閑話 影の蠢動
「……」
ランタンの微かな光が暗がりを照らすなか、ひとりの男が物静かに
その地下墓のような一室はあまり冷たく、静かで、そして暗い。まるでこの世の奥底かと見紛うほどに。
かび臭い淀んだ空気をゆっくり吸いては吐く、男の呼吸音だけが静寂を破る。だがそれも、耳を澄まさなければ聞こえないほど静かなものだ。
「そろそろか」
遥か遠い出口から吹き込んだ風が、ランタンの灯を人魂のように揺らす。銀十字の首飾りがきらりと照らされた後、灯は数瞬の間だけ男を映し出す。
もしその光景を見る者がいたのであれば、誰もが息を飲み込むであろう。
臣下の礼をとる男の姿は、人の形をした異形であったのだから。
男の右目こそ人のそれだが、左目は蛇のような……あるいはドラゴンを思わせる異質なものだ。血色の悪い顔の節々には鱗が生えており、その様相は半人半竜のようであった。
陽の光とは縁遠いこの場所でもフードを被り、浮き出た影のように黒い装衣をまとうのは、醜い己の肌を隠すためであろう。
男の名はガリアス。宣教師ライオネルに仕える教会の影がひとり、使徒の証たる銀十字を賜りし……人ならざる者だ。
親の顔はおろか名も知らず、かつて孤児であった彼は死にかけていたところをライオネルに拾われた。それ以降、ガリアスは刷り込まれたひな鳥のようにライオネルに付き従っている。
諜報、窃盗……殺しに人さらい。果てには竜狩りの任まで。そこに善悪はなく、ただライオネルに命じられるまま、ガリアスはその全てを忠実にこなしてきた。
そんな彼が何もない空間で跪いているのには無論、確たる理由があった。ガリアスは主の帰還を、半日も前からこうして待っているのだ。
「……むっ」
ガリアスが微弱な
やがて欠けた太陽を模した魔法陣が浮き上がると、粒子は集いて柱となる。そして柱は弾け、闇は光によって引き裂かれた。
「おかえりなさいませ、ライオネル様」
部屋に再び闇が戻ったとき、魔法陣の中央には消えゆく光の粒をまとうライオネルが佇んでいた。
「……ガリアスか、出迎えご苦労。よく私が戻ってくるとわかったな」
ひび割れ欠けた仮面の奥より覗かせる、ライオネルの濁った黄色の瞳。それらはさして興味もなさそうに、ガリアスを
「二百日後に戻ると、ここを発つ前に貴方はそうおっしゃっていましたゆえ」
「いつもながら律儀な奴だ、別に待っていなくともよい。もう三百年は生きたはずだろう? 時間の流れなど、とうの昔に希薄になっているだろうに」
「私はもう人ではありません。だからこそ、時間を尊ぶという人間性を大事にしたいのです」
頭部に生えた角を折り、爪のように成長する鋭利な鱗を削り……ガリアスは人の形を保つことに余念がない。
そして彼は頭から足のつま先まで闇に漬かりきった身であり、その所業は人の道を外れていることを理解している。
しかしそれでも、ガリアスは人の真似事をやめようとはしない。まるで本能のように、人であることにしがみつこうとする。
全ては、遥かに遠い人間であったころの……僅かな記憶を忘れまいと。
「……ふうむ。まあよい、マルグの件はどうなった?」
そんなガリアスの心境など露も知らず、ライオネルは待ち望んでいた報告を彼に促した。
「前任者らはことごとく失敗しました。あの霧の森で失った殉教者は二百、逃げ帰れた者は誰もおりません」
「それで?」
「もちろん、然るべき手を打ちました。埒が明かないと思い、私と他の使徒が任務を引き継いだところ――――これを発見致しました」
ガリアスが懐から出した包みを紐解くと、そこには一本の短刀が姿を見せる。
「ほおう、これは……!」
ライオネルは感嘆の声と共に、短刀の刃先をゆっくりとなでた。そして刻まれた印章を擦って汚れを落とし、思いに
刻まれた『盾と交差する二本の剣』の印章。それは紛れもなく、マルグの出自であるエストリアの家印であった。
「肝心のマルグ本人はどうした?」
「もうすでに死んだものかと。おそらくその短刀は、枯木の化け物へ抵抗した際に残した遺品でしょう。他には布切れひとつ、見つけることはできませんでした」
「ふうむ……」
ライオネルは手の内にある短刀を、玩具を与えられた幼児のごとくこねくり回す。やがて何かひらめきを得られたのか、突然ぴたりと固まると、ガリアスを見下ろし口を開いた。
「本当にそう思うか?」
「……どういうことでしょうか」
「この短刀には失われたはずの古い魔力、その残滓がついている。ほんの僅かだが間違いない。あの森の奥地には未踏の何かがある。人為的に元素を変質させるような、何かがな」
「そこにマルグがいると?」
「可能性はある」
ガリアスにとって主であるライオネルの言葉は絶対である。しかしこの時ばかりは、いかにガリアスと言えど己の耳を疑った。
調査に乗り込んだガリアス自身でさえ、他の使徒の助けがなければ脱出することのできなかった魔境だ。あの生命ともっともかけ離れた森の中で、生きながらえる方法などあるのだろうか。
