第二十八話 光なき獄牢


 徐々に形成されていく新たな世界は、迷宮のような地下牢だった。


 むしや鼠が這い、壁や床には無数の古い血痕がこびりつき、扉も鉄格子の檻も酷く錆びついていた。


 煉獄れんごくのような炎の海から一転し、人の温かさとは無縁なほどに冷たく、そして暗い。


 漂う死の気配は濃密かつ異質で、だが墓場の雰囲気でもなく、戦場のそれとも恐らく違うだろう。


 きっとその理由は、この場所がによって作られたからだろう。


「ここに巣くっている者たちに、とても人の心があるとは思えないわね」


 牢の中で息絶えた者や、鎖に繋がれたまま朽ちて骨になってしまった亡骸を流し見て、リーシュは憐れみながら呟いた。


 ここがもし現実ならば、いったいどれほどの数の怨念が渦巻いているのだろうか。


 しばらく進むと、リーシュは暗がりに浮かぶ光を発見した。


 近づいて見てみれば、牢の中に顔をまるまる覆う頭巾を身につけた大柄の獄吏ごくりが二人、ランタンを持っていた。


 その獄吏たちの中央には、悪夢の根源たるライオネルが微動だにせずたたずんでいた。一冊の本を開いたまま、呼吸さえも忘れているかのように。


 ライオネルの視線は、四肢を鎖で繋がれたスクートへと注がれていた。意識を失いがくりとうな垂れているスクートの身体には、赤黒入り混じった血に染まっている。


「……これは!?」


 ライオネルが手に持つ本を、ふと流し見たとき……リーシュは気付いた。


 その本には文字のようで文字ではない、決して読めざる何かが書きつづられていた。


「似ている。アロフォーニアの地下書庫で見た、封じられた古書に」


 アロフォーニアの大樹の地下には、ミスティアの叡智が集約されている。


 その中にはたとえどのような魔法を行使しようとも、絶対に読むことのできない古書が混じっていた。


 いまライオネルの手の内にある本と、かつて見た古書はどこか似ていた。


「――――この男……どうやらこの謎の文字を読めるみたいね」


 読めなければ、このような場所でわざわざ古書を開く理由などない。


 悪夢の中のライオネルは、解読する方法が存在するということを如実にょじつに示していた。


「好奇心がないとは言えない……でも」


 ここはすでに悪夢の最奥だ。記憶の封印を施すだけならば、いまここで魔法を発動させれば目的は達成される。これ以上、凄惨な悪夢を見る必要もない。


 だがリーシュは魔法の行使に踏みきれないでいた。彼女の旺盛な好奇心がそうさせるのではなく、もっと別のなにかがリーシュを思いとどまらせていた。


 リーシュの持つ紺碧こんぺきの指輪が、より強く輝きだす。まるでこの惨劇を見届けろ、とでも言わんばかりに。


「貴方たちは、そうしろと言うのね」


 遥か昔よりクロスフォードに伝わる家宝の指輪には、意思がある。そして時折、こうして所持者に語りかけてくるのだ。


 往々おうおうにしてそれは、今後を左右するほどの重要な局面に差し掛かっていることを示す。


「そういえばあの日、森へ行けと教えてくれたのも貴方たちだったわね。そしてわたしは名を失った剣士と出会った」


 指輪が誤りを示すことは少ない。多くの場合はより良い道へと導いてくれるのだ。そして何より、今回はいつもより指輪から流れ込んでくる意思が異様に強い。


 指輪の中に眠るいくつもの魂たちが、まるで叫んでいるかのように。


「……いいわ。今回も貴方たちの選択を信じる」


 この悪夢へ潜り込んだのは、スクートを苦しみから開放するため。本来の目的にはそぐわない選択に戸惑いつつも、リーシュは指輪の意思に身を委ねることを選んだ。


 しばらくスクートが囚われた牢を注視していると、彫像か剥製のように動かないライオネルがいぶかしむように首を捻った。


「なかなか起きないな。まさかとは思うが、失敗したのか? 適合はしたが、意識が戻らないことなど……。いや、試行回数が少なすぎるからありえなくはない、か」


 ライオネルはぱたりと古書を閉じ、牢の壁に立てかけられた真白の十字剣クレイモアに手をかける。


「ああ、心配だ。彼は大丈夫だろうか? 確かめなければ」


 そして――――ライオネルは何の躊躇もなくスクートの脇腹へと突き刺した。


 全身を走り抜ける激痛に、否が応にもスクートの意識は叩き起こされる。そして何が起こっているかも理解できないまま、スクートは血を吐き絶叫した。


「ああ、良かった。成功だ。最高の目覚めはどうだ、マルグ・エストリア?」


「き……さま。街の皆は、どうした?」


殊勝しゅしょう、殊勝。この期に及んで他人の心配とは、まさに騎士の鏡だな。非常に残念だが、街の住人は皆殺しにした。だがこれは仕方のないことなのだ。百人を助けるために一人を犠牲にする選択肢を、為政者は迷うことなく選ばなければならないのだから」


「なにが為政者だ、ふざけるな! その一人をどうにかして救おうとも思わず、犠牲ありきでものを考えている時点で、貴様はすでに人の上に立つべき人間ではない……!」


 ライオネルの唾棄だきすべき物言いに対し、スクートは腹に十字剣が刺さっているにも関わらず身体を前のめりにしてえるように叫ぶ。


「おお、おお。そんなに動いては、血が飛び散ってしまうぞ。真っ黒な、泥のように粘つく……黒きドラゴンの血が!」


 スクートは最初、ライオネルの言葉の意味を飲み込めなかった。僅かにをおいて、ライオネルに黒い血しぶきがいくつか付いているのを見つけると、スクートは恐る恐る視線を下腹部へと下げていく。


「……ぁぁ」


 絶望を孕んだ呻き声と共に、スクートの目から光が消えた。


 十字剣に貫かれた腹から流れ出る、憎むべき存在の血と同じ黒色をした自身の血。信じがたい光景を前に、彼はただただ言葉を失った。


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