第五十話 予言者


 ――――深い深い森の中。


 そこは薄い白霧に包まれていた。どこからともなく聞こえ響く、ふくろうと虫の鳴き声。


 光も霧と木々にさえぎられ、ぼんやりとおぼろげな雰囲気がどこまでも続いているのだろうかと思わせる。それらがまるで夢の中のような幻想的な雰囲気を、より一層醸し出していた。


 しかし自然がりなしつむぐ、静寂せいじゃくなるうたに混じるふたつの足音があった。


「あともう少しね」


「そう、だな」


 霧の中を弾むようにゆく白肌の魔女リーシュに、その真横で傘を差して歩く黒血の剣士スクート。


 彼女たちはいま、とある場所を目指しひたすらに霧の中を歩んでいた。


 スクートが霧の森で初めてリーシュに出会い、ミスティアが一望できる崖で従者の契りを結んだ、あの場所である。


「……まさか、外出を許されるとはな。今日は晴れだというのに」


 思い入れのある場所へと行くであろうなら、冷静なスクートとはいえ少しは声に熱がこもるものだろう。


 だがいまの彼の声はらしくもなく、どこか気が気ではない様子であった。


「心配症ね、まったく。ドラゴンと霧喰らいをくだした剣士とは思えないほどに」


「いくら強かろうと、守れなければ意味がない。……というよりもだ、陽に焼かれる肌を持ちながら、喜々として晴れの日を出歩く君がそもそも豪胆すぎる」


「ふふ、それは確かにそうね」


 リーシュはくすりと、年相応の無邪気な笑みをスクートへ送った。


 主であるリーシュは絹のように繊細な白肌を持ち、太陽の光に当たれば肌は瞬く間に焼けてしまう。


 さらに言うのであれば、リーシュは霧喰らいからスクートを助けるために、その身を光に焦がしたことがある。


 そのことはスクートにとっての負い目であった。だからこうしてスクートは光が届かぬ深い霧の中でも、リーシュの身を案じて傘をさし続けているのだ。


「光に当たらないよう、霧の中を遠回りするとさすがに時間がかかるわね……でもそろそろ着くはず」


 スクートが初めて霧の森に足を踏み込んだときのように、十歩先でさえ視界は利かない。だがリーシュの歩みには一切の迷いはない。スクートと彼女では、きっと視えているものが違うのであろう。


 そうしていわおのような樹々の間を、するりするりと歩いていた……そのときであった。


「――――うっ!?」


 いきなり霧の中より巨大な木が姿をあらわす。かの存在を認めたスクートは、すぐさまリーシュの前へと身をていして踏み込み、背負う十字剣の柄に手をかけた。


 足代わりの無数の根、槍のように尖った頭上の枯れ枝……見上げるほどの枯れた巨樹の腹には、獄門のごとき口が牙を覗かせる。それは紛れもなく、先日討ち倒した霧喰らいそのものであった。


「確かに上と下が別れるほどの痛手を与えたはず。これが、本物の不死か」


 幾星霜も在り続けた怪物がどれほど異質かを、スクートは改めて肌身に感じた。


「だが、前ほどの圧を感じない……眠っているのか?」


 以前の霧喰らいには、霧の中に存在するあらゆる生物を殺すという、無機質かつ張り付くような殺意があった。さもいにしえの時代よりたたずんでいたとでも言いたげな今の様子とは、あまりに似ても似つかない。


「落ち着いてスクート。今日は月がもっとも欠ける日だから大丈夫よ。それにどうやら、戦うつもりもないみたい」


 いぶかしむスクートに、リーシュの制止が飛ぶ。


「ヲ、ヲ……」


 リーシュとスクートに気付いたのか、霧喰らいは眠そうに巨大な薄目を開くと、ふたりをただじっと見つめる。


 やや間を置いて、どういうわけか不意にリーシュの指輪が音を立てて光り出した。


「えっ……これは?」


 これにはさすがのリーシュは驚嘆した。


 クロスフォード家に伝わる指輪は意思があり、時折持ち主であるリーシュに語りかけてくることがあるという。だがいまの指輪の様子は、どう考えても霧喰らいに呼応したとしか見て取れない。


「……ノロイ、セイヤク。……アルシュナ。バベル……ヲヲ」


 濃い紺色の光が空間を支配する中、リーシュとスクートのふたりは霧喰らいのうわ言のような声を聞く。


「アルシュナ? 怪物が、なぜ神の名を」


 怪物の口から出ようはずもない神の名に、スクートは己の耳を疑った。


 アルシュナ――――かの存在はスクートの故郷であるジアティール正教国で信仰されている、唯一にして絶対なる、そして世界を創造したと伝えられる女神である。


 無論、スクートはアルシュナの存在など信じていない。まことに神が全能であれば、この世にいくさなどはなく、また飢える貧民も存在しないのだから。


「……災厄ノ、時ハ近イ」


 やがて指輪から発せられる光が消えたとき、霧喰らいは再び言葉をかいす。それは先ほどのうわついたものではなく、言葉に込められた意味さえも理解しているかのような口ぶりであった。


