1-13『好都合男はいつだって都合よく使われたい』3
かくして、四月三十日(火曜日)が訪れた。
新学期初月の終わり。
厳密には一か月も経っていない(入院していたためなおさら短く感じる)が、少なくとも一歩を踏み出す時期として、ギリギリ許容範囲だと思う。
この日、俺は早起きして、まず真っ先に冬泉宅へ向かった。
「――起きてるか、冬泉?」
「寝てるー」
「答えてる時点で起きてんのわかるんだけどな……」
ここで寝たふりとかしないのが冬泉らしい。
苦笑する俺。相変わらずのだらしない格好でソファに寝そべっている冬泉は、実際その言葉の通り眠たそうではあった。どうせ徹夜でもしていたのだろう。
「どしたの、伊吹くん。朝から来るなんて珍しいじゃない。ぼくが恋しくなったかな?」
「舐めてもらっちゃ困るな、冬泉。俺のお前に対する感情は、恋なんて言葉じゃまったく片づかないレベルだ」
そんなことを言いきった俺に、冬泉は一瞬だけ呆けたように目を見開いてから。
「ほっほーう。それは愛の告白と取ってもいいのかな?」
「まあ、恋よりは近いさ」
「それは嬉しいな。ぼくと伊吹くんは相思相愛だ。想いが通じるなんて素敵なことだよ」
本当に、通じ合えているのなら。
確かにそうだ、素敵だろう。
「じゃあ、愛しの伊吹くん。用件を聞くよ」
もちろんそれが冗談でしかないことを冬泉は理解している。
当たり前のように本題へ移ったのがその証拠だ。
無論、何か用でもなければ、わざわざ朝から俺が訪ねてこないことは冬泉も承知している。
別に嘘を言ったつもりもないが。
「別にこれといった用事があるわけじゃない。ただ結局、お前はまだ一度も、学校に来てくれてないと思ってな。どうした、今年は去年より頻度が落ちてないか?」
去年は少なくとも月に二、三回――つまり週一弱くらいは登校してくれていた。
まあ偏りはあるし、テスト期間や補習の時期に傾斜はついていたが、それでも一か月間丸々の欠席は、かつてあったかどうか。
よりにもよって、俺が本腰を入れ始めた時期と重なるとは、まったくツイていない。
「この学校、そんなに厳しくないからね。それは去年でわかった。テストの点さえ取れていれば、だいぶ融通は利くのさ。学校側だって、ぼくという生徒の進学実績は欲しい」
「進学する気があったのか」
「ん? ああ、まあ適当に難しそうな大学を受けておくくらいの義理は果たすよ。全てが受かるとは言わないけれど、いくつかは引っかかるだろうし。それで充分じゃないかな」
全国の受験生を丸ごと敵に回しそうな発言だった。
だが、彼女は舐めているわけではない。自分の能力がそれに足ると、単純に知っているだけの話だ。
俺や、普通の高校生と、冬泉小姫では――学習の効率があまりに違う。
「……羨ましい話だ。そろそろ俺は成績が不安になってきた」
「ペーパーテストなんて結局は要領だからね。伊吹くんだって普通に勉強してれば普通に受かると思うよ。そういえば、志望校はもう決めてるのかな?」
「厳密にはまだだな。文系志望で、できれば国公立と思ってるが。まあ、いくつか受けて合格した中で、いちばんよさそうなところに行くくらいだろ。学部も特に決めてないな」
答えてみたところで、どうなのだろう。
俺自身、冬泉とそう大差はないのかもしれないと、そんなふうに思わされる。
いい大学に合格して、いい会社に就職する。
――それを、将来設計と呼んでいいのか。
「そっか。じゃあ決まったら教えてよ。ぼくも同じところを受けるからさ」
「…………そうか」
仮に、合格するのだとして。
果たして、そこに通うつもりがお前にはあるのか。
それを訊くことを、このとき俺はしなかった。怖かったのだ。
通うつもりがあってもなくても、それを聞きたくない。
「それより」かぶりを振って話題を変える。「しばらくの間、ちょっと後輩といっしょに遊ぶことにしたんでな。ここに来る回数はともかく、時間は減るかもしれない」
おおむね、本題はそこだった。
冬泉はこくりと頷いて。
「ああ。例の匂いの子だね」
「その表現マジで怖いんですけど……まあそう」
「いい匂いだったよ」
