1-10『好都合男とぽんこつダメ少女たちとの日常』4
目の前に、男がひとり座っていた。
正確には未来の俺の目の前に。
今の俺自身はそこに存在しておらず、かといって未来の自分と視点を共有しているわけでもなく、ただ光景という概念の観測者でしかない。
男が口を開く。
「
何かを言って、男は愉快そうにジョッキを煽った。
おそらくこの場所は居酒屋で、目の前の男はきっと未来の恵介なのだろう。糸のような目が変わっていない。若く見えた。
ともすれば、以前に見た未来よりは近い時間軸の光景……なのかもしれない。
「ああ。元気だったよ」
俺が答えた。
未来の俺が。
恵介の言葉と違い、その声はしっかりと聞き取れたのに、なぜだろう。
俺にはそれが、酷くおぞましく聞こえてしまう。
そいつが、あまりにも軽薄で空虚な嘘だから。
「
「そうだね。上手くやっていると思うよ」
「
ジョッキが打ち合わされる。
周りのテーブルからも乾杯を募る誰かがやってきた。
見たことのない人も多い。何かのグループでの飲み会の様子とかなのだろう。
俺は、もうとっくにこの光景が堪えられなくなっていた。
「乾杯」
俺が言う。
嘘だ。嘘しか言っていない。
いや、嘘というのは違う。何よりおこがましい。
こいつはそもそも、周りで誰が、何を言っているのかなんて聞いてすらいないのだ。
ただロボットのように最適解を弾き出しているだけ。プログラムの規定通り、唯々諾々と自分を動かしているに過ぎない。
視界に映る全てに価値を認めないと、そう決定した自己の命令に、自己を従わせ続けているだけの機械人形。あらかじめ定められた応答だけを繰り返している。
人の形をしているだけの、そいつは、あまりにもおぞましい怪物だった。
吐き気がした。酒なんて当然、飲んだことはないが、酔うとはこういう感覚だろうか。
中学生の頃、インフルエンザで四十度近い熱を出したときの感覚に似ていた。あまりにも倦怠感が強すぎて、その奥にある不調にかかずらうことすら煩わしい。
眠気がした。
不快感を振り払うために周囲を見回す。
体もなければ視線もなく、見回すと表現することにも違和感があったが、ふと俺は場の中に、もうひとり見知った人物の姿を見つけた。
奈々那だった。
彼女はこちらを強く睨んでいた。
未来の俺はそれに気がついていない。いや、気づいていてあえて無視しているのだろうか。
それとも、それにも意味を見出せないのか。
喧騒が脳を揺さぶった。少なくとも感覚の上ではそう。
昔、学校行事か何かの理由で、ステージ発表を経験したことがある。
そのとき教師だか友人だかに、観客をじゃがいもだと思えば緊張しないだろう、と言われたのだ。
そいつはありふれた言葉だが、このとき俺は、まさにその慣用表現を思い出してしまったのだ。
そして、それよりも酷い。
ロボットめいた未来の俺は、周囲の人間のことも同じように思っている。
自己と他者に価値の差を何も感じちゃいない――そんな感覚が、なぜかダイレクトに伝わってきた。
未来の俺が、ただひとり色と形と名前と存在とを認識している者は――。
「やあ、伊吹くん。あんまり遅いから迎えに来ちゃったよ」
――ただひとり、冬泉小姫しか存在していないようで――。
※
「――っ、う――、ぁ」
どんなスプラッタ映画を観るよりも、気持ちの悪いものを見た。
それこそ自分がホラー映画の怪人にでもなった気分だ。
到底受け入れがたい価値観を、脳裏に叩き込まれたかのような不快感があった。
思わずバランスを崩し、転びそうになった俺を、慌てたように支える腕。
「うわわっ、危ないよ伊吹くんっ!」
「……冬泉……?」
「むぅ、頼りないじゃないか、伊吹くん。そこはぼくも乙女として、男の子にはきちんと支えてほしいところなんだけど。それとも、まさか体調でも悪いとか……?」
心配そうな瞳が、見上げるように俺へと刺さる。
言い訳は、幸いにも咄嗟に飛び出した。
「あ、……ああ、悪いな。いや、お前が急に飛び込んできたから、脳が揺れたんだよ」
「せっかくいい匂いのするおっぱいのサービスなのに、楽しんでくれなくちゃぼくも立つ瀬がないなあ。それとも、ぼくの豊満なおっぱいにクラクラきてくれたとか?」
「……そうだな。興奮してきた」
「おぉ、そいつはとっても嬉しいな。ようやく恩返しができた気分だよ」
何も上手くない下らない冗談に、けれど冬泉は笑みを浮かべる。
彼女は俺の腕を抱いて、その確かに豊かな胸を押しつける形でニコニコと笑っていた。
彼女にとって、誰かに誇れる価値が、それしかないということなのだろう。
――そんな恩返しはもはや不愉快でしかない。
「もういいよ、ありがとう」
だが、それで冬泉に当たり散らしては、馬鹿を通り越してただのクズだ。曖昧な笑みを作りながら、俺はそっと冬泉の腕から逃れようとする。
「そろそろ恥ずかしいから――」
「余計近づこう」
「なんでそうなる!?」
「すんすんっ」
「おい、待て嗅ぐなっ! それマジで恥っずいわ!?」
「うぅん……やっぱり伊吹くんの匂い、すごく好きだよ……落ち着いてハイになれる」
「秒で矛盾!」
「しかし伊吹くん、ひとつ訊きたいんだけど」
「なんだ? よしわかった、それを訊いたら離れ――」
「――どうしてぼくの知らない女の匂いがするんだ?」
「……………………」
え。
えっ、こっわ。
いや嘘、え? マジで? そういうのわかるもんなの?
