第二十二話 災厄たる者
悪夢へと意識を潜り込ませたリーシュは、目の前に広がる凄惨極まりない光景に言葉を失っていた。
何もかもが、燃えていた。ミスティアの古塔街が小さく見えるほどの街が、火の海と化していたのだ。猛る火の粉は宙へと舞い上がり、地獄の業火に照らされた夜空は黒く分厚い雲を不気味に映し出す。
逃げ惑う人々の必死な声は、もはや悲鳴なのか絶叫なのかわからない。炎に巻かれ、その身を生きながらに焦がされていく絶望の断末魔が、絶えることなく木霊していく。
「覚悟はしていたけど。初めて見る外の世界が、まさかこんな光景だなんて」
リーシュの意識は燃え盛る街の上空にふわりと浮いていた。この悪夢の世界に起きているあらゆる事象には、言わずもがな干渉することはできない。
どのような惨劇が目の前で行われようとも、リーシュはただの傍観者に過ぎないのだ。
唯一可能なのは、悪夢の一部を切り取り封印するということ。悪夢の全てを封印することができれば理想なのだが、それには何度も同じ術を使い続け、少しずつ封印してきく必要がある。
当然、術の行使のたびに危険は付きまとうため現実的ではない。この一回に全てを賭ける覚悟で、スクートの心を蝕む闇を暴き、その部分だけを封印する。
手がかりはライオネルという存在だ。その者が現れるまで、リーシュはどんなに心が痛もうとも、目の前の光景から逃げ出すことは叶わない。
全てを受け入れ、封印の機会が来るまで見続けるしかないのだ。
「――――っ!」
突然、巨大な影が手が届きそうなほど近くを横切ったかと思うと、空気が爆ぜたかのような突風にリーシュは襲われた。生身であればそれだけで気絶しかねないほどの衝撃だった。
咄嗟に顔を覆った腕をどかし、そしてリーシュは目を見張る。
「……驚いたわね」
巨大な影は、身の毛もよだつ化け物だった。影と見まごうほどに、夜の闇に溶け込む漆黒の鱗。軽く振っただけで人間など両断してしまいそうなほどの大爪。巨大な鞭のようにしなる尻尾。
その後姿だけで、リーシュは化け物の正体がわかってしまった。
ドラゴン。いつかアロフォーニアの地下書庫で見た古書は、紛れもなく真実を書き示していたのだ。
伝承は、幻ではなかった。幻であれば、どれほどよかっただろうか。
生けとし生ける全ての存在を憎むドラゴンの
ドラゴンは夜の曇天を見上げ、咆哮した。天も大地も揺らし、粉々に崩してしまいそうなほどの迫力に、リーシュでさえ気圧される。
聞いたことはおろか、想像さえもしたことのない。まるで心の臓を握られるような感覚だった。
人間としての本能が、すぐにでもここから逃げろと訴えてくる。まるで太古に生きた先祖たちが、語りかけてくるようだった。
「……スクートを探さないと」
恐れという本能を押さえつけ、リーシュは
途中、白と青を基調とした鎧を身にまとう戦士がいた。だが白き直剣を手にする彼は、スクートではない。
「唯一なる神、アルシュナよ! 水刃をもって、かの災厄を打ち払いたまえ!!」
魔法の詠唱ではない。スクートが前に言っていた、
戦士は剣に水をまとわせ、上空を翔けるドラゴンに向かって幾度も斬りつける。
だが災厄にはあたらない、遠すぎたのだ。
そしてドラゴンは、自身を害する愚か者の存在に気付く。
「ガアアア――――ッ!」
怒りの咆哮と共に放たれた業火は、いくつもの建物を戦士ごと巻き込んだ。
燃え盛る音で、断末魔さえ聞こえない。戦士は数瞬もがいた後、事切れ地面へと突っ伏した。
「酷いものね、戦いにすらなっていない」
地に足をつける人間と、空を飛ぶドラゴン。両者にある隔たりは、あまりに大きすぎた。
戦士が非業の最期を遂げてから、意外にもはやくリーシュはスクートを見つけることができた。
まだ火勢が弱い街の一角にある、堅牢な造りだと
スクートといずれ呼ばれるだろう男の額からは、黒ではなく真っ赤な血が流れていた。それでも痛がる素振りも見せず、僅か十名ばかりの兵士に忙しなく指示を飛ばしていた。
その右手には、純白の
「あなたは弱き者の盾だと、初めて会ったときに言っていたわね」
スクートは嘘をつけるような人間ではない。短い時間ではあるが、共に過ごす中ですぐにわかったことだ。
疑ったことはないにしろ、こうして目の当たりにしたことでより実感が沸いてくる。
彼が弱者を見捨てて、命を惜しさに逃げ惑うことは決してないと。自分の掲げた信念の旗を下げるくらいならば、迷わず死を選ぶ男だと。
そんな者こそ、クロスフォードの従者にふさわしい。
「見せてもらうわ、スクート。あなたの戦いぶりを、未来を」
そして、その身に受ける深い絶望を。
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