1-16『銀髪美少女なら養いたいと思いませんか?』1
俺と冬泉小姫との出会いは無論、去年の四月――春の入学にまで遡る。
とはいえ、その場所は実は教室ではなかった。
四月の中頃、当時まだ冬泉は一度も通学してきておらず、俺は担任――というよりは事実上、生徒指導部の美海姉――から住所を聞き、連絡物を届けるという名目で、彼女の住む学校近くのマンションへ向かった。
「少し気になることがあってな」
思い返せば、あのとき美海姉はそんなことを俺に語っていた。
エントランスで、聞いていた部屋番号を打ち込み、入口の自動ドアを開けてもらうべく連絡する。
時刻はだいたい、夕方の四時過ぎくらいだったと記憶している。
『――はぁい』
そう応対したのは、柔らかい男の声だった。
あれから一年が経った今でも、冬泉の部屋にあいつ以外の人間がいたのは、この一回が最初で最後。
俺は冬泉がひとり暮らしだなんて想像もしていなかったから、もちろんその声の主は、父親か、せいぜい兄弟だろうとしか思わなかった。
「あ、すみません突然。僕は
『おお! そうかそうかぁ。小姫の学校の、同じクラスの友達なんだねぇ!』
こちらの発言をぶった切る勢いで、声の主は嬉しそうに言った。
たぶん父親だろう。
友達、と言い切るのもなんだか嘘をついている気分になるのだが。
「あの。今日は、学校の連絡物を、」
『いやあ、嬉しいなあ。よかったよぉ』
「あ、はい。えっと、」
『ちょっと待っていてほしいな。今、ボクも下まで行くからさぁ』
「あの、」
『いやあ本当に都合のいいときに来てくれたよお。あぁ、じゃあちょっと待っててね』
ぶつりと、有無を言わせずインターフォンが切られてしまう。
押しが強いというか、なんというか。
こちらが何を言う暇すらなかった。
仕方なく俺は、一階のエントランスで到着を待った。
幸いと言うべきだろうか、父親と思しき声の主はすぐに現れた。ベージュのスーツに身を包んだ、痩せ型の男性だった。
年の頃は……四十代くらいか。薄く髭を蓄えており、やり手のビジネスマンを思わせる趣味のいい風体。
ひと目見ての感想は、ぶっちゃけ《なんか金持ってそう》だった。
「あ、えっと……冬泉さんのお父さんです、か?」
迷いつつも、自分から声をかけた。
こちらを見た男性は、にっこりと柔和な笑みを見せて。
「そうとも。似ているだろう? 小姫は、小さい頃から目元はボクに似ているのさ」
「……あはは」
顔を知らなかったため、笑って誤魔化すほかなかった。
俺の反応など初めからなんでもいいとばかりに、男は笑ったまま続ける。
「ほら、早く内側に入って入って。オートロックなんだ、締め出されるとまた開けるのが面倒だろう。はは、ボクが入れるんだから構わないよ。にしても好青年だね、うん、いやボクの若い頃とは比べものにならないくらいしっかりして見えるよ? 嘘じゃないさぁ」
めちゃくちゃ喋る人だった。
俺はもうだいぶ押されっ放しで何も言えない。
言われるがままに、エントランスの自動ドアの内側へ入る。
――ここからがもう早業だった。
「よし。それじゃあこれを渡しておこう」
男は言う。そして何かを押しつける勢いで手渡してきた。
俺のほうはぽかんと押されたまま、手渡されるがままにそれを受け取る。
――鍵だった。
「悪いねえ。部屋のドアのほうも基本はオートロックなのさぁ」
「は?」
「ボクはもう行くからね。それは君のほうで部屋に置いといてくれると助かっちゃうよ。はは、おっと、合鍵が欲しければきちんと娘に直接頼んでくれよ? なぁに恋愛は自由だからね、ボクとしてはうるさいことは言いたくない。うん、小姫もなにせ、ボクと彼女の血を引いてるだけあって顔がいいからね。とはいえ君はなんだか好青年なようだし、まあボクはほら、娘にはどうにも嫌われちゃっていてね? うん、そういう意味でも、父親としてはやっぱり君のような好青年に娘を任せられれば少し安心だね。はは冗談だとも!」
呆気に取られる、とはこのときの俺のことを言う。
それくらい男は一方的に捲し立てると、そのままチャオとばかりに手を振り、そのまま自動ドアをあっさり潜り抜けると、本当にそのまま立ち去ろうとする。
「あ、え――いや、あの!」
もちろん、俺は呼び止めた。こんなもの渡されるほうが困る。
言葉から言って彼は、冬泉――つまり娘が(少なくとも)いる家に、初対面の男が入ることを完全に認めているからだ。
好青年、という謎の連呼はどういうつもりだったのか。
ましてや鍵を渡すなんて、どうかしているとしか思えなかった。
「じゃあ、すまない。あとはよろしく頼むよ。あはは、まあ君も見ればわかるさあ」