「具体的に言うと、この匂いは、すんすん……うん、これは後輩の女の子だね?」
「そんなことわかるわけなくないです!?」
「一年生的な匂いがするよ」
「怖すぎる! もうただただ普通に怖いから離れてくださいお願いっ!」
「……ふう。まあ、堪能したしね。そろそろいいかな。ふへへ、伊吹くんは最高だよ」
俺を抱き締め、胸の辺りに埋めていた顔を、冬泉は上目遣いにして笑った。
目が合った瞬間に、にこりと嬉しそうにはにかまれてしまって、怒る気もどっかへ消えていく。
「……もういいだろ?」
「うん。ありがとう」
冬泉はそれ以上、抵抗しなかった。まあだいぶ粘られたが。
そうだ。
そもそも冬泉は、俺の言うことに基本的には一切逆らわない。
社会復帰してくれという最も聞いてほしいことだけはぜんぜん聞かないが、それ以外は従順なくらいだった。
「ふう……本当に伊吹くんには、色じかけがまったく効かないよねえ」
「効いてるよ。そっちに踏み入ったら帰ってこられねえから、ギリギリ耐えてるだけだ」
正直に答えてしまうくらいには、なんだか捨て鉢な気分だった。
どうせ、できやしない。
無垢な子どもを騙しているみたいで、罪悪感から死にたくなってしまう。
「いらねえ気の使い方すんな。俺はお前を襲いたくねえんだよ。無駄な我慢を強いてくんじゃねえ、メシ抜くぞ」
だからやっぱり、できもしない脅しを、小物みたいに口にするだけ。
そんなこと、冬泉だって理解しているだろうに。
「ふふ、それは困る。今日の伊吹くんはなんだかお疲れのようだね。なんだか、いきなり機嫌が悪くなったようじゃないか。口調まで、まるで初めて会ったときみたいだし」
「……あー、いや。悪かった。なんでもないんだよ、本当」
説明のしようがない。
嫌な未来が視えたので機嫌が悪くなりました、とは言えないし、言ったところでさすがの冬泉も……いや、どうだろう。こいつなら信じるのだろうか。
そのほうが余計、気分を害しそうだ。酷い男である、我ながら。
「――――」
本当に、嫌な未来だった。
自分の中にあった、どこか気の抜けた考えを一撃で刺し殺す威力があった。
最悪、冬泉と同棲することになっても構わないと、どこかで思っていたのだろう。
俺は冬泉のことがそれなりに好きだったし、どう控えめに言っても美少女だ。
養うのは確かに嫌だったが、どこかで、それも悪くないとか、意外と楽しそうだと考えてしまっていた。
論外だ。
こんな未来は絶対に認められない。
どうすればこうなる?
こんな――洗脳でもされたみたいに人が変わるものなのか。
俺は、ほかの全ての人間関係を捨ててでも、ひとりを選ぶようになるのか。
こうも歪でおぞましい価値観に沈み、冬泉というひとりへ奉仕することに依存してしまうのか。
価値とは全て冬泉のことであり、それ以外は何もかもがゴミであるかのような。
あれがまともな人間の思考であるはずがない。
あの俺が捨てたものは、今の俺にとってはとても大切なものだ。そのはずだった。
何があった。
何がなかった?
