1-15『好都合男はいつだって都合よく使われたい』5
感動的(に見せかけただけの事実上ほぼ転んでいるだけな)でんぐり返しを終わらせたところで、俺は銅後輩に「飲み物でも買ってきてくれ」と財布を出して頼んだ。
だいぶ息も切れたし、ちょっと落ち着きたかったのだ。
銅後輩は頷き、けれどその直後に首を振って。
「いえ、わたしが出しますので、お財布はいいです。お小遣いはあります!」
「いいよそんくらい。俺、先輩だし。それに……ほら、なんだ。お前はこれから、友達を作って、いろいろ青春手帳を埋めてくんだろ。喫茶店、カラオケ、映画、ショッピング、買い食い、旅行……お小遣いは大事にしておけよ。すぐお金がなくなっちゃうぞ?」
口下手な俺にしては、意外とイイ台詞が言えたのではないだろうか。
そう思った俺に、銅後輩はわずかにくすりと笑みを見せて。
「では。最初の一回目は、やっぱりちゃんと、最初のお友達に使わないとですね」
「…………」
あっさり論破されてしまった俺は、素直に銅後輩を見送るほかなかった。
格好つかないものだ。未だ図書室にしゃがみ込んだままの俺は、せっかく出した財布を持った、空を切った手を静かに下ろす。
そしてそのまま、床にべったりと倒れ込んだ。
「っ――あ、あー……これ、マジ……きっつ、かったぁ……」
発作は収まっている。
この場所は《あの場所》ではないのだと、脳が理解したからだ。
おそらく、少なくともこの図書室にはもう、いつでも簡単に入れるだろう。
それだけだ。完全にトラウマを克服できたわけではない。
こんなものは言ってみれば、屋上から突き落とされたけれどマットがあって助かった、みたいな話なのだ。
自分を、自力では止まれない状況に、文字通り投げ出しただけ。
そんなもの、最後まで自分の意志では入れなかったことの証左でしかない。
「学校の図書室でこれじゃあな……」
あの図書館でこんなことしたら、それこそ心臓が止まっていたかもしれない。いや冗談じゃないっすねマジで。
いつまでもここにいるのもいい気分じゃない。
俺は立ち上がって図書室から出た。まだちょっと足がふらつくが、まあ問題ない。
「……無茶ばっかして」
と、廊下に出たところで不意にかけられる声があった。
俺は笑う。
「よう、奈々那。図書室の鍵、開けといてくれてありがとな」
「いつも朝から開いてるよ。特に何もしてない」
呆れた様子で、共犯の少女は溜息をついた。
俺は廊下の壁に背中を預けて、調子を整えながら言う。
「あ、そうなん? いや、来ないからな、普段は……でも司書の先生とかいるだろ?」
「そっちは美海姉にぶん投げたよ。私にどうしろっていうのさ」
「なんとかしてくれたじゃん」
「頼んだだけ。美海姉だって普通ならこんなん、絶対聞いてくれないっての」
この状況を作り出すため、それ相応の裏工作は行っていたという話だ。
まあ、この場に奈々那にいてもらった最大の理由は無論、俺が気絶して行動不能にでもなった場合の保険だ。
それを頼んだことで、奈々那にはハチャメチャ睨まれたが……。
「……大丈夫そうかな、銅後輩」
「あんたは……こんな状況でも後輩の心配なわけ?」
「元からそういう企画だろ。俺のほうは実際、大丈夫だって確証はあった」
というのも、奈々那からある程度、図書室の間取りや雰囲気は聞いてあったのだ。
それを踏まえた上で俺は、あの図書館とはそんなに似ていないから、中まで入ってさえしまえば平気だ――と計算していたわけである。
写真とかで確認してしまうと、逆に俺の発作が起こらなくなってしまう可能性があったため、ぶっつけ本番にはなったけれど。
これでも結構、あくどい真似を行っている。
「銅後輩にバレたら怒られそうだけど」
小さく笑った俺を、奈々那は肘で突き。
「体調悪くしてんのも入れないのも事実でしょうが。確証があったわけでもない。それで飛び込む時点で本物のバカだよ。私にあと何回、伊吹を病院に担ぎ込めって?」
「いや、……あはは」
「そういう自虐みたいなの、私に対してまで言わないで」
「ん、すまん。……サンキュな、奈々那」
「……ん」
告げた礼に顔を背け、奈々那は小さく頷いた。
ふう、とわずかに息をついて、それから奈々那はこう続けた。
「まあ大丈夫なんじゃない?」
「え?」
「あの子の話。あの子の場合はたぶん、伊吹とは逆。受け入れてさえもらえれば、大丈夫でしょ、きっと。ちょっと聞いて回ってみたけど、フォローしてくれる子もいそうだし」
「……聞いて回った?」
