1-01『好都合男と不都合な未来予想(地獄絵)図』1
――まだほんの小さい頃、俺には未来が見えていた。
別段、遠回しな比喩ではない。言葉通り、ときおり未来を予知することができたのだ。
たとえばその日の夕食の献立とか、次の日に学校を休むクラスメイトの存在とか。その手の、多くはどうでもいい未来の事象が景色として視えることがあった。
大抵はいきなり、視界がまるっきり別の光景に変わるのだ。
友人に曰く、その間は目の焦点も合っていない様子でぼうっとしているらしい。
実際、未来を視ている間、その逆に現実は認識できなくなってしまう。
なんというか、事故に遭わなくて助かった気分だ。
とはいえ、それもせいぜい小学校の低学年くらいまでのこと。
あるときからふっと、その《未来視》の能力は失われた。
あるいは単なる錯覚だったのかもしれない。幼い万能感が、ただの直感をまるで予知のように思わせていただけかもしれない。
俺自身、中学に上がる頃にはそう思っていたし、高校生にもなれば、昔は未来予知ができたということすら記憶の彼方だった。
その事態に変化が訪れたのは、高校一年の春休みのことである。
新学期の前日、四月のこと。二年に進級する直前のある日。
俺は幼馴染みに付き添って外出していた。
「ごめんねー、わざわざ付き合ってもらっちゃって!」
気遣うようにこちらを見つめる少女――
家が隣同士だけあって、その関係は家族ぐるみ。奈々那自身ともちょうど同い年な上、幼稚園から今なお高校に至るまで、通う先の別れたことがない。
「いや、いいよ。別に予定もないし。てかそんなことしたら、
美海姉、とは年の離れた奈々那の実姉である空閑美海さんのこと。
外出の発端は単純で、空閑家と親交のある神社まで、奈々那がお使いを頼まれていた。俺もちょうど空閑家に居合わせており、それならと付き添いを申し出た流れ。
「あはは、やっぱりそっか! なら、悪いけどエスコートしてもらっちゃおっかな」
「ついでにお参りでもしておくよ。そういえば初詣も行ってないし」
「あれ、そうなんだ? もう春休みっていうか、明日からは新学期なのに」
きょとんと首を傾げる奈々那。
ただこれにはひとつの事情があった。初詣に行く暇もないほど、忙しくなる事情が。
けれど、それを素直に奈々那へ告げるのはバツが悪く、俺は言葉を濁す。
「まあ、なんだ。いろいろ忙しかったからな」
「……ああ、そういうことか。ふーん?」
途端、ジト目を向けてくる奈々那。何も誤魔化せなかったらしい。
そりゃそうだろう。奈々那だってクラスは同じなのだし、俺が去年一年間、どういった状況に置かれていたのかは完璧に把握している。
「そうでしたねー。佐野伊吹委員長は、お姫様のお世話で忙しかったですもんねー。いやまったく、《冬泉係》様は忙しくって大変ですことー」
皮肉っぽい言い方。
それが痛烈な批判であることは、どんな鈍感でも察するだろう。
冬泉小姫。
学校には滅多に顔を見せない、超希少種族の引きこもり。
その生活能力たるや、ひとり暮らしという選択が遠回しな自殺にしか思えないレベル。
高校一年の冬休み。
俺にとってのそれは、ほぼ冬泉の介護に明け暮れる日々だった。
「仕方ないだろ。俺は学級委員長で、だから《冬泉係》に任命されたわけで。そりゃ俺もここまで面倒なことになるとは思ってなかったけど、でも一度は引き受けたわけだし」
「別にわたし、何も言ってないんですけど。てかもう何度も言ったし」
奈々那のじとーっとした視線が、心に突き刺さって痛む痛む。
普段は快活な笑顔の友人だ。明るめのベージュっぽい色合いをしたストレートヘアが、その印象を強くしている。常に誰かといっしょにいる、世話好きな一面もあった。
そんな奈々那から向けられる非難の視線は、さすがにダメージが大きい。
「……悪かったよ」
「いや、だからわたしに謝られても知らないから」
思わず謝ってしまう俺に、奈々那は呆れた様子で息をついた。
