1-12『好都合男はいつだって都合よく使われたい』2
屋上からの帰り道。俺は考え込みながら歩いていた。
現状、俺がやらなければならないこと、やるべきこととはいったい何か?
それはひとつが《冬泉小姫を社会復帰させること》であり、もうひとつが《銅燐を教室復帰させること》である。
それらの進捗は、正直に言うなら芳しくはない。
決して進歩がないわけではないのだ。
彼女たちは少しずつでも、着実に前進している。
冬泉は少なくとも挑戦の覚悟を俺に示してくれたし、銅後輩とも普通に話せる。
あとはそれが実際に実を結ぶのを待つだけなのだが、だけで済ませていい状況でもなかった。
問題はそこだ。
俺は、この事態に対して積極策を取っていない。
あくまでも消極姿勢。
俺は彼女たちにそれを強制できる立場ではなかったし、仲のいい相手だろうと安易には踏み込めないラインも、ある。
ただし、タイムリミットさえなければの話だ。
喫緊なのは、やはり銅後輩だろう。
彼女の屋上利用は、場合によっては学校運営側によって上から潰される可能性がある。問題さえ起こさなければお目溢しされる程度ではあるが、この場合、彼女が教室には顔を出さず、屋上登校になってしまっていること自体が、教員側から見れば《問題》だ。
俺は最初以降、その件に関して銅後輩と言葉を交わしたことはなかった。
あくまで友人として、先輩としての立場に留まり、彼女と交流しているだけ。遊んでいるだけである。
いや。今思えば、初対面の段階で銅後輩がそのことに触れてきたのは、それ以降、俺にその先へ踏み込ませないためだったのかもしれない。それくらいに頭は回りそうな奴だ。
銅後輩は、なぜ教室に行くことができないのだろう?
話していると忘れそうになるが、それは結構大きなことだ。
普段の銅後輩から、そんな気配を感じたことはないのに、現実、彼女はまだ一度もまともに授業を受けていない。
はっきり聞いたわけではないが、その事実は親にも隠しているふうなことを、銅後輩は言っていた。
彼女自身、ここは明確に冬泉と違い、現状を打破したいと考えている。
なら。
俺はこれからどうするべきなのだろうか。
「――また屋上?」
考え込んでいた俺を止める声が、そのとき前方から響いてきた。
思索の海から浮上し、俺は意識を正面へと向ける。いつの間にか教室の近くまで戻っていたようだ。
俺の隣の教室から顔を出す、奈々那の姿がそこにはあった。
「おっす、奈々那。居残り?」
「ちょっとね。そういう伊吹も忙しそうじゃん。これは皮肉で言ってんだけど」
「そう真正面から切り込まれると、俺も怒る気になれないな」
でなくとも、怒れた義理もないのだが。
それが彼女なりの優しさであることはわかっている。
――空閑奈々那は、俺と違って、他人へ優しくすることのできる人間だ。
「銅燐さん、だっけ? まだ教室には行けそうにないの?」
「…………ああ、美海姉から聞いたのか」
名前が出て一瞬だけ驚いたが、考えてみればなんの不思議もない。俺は答える。
「どう、なんだろうね。実際、話してる分にはそういう感じには見えないんだよな。受け答えは普通にできてるし、あがり症とか対人恐怖症とか、そういうのとは違いそうだ」
「……それ、単に相手が伊吹だからって話なんじゃないの?」
「まあ慣れてはくれたと思うけど。でも初対面からそんな感じだったしね。それで話せるなら、教室にも行けばいいだけのことだと思うよ」
という時点で、つまりそれだけのことではないという証左だ。
奈々那だってそれはわかっているだろう。「ふぅん」と呟きながら廊下に出てきた。
「どうしたらいいと思う?」
そう、訊ねてみた。途端、奈々那が嫌そうな顔になったのは想定の範囲内。
俺が怒られる分にはいいだろうと、まあ開き直ったわけである。
「何、その質問……」
「いやまあ、正直ちょっと手詰まりでさ。というか、何もしてないだけなんだけど」
このままだと、近い段階で銅後輩は屋上の鍵を没収される、と思われる。
それ自体は構わない。もう屋上は、俺にとっても憩いの場になっているのだが、ダメと禁じられてまで行きたいとは考えなかった。
俺にはほかに、いくらでも居場所がある。
だが銅後輩にはそれがない。
次は保健室か。だったらまだマシだ。
屋上を奪われた銅後輩が、ではもう学校に来ないという選択肢に進まない保証はどこにもないのだ。どころか可能性大だろう。
屋上登校ならまだできる。
そんな銅後輩から、最後の拠りどころを奪わせたくない。
