1-14『好都合男はいつだって都合よく使われたい』4
そうして、俺は銅後輩と、授業時間中の校舎を探検した。
これくらいのことしかしてやれない。
そんな思いを、なんとか《これくらいのことならしてやれる》という前向きな意志に変えながら。
俺は知識に長けた専門のカウセンラーではなかったし、ましてや全てを救う都合のいいヒーローになれるとも思わない。
ただそこにいることしかできない無力な子どもだ。
それでもいい。
たとえ、それでは駄目なのだとしても、そう開き直って何もしないよりは。きっと。
「……こんなふうに学校の中を歩き回るの、わたし、初めてです」
銅後輩は言った。
隣に並んで歩きながら、俺は頷く。
「そりゃな。今まで、昇降口と屋上の間しか移動してなかったんだから。そうだろ?」
「はい。誰にも見つからないように早く来て、誰にも見つからないように遅く帰る。その繰り返しでした。……この時間なら、見咎められることもなくて、いいですね」
「でもこっそり歩けよ。この時間に授業がない先生が、どこかを歩いてるかもしれない」
「……ふふっ。なんだか佐野せんぱいと、いけないことしてるみたいで楽しいです」
実際しているのだから、みたい、ではない。
ただまあ、楽しんでいる銅後輩に水を差すこともないだろう。俺は頷いた。
「授業、完全にサボりだからな。とりあえず一階に下りて、食堂のほうに行ってみるか。銅後輩はまだ、使ったことないんじゃないか。食堂」
「行ったこともないです。でも、いいんでしょうか? 食堂の人に見つかりますよ」
「いや、意外となんも言われないもんだぞ。そりゃメシは出ないけど」
「そのご様子、さては経験がおありなのですね。いけないせんぱいですっ」
「今日は共犯だろ? 諦めろ。悪い遊びをたくさん仕込んでやる」
「きゃー!」
銅後輩はどこまでも楽しそうだった。
食堂を経由し、それから体育館、多目的ホール、自販機の置かれたラウンジから、特別棟のほうにある部室棟、中等部への連絡通路がある廊下、生徒会室……とにかく学校中のそれらしい場所を紹介して回る。
学校案内は、もちろん先輩の務めであろう。
銅後輩も、特に緊張した様子もなく普通に歩けているようだった。
あちこちを行ったり来たりしながら、時には授業をやっている教室の横を、窓の視線に咎められぬよう屈みながら進んだり。
くすくすと、些細な遊びをふたりで分かち合う。
「この先には何があるんです?」
一時間目もそろそろ終わりが近づいてきた頃合いで、銅後輩に俺は答えた。
「図書室だ」
「――それって」
はっとする銅後輩。
そうだ。利用者こそ少ないが、この学校にだって当然、図書室はある。
入学以来、俺はまだ一度も図書室に入ったことがない。それでも、その場所くらいは知っていた。
「大丈夫だよ」
俺は言った。言ってから、しかし苦笑して。
「いや、ごめん。嘘。本当はさっきから心臓がドキドキして仕方ない」
と、この言葉も本当は嘘だった。
ドキドキ、なんて表現には収まらない。心臓発作でぶっ倒れそうな気分だった。
「そんな。無理しないでください! せんぱい、本当につらそうです……」
銅後輩が心配そうに、俺を見上げて言った。
俺は首を振る。それくらいしか、俺にできることはないのだから。
「精神論さ」
「佐野、せんぱい……?」
俺の呟きに、銅後輩はこくりと首を傾げた。
ここからは気合いが必要だ。保険こそ打ってあるが、失敗するわけにはいかない。
「いや、何、約束しただろ? 初めて会ったとき、ちゃんと――銅後輩を助ける、って」
「……あんなの、わたしがお友達をなくしたくなくて、わがままを言っただけです」
そういうつもりだったのか。少し笑える。
ほら。やっぱりお前は、ちゃんとがんばれる奴なんじゃないか。
「ま、そうだよな。お前だって、本当に俺がお前を助けられる奴だなんて、そんな期待はしてなかっただろうさ。実際、俺は今日まで約半月、ほとんど何もしてやれてない」
「ち――ちが、違います! わたしは、そういうことが言いたいんじゃ――」
