第五十一話 隔てられしこの世界
頬をなでるようなそよ風が、スクートの鼻孔へ新緑の香りを運ぶ。それにほんのりと混じる林檎の甘い香り、その主は何も話さずただ眼下に広がる景色を見入っていた。
スクートとリーシュが従者の契りを交わした崖の上。そこはミスティアを、リーシュの小さな世界を一望できる、彼女にとってお気に入りの場所であった。
そして今日の天気は晴れである。風によっていくつもの樹々が流れるように波立ち、その緑の上を光が走り抜ける。
空を見上げれば、どこを見ても数えきれないほどの蛍が淡い光を放ち、星の見えないミスティアの流れ星となっていた。
決して見ることの叶わなかったこの光景を、リーシュはいったいどれほど切望していたことだろう。
「……綺麗ね」
だがリーシュは抑揚の乏しい声で、ぼそりと不意に呟いた。
自身の前に立ち背を向けるリーシュの表情を、スクートは伺い知ることはできない。しかし彼女がどのような感情でいるか察するかなど、スクートにとって息を吸うことよりも簡単だ。
「やはり気になるか? 霧喰らいの予言が」
数瞬の間を置いて、リーシュはこくりと頷いた。
「わたしはずっと考えていたの。人であろうと、物であろうと……存在するからには意味がある。ならば、わたしがこの世に生を受けた理由は、意味はなんだろうと」
太陽の下を歩けず、霧に囚われた世界では己の好奇心すら満たせない。人の身にはあまりに過ぎた力は、代償として短命を強いる。
彼女の生は、とてもではないが満たされているとは言い難い。
だが、存在するからには意味がある。孤独の中、リーシュは自問自答を何度も繰り返した。そうでもしないと、あまりにも生きるのが苦痛で空虚だったからだ。
そしてついにリーシュは、己が生まれた意味であろうものを知った。しかしそれは……彼女に希望を抱かせるようなものでは到底ありえなかった。
「わたしのお母様も、お祖母様も。そのさらに前の祖先たちも。みな、わたしと同じ呪いを受け、死んでいった。ミスティアに住む人々だって、存続という使命に殉じていった。そんな先人たちがいるからこそ、わたしはいまここに立っている。それは……紛れもない事実」
ミスティアという小さな世界は、人々の献身と犠牲で成り立っている歪なもの。そんな苦境のなかで先人たちが使命を果たすべく、今日まで血を繋いできたならば。
リーシュには、彼らの意志を果たす義務がある。
「霧喰らいの予言が使命であれば、わたしは危険を承知でミスティアを飛び出し、『力』とやらを見つけなければならない。ナタリアとフレドーがいる限り、もう物騒なことは起きないでしょうし……少し前のわたしなら、出ていく大義名分を得たことに大喜びだったでしょうね」
「だが、いまは違うと?」
くすりと笑う小さな声が、風の音よりも鮮明にスクートの耳朶を打つ。
「世界の在り方を変えるのよ。きっと数えきれないほどの命を、この手で奪うことになる。幾千、幾万……いや、もっと膨大な数の命を。それもまた使命なのかもしれない、しかしわたしが望んでいるものじゃないわ。使命だからと無関係な命を殺し続けるなんて、それこそ本当の化け物よ」
リーシュは聡い。それゆえに、力を持つ者としての責任と、人としての矜持があった。
「もちろん、道半ばで死ぬことだってありえる。……死ぬことは怖くない。クロスフォード家にとって、死は親しい隣人のようなもの。でも大切なものを残して死ねるほど、いまのわたしは自分に無頓着にはなれそうにない」
「……」
黒でもなんでもいい、わたしのただただ白く無為で退屈な人生に……彩りを与えてちょうだい。
リーシュと従者の契りを交わしたときの言葉を、スクートは思い出す。あの頃のリーシュは、きっと自分の人生に絶望していたのだろう。
だがそんな彼女のきまぐれにスクートは救われた。生きる意味も見つけることができた。
「おれは口下手な堅物だ。何か気の利いたお世辞を言える男ではない。だが、これだけは言える」
ならば次は自分の番だろう。リーシュの迷いを、晴らすのだ。
「好きなことをやればいい。生まれ持って背負った義務などよりも先に、リーシュには選ぶ権利がある。使命は、生きる意味にはなりえない」
「――――えっ」
予想もしていなかった言葉に、リーシュは驚いてスクートへ振り返った。
「ミスティアに残りたいと思うのであれば、おれはそうすべきだと思う。リーシュ、君は人間だ。人には選ぶという権利がある。」
「それは……そうだけれど。わたしの選択で世界が滅んでしまったら、元も子もないわ」
「ならば両方とも選べばいい。ミスティアに留まりながら、力とやらを探すんだ。ここにはまだ謎が多すぎる。霧喰らいの真意に加え、奴が託した指、読むことができないという古書。何かがきっと、そこに繋がっているはずだ」
スクートの脳裏に、