「マルグを取り逃がしたのは残念だ。だがよくやった、ガリアス。ここから先はお前では荷が重い、いずれ私が森へと足を運ぶとしよう。もし死んでいたら、墓ぐらいは作ってやらねばな」
「……ライオネル様は、あの者に熱心ですね」
ふと、ガリアスは心の声をもらす。
ライオネルにとって、あらゆる存在は駒でしかない。他者はもとより、自身の配下でさえ例外はない。力量を認められた使徒はともかく、消耗品同然の扱いを受ける殉教者には名前さえないほどだ。
そんなライオネルが配下でさえない、それどころか意に背いた脱走者に墓を作ろうとするなど、ガリアスにとっては前代未聞であった。
もし自分が死んだとしても、主は弔いの念すら抱かないだろうに。
「やはりマルグ・エストリアが……成功作だからですか?」
だからこそ、ガリアスはつい過ぎたことを口走ってしまった。
「それはお前が、自身を失敗作と言いたいのか?」
「……はい、その通りです」
ガリアスは歯を噛んだ。
――――失敗作。その呪いたくなるほど忌まわしい言葉が、ガリアスの脳髄を駆け回る。
本来であれば、マルグのように人の形を保ちながらドラゴンの力を手に入れるはずだった。
だがその試みは失敗した。ガリアスの完全かと思われた竜毒に対する耐性には、ほんの僅かながら
ゆえにガリアスは異形となった。いまこの瞬間も、黒き血が身体を駆け巡ると共に、彼は少しばかりのひりついた痛みを味わう。
埋め込まれた心臓が鼓動するたびに、ガリアスは己が不完全な存在であったことを突き付けられるのだ。
だからこそ、彼はマルグを許せなかった。
ただ運と才能に恵まれたというだけで――――三百年も使え続けてきた自分より、主の興味は遥かにマルグへと向いている。
その現実は、ガリアスにとってあまりに耐えがたいものであった。
「くだらん。私に失敗の二文字はない。あるのは大きな成功か、小さな成功であるかのどちらかだ。その証にガリアス、お前は常人を遥かに超える生命力を手に入れた。これを小さな成功と呼ばずになんという?」
「それは……」
ライオネルはガリアスの主張を一蹴した。
「まあよい。私はこの後、大聖堂へ向かう。……面白い友人ができた、彼のために贈り物をこしらえなければならない」
口角をやや吊り上げながら、ライオネルは胸元に刺さっていた
「大聖堂へ……? マルグを探しには行かないのですか?」
ライオネルの乾いた笑いが、暗闇の中に反響する。
「いかに私と言えど、正教国の辺境まですぐに足を運ぶことはできん。それに、物事には順序というものがある」
ライオネルは歩き出す。こつり、こつりと、石床を響かせて。闇を貫くように歩み出した主に、ガリアスも黙って追従する。
「備えろ、ガリアス。世界を吞み込むほどの戦火は……世界の果て、オルセウスより起こる――――!」
ライオネルの口ぶりは予言めいたものではなく、すでに定まった未来を指し示すような宣誓だった。
――――オルセウス。それは雲よりも高い山々に囲まれた場所にある、
大陸の中心に位置しながらもあまりに特異な環境に置かれているため、人間と魔物の交流は皆無。ゆえにかの地は、世界の果てとも呼ばれている。
人の往来がない以上、人類はオルセウスに対する情報をほとんど持ちえない。
ただ誰もが知る唯一の認識は、『かつて神は、あらゆる全ての魔物をかの地へと流刑に処した』という聖書の一節のみ。
そしてライオネルは、かの忌み地に火種を見出したのだ。
「いずれより多くの兵が必要になる。多ければ多いほどいい、適当な街でたまご拾いをしておけ。マルグの追跡にずいぶんと殉教者を消費したようだしな」
「もうすでに、滞りなく」
「素晴らしい。あとはそうだな、有力な聖職者を囲い込んでおけ。頭が弱く、欲深い奴ほどよい。そのほうが都合よく踊ってくれるだろう」
「かしこまりました」
彼らの会話は、まさに闇の底で話されるにふさわしい内容であった。
「マルグについては……近くに寄ることがあればもののついでに探してみよう。すでに死んでいるのであれば、急ぐ必要もあるまい」
「左様で、ございますか」
ガリアスの手が、己の骨さえも砕かんばかりに握られる。その隠しきれなかった僅かな殺意を、ライオネルが見逃すはずはなかった。
「功を焦って独断での行動は慎め。私がいままであの枯木の怪物を放っておいたのには、それなりの理由がある」
「……はっ」
ガリアスは渋々といった様子で頷いた。
「誰も運命から逃れることはできない。この私でさえ、そうだったのだから……」
ライオネルは静かに呟いた。この場にはいない誰かへと向けられた、警句めいた独り言。それはいずこより吹き抜けてくる風に乗せられ、闇の奥へと消え去った。
黒き呪血のクレイモア MS3 @MS3
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