確かに、奈々那に謝っても仕方がなかった。この優しい幼馴染みは、俺のことを案じてくれているだけ――その意志の弱さを、心配して言ってくれているだけなのだから。
「伊吹も懲りないな、と思っただけ」
「懲りない、って……」
「そりゃそうでしょ。だって伊吹、自分で言ったんじゃん。高校では《都合のいい男》にならない、って。わたしと約束した気がするんだけど?」
「……はい、しました……」
「だよね。で、その結果がクラスの女子の通い妻と……そりゃわたしだって呆れるよ」
「…………」通い妻という表現はともかく。
確かに、俺は約束した。
今だって当然そのつもりで、決意を忘れたつもりはない。
――中学時代と同じ失敗を、二度と繰り返すことのないように。
「ま、無理だとは思ってたけどね。伊吹の世話焼きは、ほとんど病気の域だから。むしろ年々酷くなってる。いくらなんでも、昔はここまでじゃなかったと思うんだけどな……」
そんなことを言う幼馴染みに、俺も反論を試みる。
「いや、俺も最近は、冬泉には割と厳しくしてるんだぜ?」
けれどそれが、奈々那に通じることはなく。
「はあ? どこがだし」
「どこがって――」
「頻繁に家まで通って? 宿題や提出物、プリントは全部届けてあげて」
「だから……、それは、俺が学級委員長だから、頼まれてだな」
「それだけならまだしも、たまに学校に来るときは送り迎えまで全部やって」
「……えーと」
「買い物から食事まで全部世話して。掃除もして。ほぼハウスキーパー並みの仕事量で? わたし、わからないから伊吹に訊くんだけど、それのどこが委員長の仕事なの?」
どこがだろう……。俺もさっぱりわからない。
「で、でもほら。今は、あれだぞ。ちゃんと冬泉も、食べ終わった食器は流しに出し、」
「――で、それ誰が洗ってるの?」
「俺ですね……」
「そもそも今までは食事の世話されて、流しに出しすらしてなかったと?」
「そうです……」
「呆れた……それ、言っとくけど異常だからね、伊吹。中学のときと何も変わってない」
頭を抱えて首を振る奈々那。
俺自身、この状況が普通ではないことなら理解していた。
「なんならわたしから、係を外してもらえるよう頼んでみようか?」
「いいよ。それを奈々那に言わせるのは違うし、別に係だからやってるってわけでもない。あと、それ以上に――」
「何?」
「――もしも今やめたら、冬泉が死ぬ」
「あー……」
これは本当に冗談抜きで。
あのダメ人間に、ひとりで生きる能力など微塵も備わっていない。
「まあ、変わってるからね、冬泉さん」
これには奈々那も納得したらしい。
「とはいえ、ほどほどにしておきなよ? 言っても無駄だとは思うけどさ」
「ん。……ありがとな」
「……、べっつにー」
少し照れ臭そうに顔を背ける奈々那。その気遣いが俺は嬉しかった。
奈々那とは、友人を通り越して家族のような関係だ。
感覚としては双子の兄妹だろうか。付き合いが長いだけあって、お互いのことは、全てとは言わずともよく知っている。
こういう関係を、誰とも築ければしあわせだろう。そう、素直に思えるほど。
だからこそ申し訳ない気持ちにもなる。
他人を甘やかさない。それは自分を甘やかしているのと変わらない。
奈々那から言われた言葉だった。
俺も同感だ。
でも俺がいないとマジで死んじゃう冬泉も悪いと思うんですよね……。
「――っと。それじゃわたしは、神主さんとこに挨拶してくるけど」
そうこうしているうちに、目的の神社まで到着した。
付き添っては来たが、用件を邪魔する気もない。俺のほうは境内に行って、素直に参拝してこようと思う。
「外で待ってる。終わったら呼んでくれ」
「ん、りょうかーい。そしたらまたあとでー」
神社の階段を昇ったところで、奈々那と別れて別行動に。
俺はそのまま本殿のほうへと向かう。社務所はこことは別の場所にあるため、奈々那はそちらに向かった。俺は賽銭箱に五円玉を投げ入れ、遅い初詣とする。
さて、しかし何をお祈りしよう?