「同中だった後輩とかいたし。問題はこの先のほうでしょ、バカ」
その通りで。やはり俺はこういうのに向いていない。
奈々那のほうは、銅後輩のクラスの様子まで確認していてくれたらしい。
「んじゃ、あの子が戻ってくる前に私は帰るから」
恩に着せるでもなくあっさり言う奈々那。
借りばかりが増えてしまい、いつになったら返せるのやら。
「……ありがとな」
そろそろ本格的に返済するべきだと考えながら、去っていく奈々那に声をかけた。
そこからもうしばらく待つと、銅後輩がペットボトルを持って帰ってくる。
「す、すみません! 普段この辺り来ないので、場所がよくわかんなくなっちゃってっ」
俺は笑った。
「気にすんなよ。別に急いでねえさ。……それよりどうだ、銅後輩?」
「はい?」
首を傾げる銅後輩。
彼女からお茶を受け取って、すぐに開けて飲む。それから俺はこう続けた。
「教室。行けそうか? ……別に、急げとは言わねえけど」
「……はい」
銅後輩は、特に間を開けることなく頷いた。それから。
「わたしは単に、サボってただけです。佐野せんぱいと比べたら、平気のよっちゃんです」
「そっか。……《平気のよっちゃん》は意味わかんないけど」
「すみません。余裕のあっちゃんと混ざりました」
「どっちにしろ誰だよ」
「それはもう。……わたしのことに決まってます!」
笑顔で言いきる銅後輩。あっちゃんって。
俺は少し驚いた。その言葉の通り、確かに銅後輩は、なんだか余裕そうな表情だ。
「いやいや、こんなものを見せられたんです。驚かれても困りますよ、せんぱい」
「……そうなのか?」
「ええ。むしろ今はわたし、早く教室に行きたいくらいです。入りたくないせんぱいより、入りたいわたしのほうが余裕に決まってるじゃないですか!」
単純な話だが、それを見て俺は――銅後輩は本当に大丈夫なのだと確信した。
確かに銅後輩の言う通りだ。
嫌なことに、苦しいことに立ち向かうのではない。彼女は楽しむため、やりたいことをやるために教室へ向かうのだから。そう思えるのなら無敵だろう。
「できるといいな、友達」
「はい! ――ありがとうございました、せんぱいっ!」
そう言って、満面の笑顔を銅後輩が見せてくれるのなら。
なるほどこんな俺にだって、ひと欠片くらいは、どうやら意味があったらしい。
――授業が終わるチャイムは、そのときようやく鳴り響いた。
「お、やべ。そろそろクラス戻んねえと」
「そうですね。じゃあわたしも――自分のクラスに行ってみます」
「……、俺も――」
「大丈夫ですって。せんぱいは、どーんと構えて朗報を待っていてください。しあわせなわたしのお話なら、聞いてくださるんですよね、せんぱい?」
「ああ。……もちろん」
「それなら、楽しみに待っていてください! 次はせんぱいに、わたしの友達を紹介してあげるんですからっ。……まあ、その前に屋上戻って、荷物を持ってこないとですけど」
少しだけ迷って、けれど俺はこう言った。
「じゃあ、俺は戻ってる」
ここから先は、銅後輩の戦いだから。
甘やかしたくなる気持ちを、俺も殺せるようにならなければ。
「はい! ――また、明日です、せんぱいっ!」
※
教室を目指して俺は歩く。
図書室の前の階段を、上に向かう銅後輩とは逆に、下へ。
これも、ひとつの成長なのだろうか。そんなことを俺は考える。
銅後輩ではなく、自分の話。
信じて送り出す。
ただ甘やかすだけではないやり方というものが、俺にも初めてできた気がした。
都合のいい男にはなりたくなかった。
優しいと、そう言われたくないと思っていた。
それは、俺が本心では都合のいい存在でありたかったからだ。
それは、俺が本当はまったく優しくないことを知っていたからだ。
なら、今はどうだろう。
ほんの少しでも、俺は変わることができたのだろうか――。
「っ、お――あ、れ……?」
瞬間だ。目の前が突如として白んでいった。
いきなり発作が来たのか。
一瞬だけ俺は思ったが、倦怠感や不快感はない。痛みも。
この感覚はそれとは違うものだ。
そして俺は、これが何かをよく知っているはずだった。
――目の前の景色が一変する。
そこには、少しだけ成長した自分がいた。
そこには――少しだけ背の伸びた、銅燐がいた。
「伊吹せんぱいっ!」
銅後輩がそう言って、飛びつくみたいに俺の腕を取った。
俺はそれを、優しげな笑顔で受け入れている。
「えへへ。久し振りのデートですね。もう、最近は忙しそうで困りますっ」
――これはなんだ?
