第三十話 喪失
「そうか、そうか。元より君が拒絶を示すのは織り込み済みだ。まずは一年ぐらい牢に繋いでおこう、それでも折れないのであれば五年でも十年でも……首を縦に振るまで私は待ち続けよう」
「どれだけ待っても無駄だ。貴様の言う終末の日とやらまで、おれはここで耐え続ける」
「そう強がるな、人の精神で終わりのない虚無を味わうのは耐え難いほどの苦痛だぞ。君が私に協力してくれる日を待ち望んで……おや、これは? まさか!」
驚愕と共にライオネルの
「があああぁぁぁ――――っ!!?」
スクートは血を吐きながら絶叫する。
経験したこともない痛みという概念を超えた刺激が、脊髄から脳へと走りぬける。その激痛はまともな人間ならば意識が飛び、そのまま死に至るほどだろう。
だがスクートは死なない。気を失うこともない。血が両足を伝い、勢いよく流れていっても血が尽きることはない。胸のうちにあるドラゴンの心臓が激しく鼓動し、そして血を作り続けている感覚をスクートは認識する。
「素晴らしい、素晴らしいぞ! まさか人の身でも反応があるとは思わなかった……見ろ、マルグ・エストリア! 君の剣を!!」
ぼやけた視界の中、スクートは確かにそれを見た。見てしまった。
「……馬鹿な」
「いったい、何が……。
神によって授けられたとされる、祝福されし白き鋼がなにゆえ。
いったいどうして、ドラゴンの血と同じ漆黒に染まっているのか――――。
「マルグ・エストリア。君の剣は主人を人間ではなくドラゴンだと判定したようだ。……ああ、腹の傷は気にしなくていい。じきに塞がって痕すら残らず元通りだ」
ライオネルはスクートに見せつけるように、十字剣の黒刃を指でゆっくりと撫でる。
剣の柄から剣先に至るまで、その全てが夜の闇のように暗い。まるでこれまでの……聖騎士としての生き方を何もかも否定するかのように。
そして十字剣の漆黒はこれからの人生を暗喩しているに違いない。もうまともな人としての生は送れないだろう。そんな予感がスクートの胸中にじわじわと広がりゆく。
もうこの身は、化け物に成り下がってしまったのだから。
「またそのうち会いに来るぞ、マルグ・エストリア。暗い牢の中でゆっくりと考えるがいい。次に会ったときは、そうだな……世界の誰にも読めぬ特別なものを、特別に読み聞かせてあげよう。そうすればきっと、私が嘘を吐いていないということがわかるはずだ」
黒く穢れ染まった十字剣を石壁へ立てかけると、ライオネルは獄吏を連れて牢に鍵をかける。
「自分の運命を受け入れろ、マルグ・エストリア。いわば君は、ひとえに神によって選ばれたと言っても過言ではない。青天の
そう言い残し、ライオネルらは牢を後にした。
靴が石床を叩く足音が遠ざかっていくにつれ、ランタンの光もまた弱まっていく。
やがて何も聞こえない静寂が、常闇と共に訪れる。一切の光が失われた、竜血よりもずっと黒く深い暗闇。
だがその暗闇よりもさらに濃い絶望が、スクートの鋼の意思を蝕み
「何が運命だ。何が、神だ……」
スクートは聖騎士でありながら、神という存在を一度たりとも信じたことがない。
もしそのような全知全能の存在がいるのであれば、この世界に戦争という概念はなく、貧困にあえぎ餓えて死ぬ弱者もいなければ、ドラゴンという災厄もあるはずがないのだ。
だが現実は違い、それらはことごとく存在する。そんな理不尽な不条理を少しでも覆そうと剣を振るい続けた男の末路は、同じく理不尽な不条理に飲み込まれるというものだった。
「元より分をわきまえない
いまより一万年前の有史以来、いったいどれほどの者たちが神を信仰してきたのだろうか。しかし世界に平穏が訪れることはなく、むしろ混沌へと突き進んでいる節さえも感じられる。
そして自身をまるで神の代理人かのように語っていたライオネルの狂言。信仰の行く末が、戦火で世界を包むことに繋がるというのであれば……人々はいったい、何のために祈ってきたというのか。
「どうにかしてあの男を、ライオネルを殺す。それが叶わないのであれば……」
自身の心が完全に壊れる前に、この命を絶つ方法を見つける。亡骸さえ、誰にも見つけられないような方法を。あの男に利するような真似だけは、絶対にしてはならない。
地下迷宮のような牢獄であっても、入れたからには外に通じる道は必ずある。まだ諦めてはならない、きっと脱出の機会はくる。
それまでひたすらに耐え、正気を保ち続けるより他はない。
「人は、意志をなくせば死んだも同然だ」
何も見えぬ暗闇の中、スクートは自らを奮い立たせるように呟いた。終わりの見えぬ暗がりと押し寄せる絶望の荒波に飲まれまいと、決意を滲ませて。
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