第四十話 日常


 霧喰らいの激戦を制し、三日が経った。


 リーシュもスクートも、心身ともに限界であり疲れ切っていたためか、帰ってきたその日は丸一日以上もの長い時間を泥のように眠りこけた。


 そしてようやく目が覚めたと思っても、残念ながら体力が全て回復する訳ではない。


 魔力の許容量が膨大なリーシュは、一度使い切ればそれだけ魔力の再充填も遅い。スクートも勝手に傷が塞がる半不死の身体ではあるが、体力の限界に近付けばそれだけ傷の治りは遅くなる。


 そんなこんなで二日目もまともに動くことができず、三日目にしてようやく彼らは日常へと戻ることができた。


「はぁ、まだ身体が重い……よく考えてみたら、いままで生きてきて限界まで魔力を使い切ったことなんてなかったわね」


「ぼやいている割には、君の目は好奇心で輝いているな」


 スクートとリーシュの目の前にある机には、魔女の研究道具ともいうべき様々な物体が置かれている。


 石臼や乾燥させた薬草などの調合道具、なんだかよくわからない液体の詰まった硝子瓶。薬液の染みが点々とした使い古された本やら、魔力が込められた石など、例をあげればきりがない。


 正直なところ、素人目ではまったくもって理解が及ばない。スクートは困惑していた。


「あたりまえでしょう、スクート。霧喰らいの枝なんて、そうそう手に入るものじゃない。生命力を霧に変換し、必要なときに吸収し再生する霧喰らいの性質……少しでも解き明かせば、新たな魔法への扉が開かれるかもしれない。黙っているのは魔女の名折れというものよ!」


 普段からスクートはリーシュに振り回されがちであったが、好奇心を爆発させているいまのリーシュはスクートに対して有無を言わさぬ圧があった。


 それこそ、数多の死線を潜り抜けたスクートが気圧されるほどに。


「そうか……そういうものか。というか、ちゃっかり持って帰ってきているのが何とも君らしい」


「なによ、随分つれない反応ね。安心して、もちろんスクートにも手伝ってもらうわ」


 せわしなく手を動かしながら、リーシュはいたずらな笑みをスクートに向ける。


「安心と言われてもな……馴染みがなさすぎて、おれにはあまりに縁遠い。剣しか振ってきたことのない人間に、魔女の真似事は敷居が高いぞ」


「この世に無駄な知識というものはないわ、スクート。知らないことより、知っていたほうがいいに決まっている。もちろん、自分のためになるという前提はあるけれどね」


 リーシュは左手で本を開き、右手で粉末やら液体だのを混ぜ合わせる。右手が二本あるのかと思うほどに、その手際は洗練されていた。


「ああ、そうだ。スクート……魔法を覚えてみる気はないかしら?」


「魔法?」


 リーシュはふいに手を止めて、スクートへ向き直る。予想していない不意打ちを喰らったスクートは、大きく目を見開いた。


「前にも言ったが、おれは簡単な御術みわざさえ使えなかった。神への信仰心が足りなかったというのもあるだろうが、そもそもそういう事象を扱うことが不向きなのだろう」


「やり方がわかっていないだけよ、多分ね。気付いていないと思うけど、魔力の許容量そのものは並以上はあるわ」


「そう……なのか?」


 スクートは話についていけていないのか、困ったように首をひねる。その反応を見たリーシュは、どういう訳か笑い出した。


とげが抜けたスクートは、なんというかこう……ちょっと抜けてて愛嬌があるわね。前みたいに狼のように鋭い目をしているスクートもいいけど、わたしはいまのスクートのほうが好きかな」


「あいもかわらず、君はずけずけと人の心に入り込んでくるな。恥じらいはないのか」


「でも嫌じゃないでしょう?」


「……まあな」


 屈託のない笑みを向けてくるリーシュに、スクートはたまらず白旗を振った。


「スクートをからかうのはこれぐらいにして、話を戻しましょうか。ドラゴンと霧喰らいとの戦いで、あなたは己の十字剣に白い光をまとわせた。あれはスクートの身体の中にあった魔力が、強い思念を元に具現化したものよ」


「……強い思念か」


 ドラゴン、そして霧喰らいとの激戦。あの光の剣は、何かを守りたいという思いが高まって発現したのだろう。


「だが、いまここであの光の剣を出そうとしてもできる気がしないぞ」


「でしょうね」


 なにもかもわかっているような表情で、リーシュは小さく頷いた。


「魔法の詠唱とはつまるところ、発現のきっかけを作るというもの。言葉として声に出し、内なる魔力と外にある元素マナに呼びかけて森羅万象の火種とする。では、詠唱がなければ魔法は使えないかどうか……答えはこうよ」