「知らないよ。どんな嗅覚だよ」
「ああ、違う違う。今のは伊吹くんの匂いの話さ」
「だとしたら違うのは、お前の話題のチョイスの仕方だ」
なんで俺の体臭の話になってるんだよ。
呆れる俺に、それでも笑顔で冬泉は言った。
「知ってるかな。一説には、人間は伴侶を匂いで決めているという話がある。遺伝的理由から、自分とは遠い遺伝子を持つ人間の匂いを無意識に好くとかなんとかいう説さ」
「なんで今その話したの?」
「ぼくの匂いは嫌いかな、伊吹くん?」
冬泉が本当のことを言っているのか、適当な理屈を即興で作ったのかは見抜けない。
ただ確かに、俺は冬泉の匂いが嫌いではなかった。というか好きだった。
「……お前、しょっちゅう汗臭いし」
「そういうことじゃないんだけどなあ。ていうか、酷い」
くすくすと笑う冬泉。
俺が話を誤魔化したのだと、彼女には伝わってしまったのだと思う。
いやもう本当、女子から体臭の話とか振ってこないでほしい。
「ま、用件は伝えたから、そういうことで」
「了解したよ。残念だけど、仕方がないんだろうね」
「だからって気を抜いて暮らすなよ? むしろ普段より気合いを入れて過ごしなさいよね」
「わかったよママ」
「アイアムノットユアマーザー!」
「じゃあパパ」
「じゃあじゃねえんだわ」
「行ってらっしゃい、パパ。気をつけてね。お仕事がんばってっ」
「その言い方だとお前がママになってるんだよなあ!」
その未来を必死に回避しようと足掻いているんだってこと、わかってほしい。
若奥様ムーヴを楽しむ冬月に見送られながら、俺は学校へと向かった。
登校したあと、俺は真っ先に、教室ではなく屋上へと向かう。
この時間から屋上へ行くのは初めてだ。
いつも通り、屋上へと通じる扉を押し開く。
やはりいつもの通り、それは抵抗なく簡単に開いた。そこに彼女がいるからだ。
「早いな。お前、家はこっから近いのか」
「おー、佐野せんぱいではないですか。どうしたのですか、朝から来るなんて珍しい」
嬉しそうな笑顔の銅後輩に、迎えてもらった。
さきほど、冬泉から言われた台詞に、よく似ていた。なんだか、女性の家を渡り歩いているヒモみたいな気分だ。実際にはむしろ逆まであると思うが。
甘やかされるよりも、甘やかしたい、
……だからダメなんだよ、俺はよ。
「ちなみに、わたしの家は学校のすぐ近くですね。あんまり遅くに登校すると、目立ってしまうので避けているのです。かしこ」
「手紙の終わりみたいに賢さをアピールしてくれたけど、ただ悲しいだけなんだよなあ」
「いえ、そんな。屋上というマイ・ベスト・プレイスがあれば平気です。佐野せんぱいの悲しさなんて、このわたしがアルミに包んでホイル焼きにして海へ返しますとも」
「それ環境破壊なのでは?」
「かしこい!」
今日もキレキレの銅後輩であった。
その顔を、ともすれば今日は曇らせることになるかもしれない。
そう思うと憂鬱になる。
それは結局のところ、俺という人間がただ他人を甘やかしたいだけの――つまりが自分の精神的な快楽を優先しているだけの男であることの証左で。
「……、どうかしたのですか?」
表情を変えたつもりはない。
それでも、やっぱり銅後輩は鋭かった。何か悟ったように首を傾げる。
「いや。銅後輩、いつ来ても屋上にいるなと思って。なんだか地縛霊みたいだ」
「じ、地縛霊ですと……!? それは――」
「ああ、すまん。気に障ったか?」
「――いえカッコいいです」
「銅後輩は本当にブレませんよね……」
そういうとこ、もはや一周回って格好いいまである。
本当に、冗談抜きで。俺からすれば、尊敬さえしたくなるほどだ。
「あー……まあ、なんだ。銅後輩。今日はちょっと、お前といっしょに遊ぼうと思って」
だからこそ、言いづらくとも本題に入る。
銅後輩の格好よさに負けないよう。
「はあ……? えっと、それはもちろん大歓迎なのですが……」
「そっか、よかった。ならさっそく――まずはこの屋上から出ようぜ」
「え――」
瞬間、銅後輩は目を大きく見開いた。
裏切られたかのような。そんな、見たこともない視線を俺に向けて。