俺は思った。
今まで見ていた未来と何もかもが異なっている。
「まったくせんぱいは、いつもあっちこっちで他人のお世話ばっかりしてるからっ!」
「いや、最近はそうでもないと思うんだけど……」
「そうでもなくないですよ。せんぱいのお世話好きは、ホント変わりませんね」
大学生くらい、なのだろうか。同じ大学に進学したのかもしれない。わからない。
――これは、なんだ?
未来が変わったということなのか。
だとしたら何が理由だ。
「まあ、それがせんぱいのいいところだと思いますけど」
「……ちゃんと、いちばんはお前を優先するよ」
「えへへ……はっ、さてはわたし、このまませんぱいにパラサイトすれば人生安泰……?」
「別にいいけど」
「きゅーん! 今のはハートを撃ち抜かれた音ですっ。せんぱい大好きー! でもでも、わたしだっていつまでもせんぱいに助けられるばかりじゃないんですからね――」
――いったい、これは、なんなんだ。
いや、わかっている。
それが俺の幻覚妄想でないのなら、未来の光景だということが。
今までとはまったく違うヴィジョンだった。
そこには俺がいた。
銅後輩がいた。
――けれど明らかにいなくなっている人間もいて。
視界が、晴れる。
時間としてはほんの一瞬。
俺の目の前に、普段と変わらない学校の光景が戻ってきて。
休み時間になったから、徐々に廊下に喧騒が溢れていく。
けれど、どうしてかその全てを遠くに感じた。世界から切り出された感覚。
原因はわかっている。
目の前に――階段の踊り場に、いるはずのない者が立っていたからだ。
「や、伊吹くん。相変わらず君は格好いいよね」
「……冬泉。なんで……学校、来たのか?」
いや。もし登校するために来たというなら、制服を着ているはず。
だが冬泉は私服姿だ。急いで取り繕ったみたいな、野暮ったいジャージ。
「いやはは。伊吹くんを追いかけるにはね、さすがに制服に着替える暇はなかったよ」
「……ついて、来てたのか」
「そうだよ? 伊吹くんを追ってすぐに家を飛び出した。探偵みたいで結構、楽しかった」
こいつは引きこもってこそいるが、別にいじめられているわけでも、外や他人を恐れているわけでもない。
出ようと思えば普通に出られる、ただの怠惰だと思い出した。
「でも、なんで……つか、来たんなら教室に顔を出せば――」
「言ったろう。ぼくは伊吹くんを追いかけるためにここへ来たんだ。別に学校に来ようと思ったわけじゃないよ。君の行き先が、ただ学校だったというだけに過ぎない」
「……なん、」
「まあ朝の様子を見ればね。何かするんだろうとは思った。ならぼくは、それをきちんと見ておく必要があるさ。――うん、そして伊吹くん。やっぱり君は、思った通りの人間だ」
そんな言葉を、冬泉はまるで誇らしいことであるかのように、笑いながら言った。
俺には、だからわからない。
なぜ自分が、この状況を不安に思っているのかが。
「いやあ。だから、とっても残念だけれど――ぼくは君に言わなければならない」
「言わなければ、って……だから、なんだよ。冬泉。回りくどいこと言ってないで――」
「では端的に」
階段の下側から俺に向けて。
まっすぐに、冬泉はこう言った。
「――もう、ぼくの家には来なくていい。二度とぼくの世話はしなくていいよ」
「な、――おい、冬泉」
「それだけだ。今日見たもの次第で、ぼくはそれを告げようと思っていた。うん、そしてこれを見てはもう、そう言わざるを得ないだろう。残念だけど、仕方がないね」
俺は、頭が回らない。
自分が、冬泉から別れを告げられている。
その事実を脳が認識しない。
だから俺は、悟ったように語る冬泉に何も反応することができず。
「――今まで苦労かけたね。何も返せずに済まない。じゃあ、さよならだ――伊吹くん」
前触れもなく唐突に、友人をひとり失った。
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