俺はもう、自分という人間が恐ろしくなってしまっていた。
目の前にいる友人さえ無機物のように見つめる瞳が、己の考えを捨て場に沿った言葉だけを吐く喉が――恐ろしい。
――あんな自分にだけは絶対になりたくない。
「なあ、冬泉」
だから俺は覚悟を決めた。
また視たのだ。少なくとも現状、未来は変わっていない。覚悟がなかったからだ。
でも、――それは許せない。あんな自分を俺が認めるわけにはいかない。
「これからは、ここに来る頻度を減らそうと思う」
「ん、忙しいのかい? まあそれは伊吹くんの自由だけど、ちょっと寂しくなるなあ」
俺の覚悟は伝わっていないのだろう、冬泉はあっさりと受け入れた。
違う。これではダメだ。俺はさらに言葉を重ねる。
「だから、お前のほうが学校に来いよ。その頻度をそろそろ増やそう」
「……伊吹くん?」
「まずは週一から始めよう。そうだ、それがいい。そういうことでなら、俺だって協力は惜しまない。大手を振ってお前を手伝ってやれると思うんだ。だからがんばれ、冬泉」
「…………」
冬泉は答えなかった。
俺は続けた。
「このままじゃ、だって……ダメだろ。やっぱよくねえよ。そうだ、どうして俺はそんなことも忘れてたんだろうな。それ怖がってちゃ、意味ねえはずなのに……」
「…………」
「なあ、冬泉。大丈夫だって。俺がついてるから。サポートはする。だからお前も――」
「えいっ」
と。
冬泉は、いきなり俺の両頬を、指でつまんで引っ張った。
「……ふゆふぃずみ?」
「おいおい。顔が、こわいよ――伊吹くん。あんまり好きな表情じゃない」
「……、」
「まずはリラックスしよう。ほら、笑って? ぼくは伊吹くんの笑顔がすごく好きなんだ」
言い含めるような言葉。そこにあるのは無条件の信頼だった。
ついさっき、俺はそれを否定しようとしたのに。
今、もう俺はそれに絆されている。
「うん。笑顔のほうが素敵なのは、何も美少女に限らないね。そっちのほうがかわいいよ、伊吹くん。だから、さっきみたいな顔は――もうあんまりしてほしくないな」
「……わるい」
「いいさ。別に伊吹くんが悪いわけじゃない。それにぼくはぼくで、君のことを利用しているだけなんだから。それに関してだって、君が気に病むことじゃないね」
「…………」
「ぼくは、ぼくだ。――それさえ思い出してくれれば、いい」
なんだか力が抜けてきた。
まさか冬泉に諭されることになるとは。
ああ、いや、これは単に話を誤魔化されているだけなのか? 冷静になったから、ふとそんな疑問が湧いてきてしまった。だとすれば、冬泉もまあ大したものである。
「お前は……その」
言いかけた俺に、冬泉は小さく首肯して。
「仕方ない。ぼくとしてはまったく気が進まないけれど、君の頼みだ。君にはまだなんの恩も返せていないようだから、少しくらいは……そうだね。がんばってみてもいい」
「……来てくれるのか、学校に?」
「いきなりそんなハイレベルなことを頼まれても困るってものさ。約束するのはがんばることだけだよ。成果までは約束してあげられない」
「いや。……いいさ、それで。充分だ」
「まったく、君も大概、変わり者だね伊吹くん。せっかくおっぱいでサービスしているというのに、それを捨ててまで、こんな恩返しを望むって言うんだからさ。知らないよ?」
「……うるせえや」
捨て台詞を吐いた俺に、冬泉はわずかな笑みを見せた。
何が起こったのかわからないが、ともあれこれで初めての進歩だ。嫌々にせよ、冬泉が明確に約束してくれるなんて初めてのことだった。
このとき、俺は確か手応えを感じていた。
これなら行ける。
もちろんまだまだ懸念点だらけだし、まだ決意しただけの段階だ。
けれど――それでも進歩には変わりない。
それはきっと、無条件で歓迎すべきことのはずだった。
そのことに、ほんのわずかでも寄与できたのなら、俺にとっても喜ばしい展開だ。
何より、冬泉のためにも。
「まあ、……あまり期待は、しないでほしいけどね?」
冬泉は言う。
「充分に応えてくれたよ、もう」
俺は答えた。
あの歓迎すべからざる未来を避けるため、ようやくの第一歩が踏み出せたのだと。
そう、思っていた。
※
こうして、俺たちは道を間違った。
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