「べ、別に、屋上からは出なくても……」
恐怖。怯懦。驚愕。狂乱。
感情の色味がわかりやすく伝わってくる。
――本当だった。
彼女は本当に、この学校が怖いんだ。
「教室には……入れないのか?」
「……無理ですよ。入れたら、行ってるに決まってるじゃないですか……」
酷いことを訊くなと、責められたのかもしれない。銅後輩は言う。
「体が、震えるんです」
「…………」
「ダメなんです。教室にはいい思い出が何もないんです。わかってても――あのときとは違う教室だって知ってても、耐えられない。入れないんです。怖い、から……」
「……銅後輩」
「無理です! ――無理なんです。どうしても」
やはり銅後輩は賢い。
それを言うのは、どこかで《これ以上は踏み込むな》と線を引いているから。
だけど。――それでも、きっと、どこかでは。
「わたしには、できません……いいじゃ、ないですか。ここに、ずっと……いれば」
肩を抱き、銅後輩は赤子のように首を振る。
その身体はとても小さく見えた。それこそ本当に、幼子のように。
「そう警戒するな。何も教室に連れていこうってわけじゃない。ちょっと学校を散歩してみようってだけ。屋上まで来ることはできるんだ、歩けないわけじゃないんだろ?」
「それは……そう、ですがっ」
「実はちょっと考えたんだけどな。無理にでも荒療治に賭けてみるか、とか」
「――ひ、」
「でもまあ、それはしない。別に俺は心理学の専門家でもなんでもないし。そういうのは根拠を持ってやるべきで、ただの精神論じゃ自棄といっしょだ。――でもさ、銅後輩」
俺は言う。
彼女が怯えているということの意味を考える。
無理をさせるべきではないということか。
それはそうだろう。
でも、だったら甘やかしてさえいればいいのか?
それだってきっと違う。
――だって銅後輩は、今もこうして屋上には登校しているのだから。
「言ったよな。俺に手伝ってほしいって。友達が欲しいって」
一歩を、俺は銅後輩に向けて歩み寄っていった。
屋上の端っこで、銅後輩はたじろぐ。まるで俺から逃げるように。もうそれ以上後ろに行くことはできないのに。
それでも俺は足を止めない。
考えたのだ。俺は考えて選択した。
自ら選ぶということを、選んだ。
踏み込むのだと。
それを自分に課すことを選んだ。
「だから、来てるんだろ、屋上までは。学校に通いたいって――屋上までなら来ることができたんだ。そんなに震えるほど怖い場所に、お前は自力で来られてるんだよ、銅後輩」
「……せんぱい……」
少しずつ、震える銅後輩に近づいていく。
「それがどれほどすごいことなのか、俺にも少し覚えはある。だから俺は、お前のことを尊敬する。お前は格好いいよ、銅後輩。ほかの誰がなんと言おうと、俺はお前が好きだ」
「…………っ!!」
一歩、一歩。また一歩。屋上の端へと――銅後輩へと踏み込んでいく。
それが、俺は怖い。本当に望まれていることなのか、この行為が本当に銅後輩のためになることなのか。その確信はどこにもないのだ。
俺は誰かに踏み込むことが恐ろしい。
でも、それは単なる保身なのだ。
それはできない。そのままの自分ではいないようにしようと思う。
「教室が怖いんだってな、銅後輩は。気持ちがわかるとは言わないけど、実は俺も、似たようなもんなんだよ。俺にだって怖い場所はある」
「せ、せんぱいに……?」
「ああ。言ってなかったけど、実は俺――図書室が怖いんだよ」
「え……」
正確には、本当に怖いのは図書館だが。まあ似たようなものだ。
冬泉の家の書斎くらいならギリギリ大丈夫なのだが、実は空閑家の書斎はダメで、でも本屋なら平気――と基準は曖昧。
ただとにかく、俺は大量の本が棚に並べられている場所が基本的に苦手だった。
「別に本がダメってわけじゃないんだけどな。普通に読めるし。でも図書館とか図書室がもうぜんぜんダメで、入ることもできない。無理に入ると過呼吸を起こして、心臓が痛くなって終いにゃぶっ倒れる。本当に、それくらいに苦手なんだよ」
「な、なんで……ですか?」
「うん? そりゃまあトラウマがあるからだろ。似た光景を見ると思い出すんだよな」