そして男は、俺の静止など欠片たりとも意に介さなかった。
さっぱり意味がわからない。
なんだ、この展開は。
純粋すぎる混乱に俺は襲われていた。正直、ちょっと思考が停止していたと思う。
「……えー……?」
呆然とする俺の目の前で、自動ドアが閉まった。
冬泉の父親は本当に、俺に鍵を渡したままどこかへ行ってしまったのだ。
どうするべきか。俺は迷う。
だが、すでにどうもこうもなかった。鍵を渡されてしまった以上、ちゃんと返却しないことにはもはや俺だって帰れない。
冬泉の部屋まで、上がるしかなくなったわけだ。
「か、変わったお父さんだな……なんだろう、急いでたのか……?」
半分くらい自分を説得するような台詞を呟きながら、エレベーターで十階まで昇る。
いちばん奥の角部屋が《一五一五》号室だった。
鍵はある。
だからといって、それで開けて中に入るのは躊躇われた。
いや躊躇われたも何も、真っ当な人間は普通そんなことしないだろう。この状況のほうがおかしい。
仕方なく俺は、玄関のインターホンを押す。
ピンポーン、と鳴り響くベル。
一秒待ち、二秒あって――いつまで待っても反応がない。
「えぇ……まさか誰もいないとか? いやいやいや」
さすがにないだろう、と思いたい一方、すでに状況が狂ってるため判断がつかない。
もう二、三度、俺はベルを鳴らしてみることにした。
反応があったのは直後のこと。
――ドン!
という大きな音が、明らかにドアの向こう側から響いてきた。
「あ、怪しすぎる……どうなってんだ?」
実はさっきのオッサンは冬泉とは何も関係ない押し入り強盗で、俺に罪を被せるために証拠品の鍵を渡したのではないか。
そんなことまで、結構マジで考えている俺だった。
だがここはオートロックのマンションであり。
俺の手にはどっちにしろ鍵があって。
そして、少なくとも中に誰もいないわけではないことは確認できていた。
「う……ぐぅ、仕方ない。鍵を返すだけ、返すだけだ……」
俺は意を決して、錠に鍵を挿し、それを捻る。
果たして、ドアロックは解除された。間違いなく本物の鍵だった。
ほんの少し、俺は恐る恐るドアを開いて中を覗いてみる。――直後だった。
「……うっ――なんだこの臭い!」
わずかに、開かれたドアの隙間から異臭が漂った。
わずかどころではない《嫌な予感》も、もちろんいっしょに感じている。
「ふ……冬泉さーん? いや、あの、えぇええぇ……?」
もう、何が何やら、わからない。
クラスメイトの死体が転がっているのではないか。そんな想像すらしてしまっていた。
「――クソ。嫌なこと思い出させんじゃねえぞ、マジで……ふざけやがって」
俺はブレザーの前を外し、それで口許を覆う。
それから玄関の扉を大きく開き、自分の鞄をつっかえにして換気を敢行した。
さすがにガス漏れとかではないと思う――だったら俺は死んでいる――し、もし中に冬泉がいるというなら、あらゆる意味で心配だった。
もう入るしかねえな、と仕方なく判断する。
「生ごみ系だな……たぶん。おい、入るからな! もう知らんぞ!」
言って俺は、初めて冬泉の家に足を踏み入れることになった。
薄暗い廊下をまっすぐ進んで、リビングへ。カーテンは閉め切られたままの状態だ。
そこら中に、なんとなくな感じでゴミが散らばっている。ただ、臭いの元となるようなものはそこにはなかった。発生源へ進むように、そのまま台所に俺は立った。
「……、ここか」
果たしていつから洗われていなかったのか。
流しには食器や、コンビニ弁当のプラ箱、何より食べ残しの生ゴミ類が、カオスよろしく蠢いて心身に最悪の影響を放っていた。
「うわ、
声をかけられたのは、このタイミングだった。
「――そこで何してるんだ」
「どぅおわぁあぁっ!?」
驚きすぎて、思わず飛び上がった。
台所、そのいちばん奥。まるで細い路地裏で身を隠しているかの如く、ひとりの少女が体育座りで、壁に背を預けて潜んでいた。
右手の大きな包丁が、こちらに突きつけられていた。
細く痩せこけ、髪はぼさぼさ。
幽鬼のように存在感なく、血走った眼を向けてくる。
「誰だ……」
その少女が言った。暗くて顔はよく見えない。
ただ、怯えるように――脅すように、刃物を向けられていることはわかった。
心が冷える。
「――佐野伊吹だ」
俺は名乗った。彼女の目の前に立って、きちんと答える。
「お前と同じクラスの生徒だよ。今日はこうして、まあ連絡物を届けがてら、顔を見にな」
「なんで部屋に入ってる」
「悪かったな。妙なスーツのオッサンに鍵、渡されたんだよ。まさか持って帰るわけにもいかんだろ。これは返すぞ?」