「わかってるよ。俺だって、別に卑下がしたいわけじゃない」
銅後輩の言葉を押し留めるようにそう重ねた。
彼女が、俺を責めるはずがない。
「でも現実問題、俺がこれまで何もできてなかったのは事実だ。加えて言えば、やっぱり俺には、お前を助けてやれない――そんな能力は、俺には、ない」
未来が視えたって、結局はそんなもの。
今このとき、お前を助けてやれる能力が、俺にはないのだ。
「だから、こうして示すしかないんだ。お前が自分で、自分を乗り越えられるよう。まず俺が俺を乗り越えてみせる。こんなトラウマ、やろうと思えばどうとだってできるって。その証明を見せてやる。これが俺に考えつけた、お前のためにできることなんだ」
「……せん、ぱい」
たったその程度しか思いつかない、頼り甲斐のない先輩で申し訳ない。
実際今も、銅後輩に暗い表情をさせてしまっている。
それでは何も意味がないのだ。
だから俺は、ことさら軽く、笑いながらこう言った。
「第一、お前、俺がなんで図書室に入れないかは知らないだろ? 実のところ、銅後輩と比べれば大した理由じゃないかもしれないぜ?」
「そんなはず……ないじゃないですか」
あの真っ青な俺の顔を見れば、銅後輩もそう思うか。
そもそも俺と銅後輩の経験は比べられない。その意味もない。
今の言葉は無意味だ。
ただ、これに関してはそのほうがいい。キツいことだと捉えてもらったほうが、演出としては映えるだろう。
問題があるとすれば――一切演技ではないことだけ。
つまり問題ないということだ。
「大したことないって言うなら……それは、わたしのほうです」
銅後輩は言った。俯き、唇を噛み締めながら。
少し迷って、けれど俺は訊ねる。
「……なんで教室に入れないのかは、訊いてもいいことか?」
「せんぱいにはもう、隠したりできませんよ」
「別に、無理はしなくてもいい」
「無理しまくってるせんぱいが言わないでください。……聞きたいですか?」
「いいや」俺は首を振る。「お前が悲しんでる話なんて、まったく聞きたくない。当たり前だろ。俺が聞きたいのは、銅後輩が明るく楽しく経験した、しあわせな話だけだ」
「……ぅあ。え、と……」
なぜか銅後輩は頬を赤らめていた。
こんなことは、言った通り当たり前のことでしかないのに。俺は続ける。
「ま、でもそれはそれとして、こうなったらな。悲しい話は聞きたくないが――でも、銅後輩のことなら、俺は知りたいとは思う。……話してくれるのか?」
「……そんなに話すことも、実はあんまりないんですけどね」
銅後輩は、そう言って自嘲めいた笑みを見せた。
俺は思わず押し黙る。続けるように、そして銅後輩は言った。
「――中学のとき、わたしは、クラスメイトにいじめられていました」
驚きは、もちろんしない。
ほとんどわかっていたようなものだ。
「まあ別に、直接暴力を振るわれるとか、そういうことはなかったですからね。せいぜい髪引っ張られるとか、ちょっと突き飛ばされるとか、その程度で。だから、そんなに酷いいじめというわけでも、なかったんだと思いますけど――」
違う。受けた苦痛に大小などあるはずがない。
そもそも、それは充分すぎるほど暴力の範疇だろう。
「理由は……なんだったんでしょう。いろいろ言われたんですけど、すみません。わたし本当は、ひとつもピンと来なかったんです。調子に乗ってるとかかわい子ぶってるとか、いろいろ言われましたけど。確かいちばん最初は、わたしが誰だかを振ったとか、そんなふうに責められました。でもぜんぜん身に覚えなくて……未だに、わからないんです」
「いいよ。理由なんて言わなくていい。どんな理由でも正当化なんかされるか」
「ありがとうございます」力なく笑みを見せてから、銅後輩は続けた。「まあ、そういうわけで、いろいろやられました。でも結局、そういうのって耐えてれば我慢できるんですけど……すみません。自分でもよくわからないんです。ただ次第に、教室に行くのが怖くなってしまって。だいたい、教室でやられてたからですかね……あとは、そう」
「…………」
