1-19『銀髪美少女なら養いたいと思いませんか?』4

「……え……?」


 呆けたような表情の冬泉に、俺は重ねて。


「だからさ。俺は別に、お前に対して貸しなんてないってことだよ。今返してもらったし、それがなかったとしても、今までもう充分に貰ってる」

「ぼくが……君に?」


 首を傾げ、けれどそれも一瞬。

 冬泉は首を振りながら、俺の言葉を否定した。


「何を。ぼくは君に貰うばっかりで、一度だって何も返せていない」

「そうでもない。だって冬泉、俺が作った飯――すげえ美味そうに食ってくれんじゃん」

「……!」


 冬泉は目を見開いていた。

 その程度では足りないと思っているのか、あるいは、想像すらしていなかったか。


 俺は笑った。


「あれ、実はすげえ嬉しかった。お前のお陰なんだぜ、ちょっと料理にハマったの。ここ最近は結構、凝ったもんも作れるようになってきたと思わないか?」

「そ、それはそう、かもしれない――けど」

「それにほら、ときどき勉強とか教えてくれただろ。成績は確実に上がったと思う。あとゲーム。お前に付き合って、ここでいろいろやらせてもらったじゃん? 普段は、家じゃあんまやらないからさ。ああいうのも新鮮で悪くなかった」

「伊吹くん、それは」

「いいんだよ。冬泉がどういうつもりだったのかなんて、そんなの大して関係ない。第一それ言い出したら俺だって、何もお前のためにここへ来るようになったわけじゃなかっただろ? お前は俺と遊んでくれたんだ。友達になってくれた――それで充分だったんだ」


 きっと本当は初めから、それさえわかっていればよかったのだ。

 何も小難しいことを考える必要はなかった。俺と冬泉の間に貸し借りなんてなく、ただお互いが好きなようにしていただけ。俺が一方的に、冬泉へ与える側だったことはない。

 俺たちは初めから、対等な友人だった。


「ポジション的にも美味しいしな。こう言われても嬉しくないかもしれないけど、やっぱ冬泉はかわいいし。俺だって男だからな。まあ多少、優越感みたいなのはあったんだよ」


 胸を揉んでみたのは、それを示すためだった。

 必ずしもやらなければならないことだったかと訊かれれば怪しいが、その程度の役得はあったっていいと思うのだ。ほら、普段から冬泉もアピールしてきていたわけだし。


 まあ、さすがに二度とやれる気はしないのだが。

 その行為で冬泉が混乱して、俺の話を聞いてくれるのだったら、やった意味もあった。


「……違う。違うんだよ、伊吹くん。それは違うんだ」


 けれど、それでも冬泉はまだ首を振った。


「違ったりしねえよ。なんでそう、頑ななんだ」

「違う。だって、もし伊吹くんの言う通り、君がこの家に来て家事をやってくれたことと、ぼくが場所を提供して、勉強を教えて、おっぱいを揉ませたことが等価だとしても」

「いや、そう表現されると、なんかアレだけど」


 俺の小ボケに冬泉は乗らなかった。


「それ以前に、ぼくはもう返しきれないほどのものを貰っている。そのあとのことなんてもう、全部が恩返しでしかないんだよ」

「……何?」

「だって、伊吹くん。ぼくはもう、君に、――これ以上ないほどに救われているんだ」


 へたり込んだままこちらを見上げる、冬泉の瞳は潤んでいた。

 それはまるで、泣き出しそうな子どものような。温かい家庭を羨んで見つめる、サンタクロースに会えない子どもみたいな瞳だった。


「初めて会ったあのときに。君がいてくれたことで、ぼくがどれほど救われたと思う?」

「……そんなふうには、あんま見えなかったが」


 俺が言うと、冬泉はふるふると首を振り。


「ぼくはそんなに素直じゃない。それに、あのときは少し恥ずかしかったからね。父親に言われたがままに進学して、邪魔だからと新しい部屋を宛がわれて。ぼくは少し、荒れていた時期だった――今思い出すのも恥ずかしい、黒歴史というやつなんだ」