 リーシュは念を込めるように手を振ると、浮遊する氷の欠片がいつの間にか生成されていた。


「詠唱はなかったな」


「ええ、そうよ。極端な話だけど魔法を突き詰めていけば、詠唱というものはなくなる。想像や強い念、あるいは身振り手振りがきっかけとなり、詠唱の代わりを果たすの。魔法の難易度は段違いに高くなるという欠点は置いといて、ここまで聞いてなにか気付くことはないかしら?」


 リーシュに質問を投げかけられたスクートは、深く考え込む。


 剣だけを振るい生きてきたと自称するスクートだが、彼の出自であるエストリア家では政治学から兵法まで幅広い学問を叩き込まれている。


 スクートが自覚しているかどうかはわからないが、リーシュから見て彼は十分に聡明と言えるものを持っていた。


「……光の剣と無詠唱の魔法は、どこか似ているように思える」


 一分ほどの沈黙を破り、スクートは口を開いた。その答えを聞いたリーシュは満足そうに笑みをこぼす。


「正解よ、スクート。そのふたつの根本的な原理は同じ、ついでに言えば霧喰らいとの一戦で見せたフレドーの風を切り裂く剣技もその類よ。鍛錬を積めば、フレドーのように任意で扱えるようにもなるはず」


 そこまで話すと、なぜかリーシュはやや渋い顔をスクートに見せた。


「――――と、言うのは簡単だけど……おそらく光の剣が発現するきっかけはふたつある。ひとつは大切なものを守るという強い思い、そしてもうひとつはスクートが死の淵に立っているという条件。前者はともかく、後者は難敵ね」


「なるほどな、平時ではできない理由としては合点がいく。きっと君の推測の通りだろう」


 死の間際こそ、人の限界を超える鍵となる。名前こそ思い出せないが、呪うかのように苛む悪夢、その主の言葉がスクートの頭の中に響き渡る。


「とにもかくにも、まずは魔力というものを扱う訓練から始めないとね。魔法を習っているうちに見えてくるものもあるかもしれないわ。あと、時間を見つけてアロフォーニアの地下書庫で古書の解読も試さないと。ふふ、やることは山積みね」


 口癖のように暇と呟いていたリーシュはもういない。いまの彼女はやるべきことを見つけ、きっと生きる意味を見出したのだろう。


 そしてそれは、スクートも同じであった。


「ふっ……リーシュ、君が楽しそうでなによりだ」


 以前のスクートでは絶対にしなかったであろう、穏やかな笑み。それを向けられたリーシュは僅かに目を丸くした。


「そういえば、いつの間にかわたしのことを名前で呼んでくれるようになったわね」


「――――! そう、かもしれないな」


 その変化はスクートにとって無意識のものだったのだろう、彼は心に語りかけるように胸に手を当てた。


「でも嬉しいわ、やっとスクートが心を開いてくれたみたいで」


「こんなおれに君は何度も手を差し伸べてくれたんだ、心ぐらい勝手に開く。リーシュ、君は初めて会った時の約束通り……おれを救ってくれた。――――ありがとう」


 あの口数の少ない堅物な従者が、ここまで素直に己の気持ちをぶつけてくるとは――――ミスティアが誇る稀代の天才でさえ、予想できなかった。


「いきなり、なによ、それ……人には恥じらいがないだの言っておきながら、スクートも大概ね」


「だが、嫌ではないだろう?」


「ふふ、そうね。さて、休憩は終わり……今度はスクートにも手伝ってもらうから、わたしの隣に座ってちょうだい。意趣返しなんてできないぐらい、みっちり教え込んであげるわ!」


「ああ、望むところだ」


 互いに肩を寄せ合い、狭い椅子に座るスクートとリーシュ。


 化け物に成り下がったあの日より――――もう味わうことのないはずの、人としての幸せをスクートは確かに感じていた。


 この幸せが、どこまでも続いて欲しい。本心よりスクートはそう願う。


「……うん?」


 屋敷の廊下をどたばたと走り回る音が、リーシュの自室に近づいてくる。忙しないこの足音は、リーシュの父ホルスのものでないことは明らかであった。


「まったく、本当に空気の読めない男ね……」


 リーシュが小さなため息をついた瞬間、けたたましい音を立てながら部屋の扉が開かれた。


「よう! リーシュにスクート、生きているようでなによりだ!」


 童のように目を輝かせたフレドーと、遅れて申し訳なさそうな顔をしたナタリアが姿を見せた。

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