「ああいうのって本当に、誰も助けてくれないんだなって、思って。気づくと――そう、思うんです。これはわたしが悪いからこうなってるんじゃないかってふうに。だんだんとそう思えてきて、そしたら一気に……その、教室にいる全ての人が怖くなっちゃって」
誰も、助けてはくれなかった。
悪くないはずなのに。何もしていないはずなのに。理由さえわからない悪意に晒され、それを当然と看過する者がいて――だから思う。
これは自分が悪いから行われている正当な仕打ちなのかもしれないと。
「それで結局、特に何も改善することもなく、そのまま卒業して。クラスの人たちが誰も来ない高校に進学して。ここからやりなおそうと思ったんですけど……なんか、教室には入れなくって。ここに入ると、また同じことされるんじゃないかと思うと、怖くて――」
「銅後輩。――もういい。ありがとう」
「わふっ」
彼女の言葉を止めるように、俺は問答無用で頭に手を乗せ、無理やりに撫でた。
セクハラで断罪されるかもしれないが、喋らせ続けるより千倍マシだ。
「なんでお礼なんですか……っ、なんで……頭、撫でて……くれるん、ですか」
「いいだろ、別に。銅後輩、小っちゃいから。位置がちょうどいいんだよ」
「……ふへへ」
零れ落ちかけた何かを必死に止めて。袖で拭って。
銅後輩は顔を上げ、俺に笑顔を見せてくれた。
「それなら、小っちゃい甲斐がありました。せんぱいのためのサイズですっ」
「ああ」俺は前を見る。「ちょうど着いたからな。図書室に。いやあ、いざ目の前にすると、やっぱり体が震えてくるもんでさ。支えてくれてサンキュ、銅後輩。もう平気だ」
言って銅後輩から手を離した。
……ふう。
「というわけで銅後輩、ここがこの学校の図書室だ。ここでは本を借りられるぞ」
「いや、せんぱい。その説明は、わたしだってされなくてもわかりますっ」
「――なるほど。じゃあ、あとは実際に中を見に行くだけだな」
果たして、いつ以来のことになるだろう。俺は記憶を掘り起こしてみる。
あいつと会えなくなってから、確か、少し経ったとき。
彼女といつも会っていた市立の図書館まで、女々しく向かったときが最後か。
入る前から全身震えていたが、まさか図書館に入ることすらできなくなっているとは思わなかったアホの俺。いざと突貫し、入口でぶっ倒れて気を失い、司書の女性に助けさせてしまったのだ。
思い出さなきゃよかった。
なんつって、忘れたことのほうがない。つーか俺、気絶しすぎだろ。
以来、市立図書館を彷彿とさせるような空間には入れなくなってしまった。
痙攣に発汗に嘔吐感、頭痛、関節痛、腹痛――何より抉られるみたいな心臓の痛み。
症状起こしすぎて笑っちまうくらいである。
別に体に問題はなく、これが全て精神的な要因だというのだから人体の神秘だ。たぶん脳味噌が勘違いしているだけなのだと思う。
ほら問題ねえ。
やろうとすれば入れる程度ってことじゃないか。どうせ死にやしない。
震えがあるなら力を込めろ。
汗を掻いたら拭えばいい。
実際に吐いたことはない。
頭が痛けりゃ考えるな。
関節の痛みじゃ手足も千切れん。
腹が破れたことだってない。
心臓は――今日も変わらず動いている。
「行くか!」
ひと言。呟き、図書室の扉の前に立った。
大丈夫だ。発作らしきものを、俺はまだ起こしていない。これだけでも進歩だろう。
「無理しないでください、せんぱい……っ!」
「無理じゃねえさ。そうだろ? こんなもん――ただの道理だ」
図書室のスライドドアに手をかけた。
――大丈夫。
俺はゆっくりとドアを開ける。隙間から次第に、図書室の光景が広がって――
――伊吹くん。
ザリ、と。
ノイズが走った。
――伊吹くん。
違う。そいつは幻聴だ。耳を貸すな。
あいつの声が聞こえるはずがないだろう。あり得ない。常識で考えろ。
扉を開ききる。
本。
棚が並んでいる。
カウンター。
埃っぽい匂い。
窓枠。
揺れるカーテン。
木目。
――ほらね、伊吹くん。
やっぱり、君じゃ、――――。
「っ、――――――――ぎ」
瞬間、俺は右手で心臓を押さえた。