「それに、教会が……あの悪夢の主が、外界に神を脅かす力を放置しているとは思えない。きっとこの小さな霧の世界こそが、神にとっての盲点そのものだ。辺境とはいえ正教国の領土内にありながら、ミスティアはいままで存在すら露見していない。この事実こそがその証拠だ」
「なるほど……ね。たしかにスクートの言う通りかもしれない」
「いまこの瞬間にすべてを決める意味はない。使命とやらは、君が本心で世界を変えたくなった時に……また選びなおせばいい」
「そんな日が来るかしら」
「わからない。だが迷いを抱えたまま果たせるほど、その使命は軽いものではないだろう。それに――――」
スクートは強い意志が宿った瞳で、リーシュをまっすぐに見つめなおす。
「生きる意味は与えられるものではなく、自分で見つけるものだと思う。初めて会った時、君は確かにおれに言ったはずだ。やりたいことをして死ぬのが、人の生きる意味だと」
「――――!」
かつてリーシュからもらった言葉を、スクートは彼女に返した。するとリーシュは目を丸め、か細くはっと息を飲む。
「やっぱり、あなたを従者にしてよかった」
そして木漏れ日のようなほのかに暖かい笑みを、リーシュはこぼした。
「……あら、ちょうどいいところに。スクート、ほら見て。
そうして互いに見つめ合っていると、一匹の蛍が流星のようにリーシュの指へと着地した。
「懐かしいな、どこか」
その蛍火は、スクートにとっては久しい太陽の光を思い起こす。
「温かい光ね。読んで字のごとく、この子の光は太陽のそれと近しいそうよ。たしか、外界の蛍火はもう少し光が弱くて黄色っぽいと言っていたわね」
「ああ。こんな蛍は見たことも聞いたこともなかった」
「ずっと昔の文献をあさっていると、そのころの特徴とスクートの知る蛍の特徴は一致している。つまり、陽蛍はミスティアの特異な環境によって進化した可能性があるということ」
おもしろいわね。同意を求めるようにリーシュはスクートに屈託のない笑みをぶつけた。
「わたしは思うの。この子たちがこのような進化をした意味は、きっと太陽を見たことない生命たちに、太陽を知らせるためにそう生まれたのよ」
「……ふふっ、なんだそれは。途中までの冷静な分析が嘘みたいだな」
「でも希望が、浪漫があるでしょう?」
「違いない」
リーシュとスクートが砕けた笑みを交わし合っていると、陽蛍は太陽のないミスティアを照らすべく飛び立った。
「ずっとひとりで悩んできた。でもスクートに出会って、霧喰らいの予言を聞いて……こうして笑い合って。ようやく答えが見えてきた気がする」
「答えか。それはなんだ?」
「それはね、もうここにあったのよ」
リーシュはにんまりと微笑み、自分の眼を指さした。ぱちりと開かれた彼女の眼は、まるで傷一つないルビーのように美しく、魅力にあふれたものだ。
「……どういうことだ? ごみでも入ったのか?」
スクートは背を屈め、見てと言わんばかりに見開かれる眼を、吸い込まれるように覗き込む。
「えい」
「……っ!?」
不意にスクートの唇に、柔らかい何かが飛び込んできた。
「――――」
心臓の鼓動が、秒針のように時を刻む。それがほんの僅かな短い間だったのか、どれほど長い時間だったのかは……スクートにはわからない。
だがリーシュは、足のつま先を立てて背伸びをし、彼の唇へと重ねた。スクートの湿った唇が、確かにその事実を物語っていた。
「……して、やられたな。まったく、君というやつは」
「驚いた?」
「ああ。いままで一番……驚いた」
半ば放心状態のスクートに、リーシュはいたずらに笑う。どこか頬を赤らめながら。
「スクートに会うこと。それこそがきっと……やっと見つけた、わたしの生まれてきた意味。答えはもう、ここにあったのよ」
少し恥ずかしそうに、だがそれ以上に誇らしそうに。リーシュは言う、己の見つけた生きる意味を。
「大好きよ、スクート」
「おれも……君が大好きだ、リーシュ。君に出会えてよかった」
霧に囲まれた、隔絶された小さな世界。
そのほとりにある崖の上、若葉が風になびき、淡い陽が世界を照らすなか。
互いに救いを与え合った白き魔女と黒き剣士は、互いに心臓が重なり合いそうなほどに強く、だが優しく抱き合った。
生きる意味をくれた存在の、生きる意味となれた。その祝福に感謝を込め、このときばかりは……スクートは祈った。
この幸せがいつまでも続きますように、と。
祈りと、そして願いを込めて。それは神にではなく、ふたりが巡り合った、隔たれしこの世界へと。
これにて、黒き呪血のクレイモアの一章が終わりです。ここまで見ていただきありがとうございました。もしよろしければ、応援の意味も込めて星をもらえたら嬉しいです。
あとがきを近況ノートにて載せておきますので、よろしければご覧ください。それではまた、二章でお会いしましょう。
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