「…………」

「ぼくは、自分が誰かに必要とされることなんてないと思っていた。そして、それでいいとも思っていたんだ。現に両親は、どちらもぼくのことを邪魔に思っていたようだしね」


 わずかに零れ出す情報から、彼女の家庭環境があまりいいものでなかったことは察しがついていた。けれど表情を沈めた俺を見て、冬泉は下手くそに微笑んで言った。


「別に、そのことはいいんだよ。でも、わかるだろう、伊吹くん。伊吹くんも同じように思うんじゃないのかな。わからないけれど。でも、きっと」

「冬泉……」

「――誰からも必要とされない者に、生きている価値があるとは思えないんだよ」


 その言葉が、俺には非常によく理解できた。同感ですらあった。

 たとえば奈々那や――ほかの人たちは違うのだろう。

 だが俺や冬泉には、自分の価値を自分で立脚することができないのだ。世の中にはそういう人間がいて、その点で俺たちはよく似ていた。

 結果、とにかく頼られることに意義を見出した俺がいて。


「ぼくは結局、今だって――別に生きていたいとはまったく思わないんだから」


 そして冬泉小姫は、自分の価値を、自分自身ですら諦めたということ。

 それだけの違いだった。同じ根源を持っていて、けれど違う方向に進んだだけの差異。


「やりたいことなんてないし、叶えたい望みもない。君と一年いっしょにいて、それでもぼくは変われなかった。どうやっても自分ひとりで生きていこうとは考えられないんだ」


 その諦観は、絶望ですらない前提だった。

 きっと冬泉にとっての自己とは、誰からも愛されないことが完全な前提になっている。

 だから価値を知らない。己で価値を立脚できない。それは疑う余地のない常識で、その大前提を今さら崩せと言われたって、彼女には方法がわからないのだ。


 いったいどんな生き方をしてくれば、そこまで自分に見切りがつけられるのだろう。

 俺にはそれがわからない。

 よく奈々那に説教される俺だって、それでも普通の人間ではあるのだから。生物として当然の自己防衛はするし、自ら不幸になりたいとは思わない。


 だが、冬泉小姫は違う。

 彼女は絶望しているわけでも、人生に飽いたわけでも、死にたいと思っているわけでもなく――ただ純粋に『ああ、特に生きる理由がないな』と思っているに過ぎないのだ。

 いや、そうだとに過ぎない。


 そうだ。これは彼女が感情で弾き出した諦念ではない。

 地球は丸いとか、屋上から飛び降りれば落下するとか――そういうレベルの常識として教わってきた真実なのだ。


 ゆえに強固で揺るぎない。

 理屈では常識を打破できないから。


「だけどね。初めて、初めて君が言ってくれた。ぼくに生きていてほしいと――初めて。それが売り言葉に買い言葉の、単なる勢い任せでも構わなかった。ぼくは嬉しかった」

「……冬泉。俺は、」

「だからダメなんだよ、伊吹くん。もうわかったんだ。と。このまま一生、君に寄生して生きる以外、もうぼくに生きるすべはないんだと。君以上に優先したいものが、だってぼくにはひとつもない。君が明日死ぬなら、ぼくは今日死ぬ。それでいいと本気で思ってしまっているんだ。――でも、それがおかしいってことくらいは、ぼくもわかっているんだよ。ね? これ以上、いっしょにはいられないだろう?」