「――……あのクズ」
小さく、彼女は吐き捨てた。
そのときだけ、敵意が俺以外へ向いていた。
「お前が冬泉小姫だよな」
訊ねると、彼女の答えは実に単純で。
「出てけ」
信じられないほどの敵愾心が、冬泉から俺に向けられていた。
それこそ、一歩間違えれば殺されかねないような。当時の冬泉の状況から言って、その推測は何も間違いではなかっただろう。
けれど俺はめげずに、冬泉に食い下がった。
「……質問に答えたらな」
「うるさい。学校の奴らと話す気はない」
「こっちだって仕事で来てんだよ。好きでこんな臭ぇトコ居座るか」
「――――殺すぞ」
冬泉はそう言った。
殺すぞ、と俺に言った。
「……はん。殺すぞ、ね……簡単に言ってくれんぜ」
包丁はこちらに向けられている。
血走った眼はどう見たって正気じゃない。もちろん環境だって狂いきっている。
けれど、俺はそんな脅しに屈するわけにはいかなかった。
「できるもんならやってみろや」
そう言って、一歩を奥に近づいた。
冬泉の肩がビクンと跳ねる。臆せず、さらに一歩を俺は進んだ。
わかっていたからだ。
どうせこいつに俺を刺す度胸などありはしない。手が震えているのがいい証拠だ。
だから怖いのは、恐慌状態に陥ってしまっての事故と、あとは攻撃対象を俺から自分の体のほうに変えてしまうこと。そのふたつさえ避ければなんとでもなる。
――このとき俺は、猛烈に腹を立てていた。
何に?
決まっている。
この俺の目の前で、悲しそうな顔をして泣いている女にだ――。
「く、来るな……来ないで!」
「あ? なんでお前が怖がってんだよ。包丁突きつけられてんのは俺だぞ」
「それ以上来たら――」
「――来たら、なんだ?」
さらに一歩を進む。
びくん、と冬泉は肩を揺らした。
「う――あ」
冬泉は対応に迷っているようだった。
まさか俺が、こんな風に踏み込んで来るとも思わなかったのだろう。
たぶん、それでよかった。だから俺は、こう言葉を続ける。
「おい。邪魔だお前、そこどけ」
「……え。な――」
「お前には用はねえんだよ今。俺が調べたいのはお前の横にある冷蔵庫だ」
「――は……?」
目の前の男が何を言っているのかわからない。
そういう顔で、冬泉は口を大きく開けた。
「な、何……言って」
「冷蔵庫の残りを調べるんだよ。まあ大して期待してねえけど。ほら、避けろそこ」
「え……」
有無を言わせなかった。
そのまま俺はあっさり冬泉に辿り着き、それを無視して隣の冷蔵庫を開けた。
「ち。やっぱロクなもん入ってねえ。卵とかお前、これいつのだ? あー、もう駄目だなこりゃ。仕方ねえ、食材に関してはお前、俺が買ってくるわ。あとで金は返せよな?」
「な、何……何言って」
「メシにするに決まってんだろうが!」
「ひっ!?」
俺は振り返り、包丁を持つ冬泉の右手首を左手で掴んだ。
「これは、俺に寄越せ。料理に使うもんだろう」
「き、君……は、いったい……何、が」
「……手首は綺麗だな」
「ふひえっ!?」
「安心したよ。だが納得はしてねえぞお前。そうだよ、俺は腹立って仕方ねえ。クソが。あのオッサンこれ見て帰ったのかよ、信じられねえ。どうなってんだ、この家は!」
――ああクソクソクソ腹立つなチクショウ!
そう感情のままに叫ぶ俺に、もはや冬泉は完全に混乱していた。
「家は汚え! お前は臭え! つか肌とかべっとべとじゃねえかよ何日風呂入ってねえんだ、いい加減にしろ。でも何よりムカつくのは、お前、なんだその体格! メシもロクに食わねえで誰に断って俺の目の前でガリガリしてんだよあり得ねえクソ太れ馬鹿が!」
「え……、え?」
「え? じゃないんだよ、え、じゃ! ちょっと考えりゃわかるだろうが! お前クラスメイトがこんな風に過ごしてたらどうだ! どう思う! 俺は心配に思っちゃうだろうがわかれそんくらい! じゃあお前はどうする! そうだ! 今から綺麗に肥えるんだよ!」
「な、なんなんだよ、この人!? こわいっ!?」
我ながら滅茶苦茶なことを言っている。その自覚はあった。
でもダメだ。どうあっても、こんなものは絶対に看過できない。
「おい、冬泉!」
左手で包丁を奪い、俺は右手でダン! と壁に追い詰めた。
「ひえっ。あ、はいっ!」
冬泉は完全に俺の勢いに呑まれ、目を白黒させている。
だから俺は言った。
「――お前、まず、風呂」
「は、……はい。わかりました……」
ともあれ、これが。
俺と、冬泉小姫との――最悪のファーストコンタクトであった。
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