――それが、単なる甘さに過ぎないのだとしても、だ。
「まだ何もしてないって……それ、要するに《何かしたい》って意味なんでしょ」
訊ねた俺に対し、奈々那は心底から呆れ顔でそんな言葉を零す。
「ん……だね。否定はできないかな」
「言われなくても結局やるくせに。わざわざそうやって、私に許可を求めようとしてくる態度がいちばんムカつく。やめろって言ったって聞きやしないでしょ、伊吹」
その通りだった。
たまたま出くわしたから声をかけたに過ぎない。
でも、言っておくべきだとも思ったのだ。
「間違うかもしれない……とは、本当に思ってるんだ。また失敗するかもしれない」
「……伊吹」
「それは、嫌だ。そもそもここから先は正直、俺には向いてないことだから。こういうのなら、たぶん奈々那のほうが上手くやる。俺じゃないほうがいい、とは思ってる」
誰かを甘やかすことはできても、
誰かに優しくはしてやれない。
それが俺の限界だ。自分の能力の範疇を逸脱している。
「半分違う」
けれど、奈々那は俺にそう言った。
思ってもない言葉だった。
「頼られたの、伊吹なんでしょ。だったら伊吹がやるべきだよ。それであってる。そこの自信は持ってもいい。その銅さんだって、きっとそう思ってるよ。じゃなきゃ頼らない」
「……、奈々那にそう言ってもらえるとは思わなかった」
「中学のときみたいにはならないんでしょ? だったらいいじゃん。別に私だって鬼じゃないんだから、困ってる後輩の力になるなとか、そんなこと言わないって。いいじゃん、手伝ってあげれば。頼まれたからじゃなくて――頼られたからなら。それならいいよ」
――ま、実際向いてないとは思うけどね。
そう言って奈々那は笑った。仕方ないなというふうに。
でも結局、そういうことなのだと思う。確かに奈々那の言う通りだ。
美海姉に頼まれたから、ではなく。
銅後輩が俺を頼ったから――それに応えたいと俺が思ったから。
だから助ける。
それならきっと、間違いじゃない。
「――……」
自分の心臓を、胸の上から握り締める。
それを見た奈々那が、心配そうに目を細めた。けれどいい。俺は首を振る。
「大丈夫……大丈夫。問題ない」
心臓を抑え込むようにして俺は言う。自分に向かって言い聞かせる。
踏み込め。今度こそ。二度と同じ間違いを繰り返すな。
「……無理は、してないよね?」
不安げな奈々那に、笑みで答える。
「銅後輩に構うなってほうが俺には無理だ。今、行けるってことを確信した」
痛みはない。なら問題もない。
つまりどうということもないのだ。
俺ではなく――これは銅後輩の物語だろう。
「……ありがとう。奈々那にはまた助けられたな。あのとき以来だ」
「本当だよ。恩は返してもらうからね?」
「はは……もちろん。てか奈々那、どうせなら恩返しは、大きいほうがよくないか?」
「え? ……伊吹、それって」
大きな恩返しをするということは。
大きく、恩を借りるということ。
「――ちょっと、手伝ってほしいことがある。どうせだから手伝ってくれ」
奈々那は呆れたように笑った。
「どうせって……私、そんなに都合のいい女じゃないんだけどな」
「知ってる。都合のいい俺とは違うからな」
「そう。だから、――言っておくけど私は高いよ?」
構わない。
お前は、それに見合ういい女だろう。
※
中学三年の……さて、いつ頃だったか。
当時、俺はある理由から心身の調子を崩していた。参っていたわけだ。
だからあの時期の記憶は、本当にあやふやになっている。
すっかり腑抜けて、学校でも家でもほとんど喋らず、流されるまま日々を送っていた。人生で最悪の時期だった。
そんな、ある日の放課後のことだった。
「――何してんの?」
中学三年当時、違うクラスだった奈々那が、急に現れて俺に訊いた。
ある日の放課後だった。茜の夕陽に染まった十七時の教室、その景色は今も脳裏に焼きついていて離れない。
「何って……掃除、だけど」
俺はそんなふうに答えたと思う。
奈々那は言った。
「こんな時間まで? ていうか、さっきからずっと床を掃いてるだけじゃん」
「こんな時間って……あれ、もう五時か。気づかなかった。そろそろ帰んなきゃ……」
「ほかの人は? 掃除当番はひとりじゃないでしょ」
「……ええと。なん、だっけ。確か今日は、塾がある……だったっけ?」
「私に訊かれたって知るわけない」
「ごめん、覚えてない。でも普通に帰ったはずだと思うけど」
――それが?