「……それで、お前はどうするんだ。俺がいなくなって、お前は」

「しばらくはなんとかするさ。だって今、もしもぼくが死んだりしたら、きっと君が気に病んでしまう。それじゃ意味がないからね。……いや、これを言ったら同じことか」


 言われずともとうに理解している。

 早晩、たぶん冬泉は、この部屋で命を落とすのだろう。

 自殺もせず、けれど生きようとせず、ただ

 けれどそんなもの、事実上は自殺と変わりない。

 冬泉だってそれくらい理解しているだろう。薄く自嘲するように、彼女は笑った。


「それで、いいってのか?」


 俺が問うと、冬泉は頷いた。


「うん。伊吹くんのことがなければ、必然的に次に優先するのは父親になるからね。あのクズのことなんて本当にどうだっていいんだけど、まあ、早く死んでやれば喜ぶはずさ」

「……父親なんじゃないのかよ」

「父親だよ。と言い切る父親さ。ぼくが死ねば大仰に泣いて、盛大に葬式でも上げて、次の日には忘れてどこかの女のところへ行くはずだね」


 狂った話だった。聞いているだけで虫唾が走るような話だ。

 けれど。それでもと冬泉は言うのだ。

 それが最も狂っていた。


「わかっただろ、ぼくはそういうモノなんだ。これ以上ぼくに付き合っていたら、本当に取り返しのつかない場所まで引きずり込まれてしまうよ。それは君だって嫌だろう?」


 言って、それから冬泉は、わずかに口角を歪めた。

 彼女は立ち上がり、俺をまっすぐに見て――そして言った。


「それでも。ねえ、伊吹くん。本当にそれでも、ぼくといっしょに堕ちてくれるのかい?」


 俺は。

 俺はその問いに。


「いいや。……そんなことは、できない」


 否定の言葉を返す以外、なかった。

 わかりきっていたとばかりに、冬泉は笑った。


「そうだよね。うん、ならぼくの言ったことがわかるはずだ。伊吹くんは早急に、可能な限り冷徹に、ぼくのことを記憶から消し去るべきだと思う」

「いいや」


 と、俺は否定を重ねる。

 そうだ。俺は冬泉の言っていることに、別に納得したわけじゃなかった。


「伊吹くん……?」

「お前といっしょに堕落してやることなんてできない。だけど、冬泉。お前は勘違いしている。俺はそれでも、絶対に、何を言われようとお前を見捨てる気なんて一切ない!」

「な――、」


 愕然としてみせる冬泉。

 こいつも実際、一年もいっしょにいてまだわかっていない。


「だいたい無理難題ばっか言いすぎなんだよ。放っといたらダメになるのがわかってて、なんで俺がお前を見捨てられると思うんだ。そんなことができるなら初めて会った時点でとっくに見捨ててると思わないのか? そんなことしたら、罪悪感で俺が死ぬっつの」

「き、君はぼくの話を――」

「聞いてたよ。だから今度はこっちのターンだ。生きる理由が見つからないって? ああわかった、それは聞いた。だから代わりに俺がお前を忘れろって言うんだろ。今その話に答えてるんだよ。はい絶対に無理です! 百パー、無理!!」

「む、無理って……そんなあっさり」

「だから、お前が変われ」

「ん、な」

「俺がお前を忘れるより、お前が生きる理由を見つけるほうが難易度低いね。俺は絶対に折れねえ。断固として譲らねえ。交渉の余地なし。お前が折れろ、冬泉!」

「――――――――」


 どうしてこいつは無茶苦茶ばっかり言うのだろうか。冬泉はそんな表情だった。

 どうしても何もない。

 俺は冬泉には最初から、徹頭徹尾、無茶苦茶しか言っていない。


「何を言って――伊吹くんは本当に本物のバカなんじゃないのか!?」

「今さらだろ」

「何を開き直っているんだ!」

「あとお前だって同じくらい馬鹿だよ。なあ、冬泉。俺だってお前のことが好きなんだ」

「――――っ!」


 この台詞で驚いた顔をされてしまうのだから、俺たちもすれ違ってきたものだ。


 お互い、自分のことが好きじゃなさすぎて。

 だから相手が、自分を好きでいてくれるという自信がない。――だけど。


 世の中、結構変わったセンスの持ち主も多いもんだぜ、冬泉。

 たとえば銅後輩とか。


「それに何より……俺は、お前に救われてるんだよ。それだってイーブンなんだ。冬泉が俺を――俺がお前のところに来るのを許してくれたお陰で、俺も少しだけ自分を許せた」

「ぼくが、……伊吹くんを?」

「嘘じゃないぞ」


 俺は、近くにあるソファに腰を下ろした。少し疲れたのだ。

 きょとんとしている冬泉。視線で隣に座るよう、俺は彼女を促した。

 それを待ってから、昔話を始める。


「中学のときな。地域の図書館に、ボランティアかなんかで手伝いに行ったことがあった」


 ――それは誰にも話したことがない、人生で最悪の失敗談。

 今でも思い返すだけで、自分の無力さに打ちひしがれるような思いがある。


「そこにさ。ひとりの女の子が来てたんだ。違う学校だったんだけど。年は確か、ひとつ下だったのかな? まあタメっぽい感じで話してたんだけどさ。司書の先生に聞いたら、その子――学校でいじめを受けてて。それで図書館で勉強してたんだってさ」

「……、それで?」

「俺はその子と仲よくなった。その子もまあ、俺のことを友達だと思ってくれてた。今は学校に行けないけど、いつかまた普通に通えるようになりたいって。だから、俺は彼女の手伝いができるようにと思って、一時期その図書館に通い詰めてた時期があるんだ」

「……うん」


 急かしも止めもせず、その唐突な昔話を、冬泉は静かに聞いてくれた。


「その甲斐あって、彼女は徐々に、少しずつ学校に通えるようになっていった。物静かな性格だったけど、意外とハキハキ喋るとこもあって。そういうところが好きだった。強い奴だったよ。そう思ってた。まあ今にして思えば……初恋、ってヤツだったのかも」