痛む――痛む。痛い。心臓が。心臓が痛い。破裂しそうだ。握らせろ、心臓、どうして肌が骨がある邪魔だ消えてくれ痛い手が届かないと痛みが消せない痛みが痛――――、
膝を打った。
自分が床に膝をついたのだと気がついた。
「せんぱいっ! せんぱい、ねえっ! しっかりしてください、大丈夫ですかっ!?」
銅後輩の声が届いた。必死なその声が俺を揺さぶった。
いや、実際に彼女の手が俺に触れているのだろう。
わかる。そうだ。落ち着け。ただ心臓が死ぬほど痛いくらいのことが、なんだ。
そんなものは、生きていることの証明でしかないだろうが。
入れないはずがない。ここはなんだ? ただの図書室だ。学校機関の一施設に過ぎない単なる部屋でしかないだろうが。扉は空いている。体ひとつ分ずれればいい。そのどこに入れない道理がある? 答えはない、だ。入れ。入れる。目が回る。
目が……。
「……そうか。おい……、銅後輩。ちょっと危ないから下がっててくれ。大丈夫だ」
「せんぱい。もう、もういいですっ。わたし、がんばりますから……っ」
「大丈夫だって」
言いながら立ち上がる。
足元が覚束ない。そのせいで三歩も、後ろにたたらを踏んでしまった。どうせなら今の位置にいるほうが都合がよかったのだが、まあいい。俺は正面を見据えた。
図書室の光景。
本当に、ただそれだけで目が回る。だから。
どうせなら。
――体ごと回してしまえばいい。
俺はそのまま、前のめりに倒れ込むよう上体を落とした。隣で見ている銅後輩の、息を呑む声が聞こえた気もした。
だが別に倒れようというわけじゃない。同時に両腕をつく。
そして。
そのまま一気に――俺は無理やりでんぐり返った。
「ぐお、」
変な声が漏れる。どこか打った。
「い、うおっ、――ぐあっ!?」
「佐野せんぱいっ!?」
そのまま俺は図書室の中へと転がり込む。受け身が下手で、背中をがつりとしたたかに打ったが、それでもできた。
一歩を踏み出せないのなら、体ごと転がり込めばいい。
仰向けに寝転がる俺。目の前には天井がある。静寂の図書室に、でんぐり返しで入った生徒は、おそらく俺だけだと思う。
そのままばたりと手を広げ、俺は首を上に向ける。
「……見ろよ。入れたぜ、……銅後輩」
「っ――せんぱ……、ホント、無茶な、こと……っ!」
「足が動かないなら飛びこみゃいいのさ。落ちてしまえばノンストップ。宣言通りだ」
辺りを、俺は仰向けのままぐるりと見渡してみる。
入ってしまえば――冷静になれば、なんだ。なんのことはない。
「なんだよ。……この図書室、あそこにゃぜんぜん似てないじゃんか」
心臓は、まあ、まだ痛んでいた。
この一回でトラウマの全てを払拭できたわけでもない。
それでも耐えられないレベルではなかった。一歩を踏み出した、というか転がり込んだわけだが、それでもなんとか証明できた。
これくらいが――俺の精いっぱいだ。
「――せんぱいっ!」
「うおっ!?」
直後だった。胸の中に飛び込んできた銅後輩が、額を心臓にブチ当ててきた。
「おま、ば……っ、痛えだろ……」
「ひぐっ」鼻を啜る音。「知らないです。こんなことするせんぱいがいけないんでずっ!」
「ん。悪かったよ。心配かけた。本当はもうちょいスマートにやる予定だったんだ。最後まで格好悪くて、どうも。その辺りは申し訳ねえや」
銅後輩の背中をさすって俺は言う。
涙を受け止めてやった。それができることが嬉しかった。
胸の中で、まるで顔を擦り付けるみたいに、銅後輩が首を振る。
「そんなこと……ありません」
銅後輩は顔を上げた。
目に滲んだ涙を拭いて、そうするべきだと――そうあるべきだと笑顔を作って。
「佐野せんぱい、――とっても格好よかったです」
「……やっぱ銅後輩は、センスが独特だよ」
なにせその男は、ただ図書室に入るという行為のためだけに、廊下をでんぐり返って、体中あちこちぶつけまくった大間抜けなのだから。
格好いいなどとんでもない。人並みのことすら難しい、ただの高校生である。
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