至極あっさりと俺は言ってのけた。
今となっては笑い話、なんて言えるようなことではまったくない。ただそれでも、軽く言うことが今は重要だと思った。無理にでも。
正直、この話をしただけで心臓が痛くなってきている。額にはたぶん脂汗が滲み出しているだろうし、そのことには銅後輩も気づいたようだ。
「せ、せんぱい……、あの、大丈夫ですか……? すごく、つらそうです……」
そうか。そう見えるなら悪くない。
嘘でも演技でもないと、説得力が出てくるからな。
実に好都合。
「問題ねえよ。心臓が痛いだけだ……あと頭と胃と関節」
「複数個所に貫通ダメージが出てますっ!? 問題だらけです!」
「言ったろ。俺はただ、お前のがんばりの真似をしているだけなんだよ。お前のほうが、俺なんかよりもっとずっとがんばってる。――だから、この程度はなんも問題じゃない」
「あ……」
――これは、いつかの焼き直しだ。
かつて奈々那が俺にしてくれたことを今、こうして返しているだけの話。
やっぱり俺じゃあ、奈々那ほどには上手くやれないけれど。
「うし、辿り着いたぜ――銅後輩」
俺はようやく、銅後輩の元へと辿り着いた。
まったく馬鹿な話だ。無駄な苦労と遠回りを重ねている。余計なことを言わなければ、ただ屋上を横断するだけのことに、ここまで意味のない苦労はしなかったはずなのに。
いや……でもまあ、完全に無駄でもない、か。
「震えは止まったか?」
「いや、……その。むしろ普通にせんぱいのほうが心配なのですが……」
「あ? ああ、うん……まあそうだな。銅後輩をただ散歩に誘うだけのことで、どんだけダメージ負ってんだって話だ、まったく。いっそ俺のほうが助けてほしいくらいだぜ」
「台無しなんですけど……ぜんぜんカッコよくないです」
「だろうな」
俺が格好よかったことなど、未だかつて一度だってない。悲しくなるね。
「俺に、あんまり大きなこと期待するなよ。俺なんかに頼ったお前の失態だ、そりゃ」
「えぇ……」
「――でも頼られたからな」
だから見捨てない。
何もできないことを、何もしないことの理由にはしたくないから。
「だから、お前を助けてやる」
「……せん、ぱい」
「俺は、お前を引っ張って教室に連れてってやるようなことはできない。俺にはそんなの不可能だ。でも幸い、お前は自力でも屋上に来られるんだからな。だったら、お前の手を引くことはできなくても――そうだな。お前の背中を、押してやることくらいはできる」
「……ふ、はは……あははっ!」
そんな俺の言葉を聞いて、銅後輩は耐えられないとばかりに噴き出した。
確かに、自分でもあまりに酷い言い回しをした自覚がある。
「背中を押すって……っ。せんぱい、屋上でそんなことされたら、落ちちゃいますよ」
「だな。まあ、気にすんなよ。俺もいっしょに、ちゃんと落っこちてやるから」
「死体が増えるだけです!」
「うっせーな。落ちたからって死ぬとは限らねえだろ。……未来は、まだわからねえ」
無茶苦茶なことばかり俺は言っている。
正直かなり予定外だ。もう少し格好がつく予定だったのだが。
「……それで。これからどうするんですか、せんぱい?」
「散歩に行くだけだ。いや、銅後輩ふうに言うなら、実績を解除しに行く……かな」
「せんぱい?」
と、銅後輩が首を傾げたタイミングで。
都合のいいことに、ちょうど始業のチャイムが鳴り響いた。
これからホームルームが始まる。通常、生徒は全員、教室に戻る時間だ。
俺は笑った。
「――《授業をサボって友達と遊ぶ》。こういうのも青春だろ? 項目、ないなら足しておけよ」
そう告げた俺に、銅後輩も。
「もちろん、あります」
「そりゃよかった」
「……それじゃあ。いっしょに来てくれますか、せんぱい?」
「ああ。任せろ」
花の咲くような笑顔が眩しかった。
それが、俺にできたことだというのなら――ほんの少しだけ。
自分にも価値があるのだと、思えるような気がした。
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