くらいのテンションで俺は言った。
「普通に帰ったって……それ、伊吹に全部押しつけてサボったってことだよね」
奈々那は怒っていた。
このとき、俺は奈々那がなぜ怒っているのかさえ理解できていなかった。
「いや、だから、用事があるんだって言ってたよ。言ってた気がする」
「あやふやじゃん……当番は、伊吹ひとりじゃないんでしょ」
「え? ああ、俺は今日、当番じゃないよ。本当は……誰だったっけ。クラスの誰かだよ」
「――何、それ。当番ですらないのに、伊吹がやらされてるの? おかしいじゃん」
俺にはわかったのは奈々那が怒っているということだけで、なぜ怒っているのかは何もわからない。
だから、火に油を注ぐみたいに、ただ事実を説明した。
「いや、でも……昨日もやったし。あの、最近はいつも俺がやってるんだ。慣れてる人がやれば効率も、たぶんいいし……ねえ、奈々那。なんで怒ってるの?」
ここからは笑い話なのだが、なんと俺はこの直後、奈々那に引っぱたかれている。
頬を。
張り手で。
一切の遠慮容赦なく、本当に痕が残る勢いで。
バチンと一発、ぶっ飛ばされた。
俺はもう、その勢いに持っていた竹箒も取り落とし、どころか普通に吹っ飛ばされて、近くにあった机まで巻き込んで床に転がった。
痛みより混乱が強かった。
「ごめん」
奈々那は俺をぶっ飛ばし、その直後にひと言、そう謝った。
謝ればいいってもんじゃないだろう。
だが睨み殺さんばかりの勢いで、肩を上下させる奈々那の剣幕に、俺は思わず「あ、はい。大丈夫です……」とか答えていた。
そしてやっぱり、意味がわからなすぎて思わず訊いた。馬鹿だ。
「……え。今、なんで叩いたの?」
「怒ってるから」
「ぼ、……暴力はよくないと思うんだけど」
「私も思う。だから謝った」
「……あ、うん……」
「ねえ。ひとつ訊くけど、伊吹って教室の掃除が好きなわけ?」
「え? いや、別に。ていうか、そんな人いる?」
「だよね。私もそうそういないと思う。じゃあなんで伊吹がひとりで掃除してんの?」
「それは……だから、今日はみんな、予定があるって」
「昨日も? 一昨日も? このところずっと予定があるって? あったとしても、それは絶対に外せない予定なの? 掃除もしないでさっさと帰んなきゃ絶対にダメな用事?」
「いや、そんなこと訊かれたって……そこまでは知らないよ」
「知らないのがおかしいって、私、言ってんだけど。当人にやらせるべきだよね?」
「……別にいいだろ」
「よくない。――そういうの、絶対によくないよ」
「なん、でだよ……うるせえな」
俺は、このとき自分が奈々那に乗せられているのだと気づかなかった。
徐々に真っ当な受け答えをしている自分を、自覚していない。
「俺が好きでやってるんだ。奈々那にとやかく言われる筋合いは、」
「ある」
「……いやその。それだと話が……」
「迷惑なの。伊吹にそうやって、遅くまで掃除されてると。別に私は、伊吹に掃除を押しつけて帰った連中に怒ってるわけじゃない。だって、あんたが自分から、それでいいって言ってるんだし。そんな連中、どこにだっているんだから。怒ってたってキリない」
「……め、迷惑って。いったい俺が、いつ奈々那に迷惑かけたって言うんだ」
「うるさい! 私は――私は伊吹に怒ってるんだ! 口答えすんなっ!」
「んな無茶苦茶な……って、奈々那?」
「迷惑だ……、迷惑だ! 私は伊吹が迷惑だっ!!」
ようやくここで、初めて俺は、自分が奈々那に叱られているのだと気がついた。
奈々那は、目尻に涙を湛えていた。俺も泣きたかったが、泣きたいのは俺のほうだとは言えなかった。
自分の何かが奈々那を酷く傷つけたのだと知り、言葉が出てこなくなる。
「えと。……奈々那。その」
「伊吹のせいだ」
奈々那は首を振って、零すように。