「いい話に、聞こえるね」

「そうだろ? まあ結局、――最後には会えなくなっちまうんだけどな。二度と」

「……………………」

「それが後悔だ。何もできなかった。どころか、俺が追い詰めたとすら言える。目の前で手首を切って死のうとするのも、本当はずっとつらくて助けを求めていたのも――何も。俺には何もできなかった。自分には本当は何も価値がなかったんだと、思い知らされた」


 そしてそのあと、奈々那に引っぱたかれるまでは沈んだように暮らしていた。

 奈々那と、二度と都合のいい人間にはならないと約束したのも、この件が由来だ。

 だけど心のどこかには、本当はそれにさえなれていなかったという思いが燻っていた。求められた助けに間に合わなかった自分を、俺は心の底から呪っていた。


 ――そんなときに、俺は冬泉小姫と出会ったのだ。


「白状するよ。俺はあのときできなかったことを、やり直そうとしただけなんだって」

「……伊吹くん」

「でも、お前ときたら正反対でな。実のところ特に困っているわけですらねえ。ほとんど俺の都合で無理やり構ってただけなのに――それなのに。お前、喜んでくれんだもん」


 ――あれは、嬉しかった。本当に。

 たとえそれが代償行為でしかないのだとしても。俺にとっては、まだ手を伸ばしていいと、届くはずのものがあるのだと――そう教えてもらえることが何より嬉しかった。


 わかっている。そんなものはなんの救いにもならない。

 けれど、だからといって歩みを止めなくてもいいのだと、冬泉が俺に教えてくれた。


「……悪いな。俺、本当は――本当に、最初から最後まで自分のためにやってたんだよ」


 救えなかった少女がいた。そのことはもう、どうやっても取り返せない。

 でも、だとしたら俺はどうすればいい。

 もう手を伸ばすことすらやめるべきなのだろうか。だが俺には奈々那のように、誰かの助けなくして――誰かに価値を示さずして生きていくことができなかったのだ。

 その点で、冬泉ほど都合のいい存在は、ほかになかったから。


 人の役に立とう。

 人の役に立とう。

 そうでなければ、自分が生きている意味などない。

 あれほどの失敗を経て、なお俺はその欲求を捨てることができなかった。


 そんな、不完全でどうしようもない奉仕の怪物が、佐野伊吹という人間の正体だ。


「……なるほどね。君は……酷い奴だよ、伊吹くん」


 小さく、冬泉はそう言った。

 俺は笑う。


「見損なったか?」

「……参ったね。そう言えばぼくの思い通りになるはずなのに、嘘でもそれは言えないんだから。ぼくの不完全が伊吹くんの不完全を埋められたというなら、見損なうどころか、むしろ――嬉しく思えてしまう」

「そうか。お前も、なかなか大概だよな。頭おかしいよ」

「君に言われたくないね。それだけは。いきなり胸を揉んできたんだよ?」

「……それ言いますか」

「言っておくけど。ぼくはあのとき、本当に――初めてになるんじゃないかと覚悟したよ」

「そりゃ悪かったけどな。……そんな覚悟は明後日にでも投げとけ」

「あはは。そっか。じゃあ未来に期待しよう」

「明後日ってそういう意味じゃねえよ」


 俺たちは、お互いに顔を見合わせて笑った。


 ――これは唾棄すべき共依存だった。

 対等なのは、お互いにどうしようもないという点。

 プラスを積み立てることなどまるでできず、ただマイナスを必死に補填し合っているだけの、社会不適合者の互助関係。


 だけど――今だけはそれを肯定しよう。


「俺たちは、きっとこのままじゃダメなんだ」


 俺は言った。冬泉は頷く。


「そうだね。そうなんだと思う」

「でも、きっと今は、それでもお互いが必要なんだ。ほんの少しずつでも、ちゃんと前に進むためには。今はまだお前に、――離れられると俺が困る」

「ぼくは、たぶん……変われないよ」

「俺も自信はない。だけど、それでも変わることを目指していたい。だからそのために、今はまだ、――お前といっしょにいさせてくれ」


 変わるために現状を肯定する矛盾。

 自分たちの歪さを、知った上で乗り越えるために維持を選ぶという不可解。

 そんな、上昇するために堕落していようという歪んだ誘いを。


「――仕方がないなあ、伊吹くんは」

「ああ。俺たちは本当に、仕方ない」


 冬泉は、それとわかって受け入れてくれた。


 ――俺たちは、正しい道へと戻るために。

 今日も、間違った道を、間違いだと知ったまま歩み続ける――。


 そうすることに、決めたのだ。

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