁ! 憎くて憎くて、殺したくてたまらんのだぁ!! もちろんナタリア、お前もだ小娘!!」
「……!」
ナタリアはムヴィスの圧に息を飲む。ここに来て初めて、ナタリアはムヴィスという男の本性を知った。彼は、ひたすらに道化を演じ続けていたのだ。
「なにを、一方的な被害者のように振る舞っている? 自分の姉と兄を謀殺しておいて、なにを、なにを馬鹿げたことを……。先に私の……私達の、両親を! 殺したのは――――他でもないお前たちだろう!!」
ムヴィスの激情に触れたナタリアから、心の奥底に閉まっていた感情が漏れ出す。
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