彼女は俺に、言ってくれた。
「伊吹がこんなことしてるせいで、私はすっごく心配になる。伊吹が帰ってこないから、私はいっしょに遊べない。伊吹が傷ついてても、何も言ってくれなきゃ力になれない!」
俺は、自分のことで精いっぱいだった。
何もできない自分に、何かひとつでもできることがあればいい。
そんなふうに考えて、そんなことしか考えられなくて――いちばん近くにいた、大事な友人を傷つけた。
「わかってる……最近ずっと、伊吹が落ち込んでたことくらい私は知ってる! だったら言ってよ! なんで自分が傷ついてるのに、自分じゃない誰かのことばっか考えんの! そんな伊吹は見たくないっ! たまには……自分のこと、考えてよ……っ!」
「……ごめん。奈々那、俺、そんなつもりだったわけじゃ」
「うっさいわかってる謝んなバカ伊吹バカ!」
「ば、馬鹿で名前を挟まなくても……」
「……ねえ。私は、伊吹が今のままでもいいよ……こんなことしなくてもいい。何か役に立つとか、手伝ってくれるとか、そんなことで伊吹といっしょにいたわけじゃないよ」
「――――!」
「私、今の伊吹じゃ、嫌だよ……っ」
その言葉に、はっとした。
俺が、俺であるだけでいいと奈々那は言った。
――それこそが、俺の最も欲している言葉なのだと、そのとき俺はようやく知った。
「奈々那」
俺は言った。小さな声だった、と思う。
「何っ!?」
奈々那は叫ぶ。構わない。
聞いてくれているならよかったし、なんなら聞かれなくてもいいと思った。
ただ、それを言葉にできれば。
「――失敗したんだ、俺」
「っ……」
「友達が、いたんだよ。そいつが俺に助けを求めてくれた。だから助けてやりたかった。いっしょにいてやろうと思った。でもそんなこと、なんの意味もなかった。なんの力にもなれなかった。役には立たなかった。俺には、何も、――価値がなかったと思い知った」
「……、それで?」
「それで、終わりだよ。あいつはもういなくなったんだ。もうどうしようもなくなった。だから俺……自分が、誰かの役に立つ人間だと、思い込みたくて……だけど」
取り落とした竹箒を、俺は拾った。
それを見て、ふっと笑う。
何もわからない、なんて嘘だ。
俺がただ何も考えずに、目を背けようとしただけ。
本当はわかっていた。
間違っていることならとっくに気づいていたのだ。
こんな行為にはなんの意味もない。
この程度で生み出せてしまう価値など――こちらから願い下げだろう。
「馬鹿だな。悪かった、奈々那。俺、なんでもいいから、何かやってたかっただけだったみたいだ。都合のいいだけの人間であれば、何も考えなくて済むから。でも」
でもそれで、いちばん近い人間を傷つけるのなら意味がない。
こんな俺にだって、ほかの誰よりも優先したい大事な人間がいるのだ。目の前に。
そのことを思い出させてもらった。
そうだろう。
いつ、俺は奈々那に、ただそこにいてもらうこと以上の何かを求めただろう。
そんな必要があるものか。
それだけで価値があることを、俺は知っているはずだった。
だから。
「もういい。もう、いいんだ」
「……うん」
「帰ろう。たまにはいっしょにさ。そんで今度、どっかに遊びに行こう。今まで放ってて悪かったな。埋め合わせはしっかりするから、楽しみにしててほしい」
俺は奈々那に笑いかけた。
――そして以降、俺は奈々那のために時間を使うようになった。
別に、いっしょにいるだけのことで、それ以上は何もなかったけれど。
その、どれほど気楽だったことか。
俺は調子を持ち直し、今のように、元の自分へと戻ったのだ。
そうしていられる間だけは、
――軋むような心臓の痛みを、忘れることができていた。
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