「次元ノ狭間ヨリ、ドラゴンノ王ガ戻リキタル。傲慢ナル神、アルシュナモマタ再臨ス。イマ一度、彼ラガ相マミエレバ、次バカリハ……」


「――――っ!?」


 リーシュは何かに気付いたかのように、思わずはっと息をのんだ。


 未来を憂える霧喰らいは巨大な目の上、人であれば額か頭にあたるであろう箇所に手をあてる。さながらその仕草は、本物の人間のように。


「ドラゴンの王? アルシュナの再臨? だめだ、理解が追いつかん」


「わたしもよ、スクート。……でも嘘を並べているようにも思えない」


 記憶の一部が封印されたスクートは気付かなかったが、彼を蝕んでいた悪夢の細部まで知っているリーシュには覚えがあった。


 ――――天空を覆い尽くすほどのドラゴンの群れが、世界に破滅をもたらすだろう。


 リーシュは、光の届かぬ地下牢でライオネルが語った一節を思い返す。その破滅に抗う最後の手段が、神の復活と仮定するならば……霧喰らいの予言は眉唾ものではないだろう。


 そして疑念はさらなる疑念を生む。


 次に彼らが相まみえればと、霧喰らいは危惧している。その物言いはまるで、過去にドラゴンの王と唯一神アルシュナが争ったことを示唆しているようにも聞こえる。


「アルシュナは偶像ではなく、実在するとでも……? いや、そもそもの話だ。知性のないドラゴンに、王という概念が存在するのはおかしい」


「いまの常識に沿って考えれば、たしかにそう。スクートの言う通りね。でも……もしかすると、遥か昔は違ったのかもしれない。始めて歴史の一節が書に記される、それよりもずっと前とか、ね」


 あるいは真実そのものが、闇へと葬られたのか。


 いつの時代も歴史は勝者が創るものである。前の戦いではおそらく、唯一神アルシュナがドラゴンの王に勝利し、そしていまの世界が描かれたのだろう。


 都合の悪いことを律儀に記す為政者は少ない。ましてや、それが教会ならば尚更であろう。


「霧喰らい……あなたに質問がある」


 リーシュは一歩前へと踏み出し、強い意志が込められた目で霧喰らいを見上げる。


 白肌の魔女、リーシュ・クロスフォードは知っておかなければならないと思った。もうこの世に欠片として残ってないであろう、霧喰らいのみが知る世界の裏側を。


「故ニ、ミスティアノ……クロスフォードノ寵児ヨ。――――チカラヲ、求メヨ。何者ニモ屈サヌ、強キチカラヲ」


 しかし返ってきた言葉は、どう考えても質問に対する受け答えではなかった。


「言葉をかいす知性はあるが、意思の疎通が図れるほどの理性はないようだな」


「残念ね。でも答えがこの中にあると知れただけでも、今日の一歩は大きなものだったはずよ」


 ぱきり。リーシュが落胆して肩を落としていると、唐突に上から乾いた音が弾けるように響いた。


 何事かと目を見張れば、どういう訳か霧喰らいは己の小指の先を折ったようだ。


「っ!? 霧が……!?」


 森はざわめいた。なだれ込む強風が、連なる樹々をぶわりとさざなむかのように。


 そして折り離した指の欠片に向かって、辺り一面の白霧が渦巻くように吸い込まれていく。


「……ヲヲ」


 やがて霧のざわめきが収まると、霧喰らいは指片をリーシュへと差し出した。見れば黒ずんだ茶色であったはずの指は、月の光が実体化したかのような真白へと移り変わっていた。


「どうやら君へ渡したいようだな、リーシュ」


 枝とはいえ、それはスクートの十字剣と大差ないほどの大きさだ。リーシュの腕力では到底持てるようなものではなかったので、スクートが代わりにそれを受け取った。


ドラゴンノ王ガ勝テバ、世界ハ破滅ヘ。神ガ勝テバ、全テの生命ハ隷属へ。――――人ノ世ヲ守ル為ニ、チカラヲ求メヨ。ソレラヲ滅ボス、圧倒的ナ、チカラヲ……ソレコソガ、使命ダ」


 そう言い残し、霧喰らいはぴくりとも動かなくなった。あたかも初めから、異形の大樹がこの場所にそびえていたかのごとく。


「……まさか。わたしが、この世に生まれた、意味は」


 リーシュもまた、それ以上の言葉を口にしなかった。彼女のなかで思うところがあったのだろう。いつになく不安そうな表情で、リーシュはじっと俯いていた。


「理性のない怪物の、ただの戯言たわごとだ。あまり深く考えない方がいい」


 そんなはずはない。霧喰らいの言葉には、おそらく深い意味がある。そうと知りながら、スクートはリーシュに声をかけた。かけざるを、得なかった。それほどまでにスクートは、霧喰らいの言葉を信じたくはなかった。


 こんな小さな霧の世界さえも満足に出歩けない薄命の少女が、神もドラゴンの王さえも殺す兵器であるなど。


 こんな小さな肩に、一度たりとも見たこともない世界の行く末を背負わせるなど。


 運命はあまりに、無責任すぎる。


「そう、ね。なんていっても、今日はスクートと一緒におでかけ。楽しまなくては損ね」


 リーシュは俯いていた顔を正し、歩き出す。スクートもまた連れ添うように、歩みを合わせた。


「ねぇ、スクート」


「なんだ?」


「……ありがとう」


「ああ」


 もし、霧喰らいの言葉が嘘であろうとまことであろうと、スクートが己に課した使命が変わることはない。


 ただ彼女の隣に立ち、こうして前へと歩き続けるだけだ。


 そしてふと、スクートは心の中で愚痴をこぼす。


 どうしてこんなにも、運命は人に強いるのだろうかと。

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