特に考えも浮かばない。
今年こそ冬泉が自立できますように、とか祈るべきだろうか。
――幻覚妄想に襲われたのは、そんなことを考えたとき。
「ん……っ!?」
突如として目の前が白けた。強い光を、いきなり目に浴びせられた感覚。
けれど眩しさは感じない。
開いた瞳の先の、視界だけが霞んでいくみたいに感じる。
それも一瞬。
瞬きの暇すらなく、気づけば俺は見知らぬ《光景》を目の当たりにしていた。
――な、なんだこれ……!?
そう声に出した、つもりだった。だが音が鼓膜を揺さぶらない。
部屋だ。部屋があった。見覚えのない部屋である。
どこかのマンションの一室だろうか。割と広い作りで、なんとなく家賃は高そうだ。
ディティールまで細かく把握できるはっきりとした光景。
敷かれたカーペットの色も、床の模様も、窓際の小物から、観葉植物の葉の一枚まで――全て余さず確認できる。
どこか懐かしい感覚だ、とはこのとき思った。
光景の話ではない。見ている世界には、あくまでなんの覚えもない。
ただ、そういったよくわからない光景を見るという感覚、それそのものが懐かしい。
と、している間に音がした。
鍵を開く音、だと思う。ガチャリと扉が開かれ、「ただいま」と男の声がした。
その瞬間、同時に別の物音がする。
広い居間の端っこ。隣の部屋へ通じているのだろうスライドドアががらりと開き、その奥から、銀色の髪の女性が姿を現したのだ。
――うお……っ!?
思わず声を出しそうになった――いや、出てしまったのだが、やはり音はない。
思わず顔を背けようとしたが、その顔自体がやはりない。意識だけで浮遊しているような感覚。
奥から現れた見知らぬ女性の、あられもない姿に緊張してしまったのだ。
下着姿だった。
黒だった。
黒だったこと言わんとダメだった?
わからない。
いや。というか、この女性を、俺は本当に知らないのか――?
銀髪の、おっぱいの大きい女性が言う。
「おっかえりー、伊吹くーん!」
――!?
その瞬間の衝撃といったらもう言葉にならない。こやつ、今、何、言った?
がちゃり、
驚く俺を尻目に、今し方の女性が出てきたのとは違う扉が開かれる。
そこから、なんか――キラッキラ☆した男が姿を現した。
「やあ☆ ただいまハニー。いい子にしていたかい?」
そしてなんかキラッキラ☆(暗喩)したことを言い始めた。
ハニーて。
お前。
今どき。
そんな。
マ?
――ていうか今お前なんて呼ばれて――。
「もちろん! というか伊吹くん、ちょっと帰りが遅いんじゃないかい?」
「今日は会議が長引いてね。すまない、マイガール」
呼び方にバリエーションつけてんじゃねえよ。
じゃない。違う。もうそんな些細なツッコミどうでもいい。
「ささ、さっそくご飯にして! お風呂にして! それからわたしとゲームしてっ!」
銀髪の女も銀髪の女で要求が厚かましい。
「ほら見て。ついに達成したんだよ、このゲームで、記録を!」
銀髪の女性は、天真爛漫な幼児みたいな笑みで、手に持っていた携帯ゲーム機の画面を伊吹と呼ばれた男――きっと同姓同名の誰か――に見せる。そして、
「ふっふっふー。苦節一か月、ようやくRTA世界ランク一位達成だぜい」
「やったね、おめでとう。今夜はお祝いだ」
「うーん、達成感すごいなあ……このために生きてるよ。仕事もせず養われてプレイするやり込みは快感だよね。伊吹くんも仕事辞めればいいのに」
「死ぬよ☆」
いや『死ぬよ☆』ではない。何笑ってんだコイツ。キラめいてんじゃねえ。
少なくとも、この下着姿の銀髪女性が凄まじいダメ人間であることは理解できた。
そして俺はひとり、銀髪のダメ人間を、これでもかと言うほどよく知っている。
――いや待て待て待て待って、待ってください待ってウェイト。え……?
混乱する俺。いや、すでに答えは理解していた。
その男が誰なのかも、その女が誰なのかも、嫌というほど理解している。少し成長していたが、面影ははっきりと残っていた。
「それじゃ、改めて。お帰り、伊吹くん。お仕事お疲れ様」
銀髪の女性が言って。
「ああ。ただいま、小姫。さっそく夕食にするから、テレビでも観て待っていてくれ」
キラめいている男が言った。
――嘘だろ。
え。これ……俺と、冬泉なの……?
絶望する俺の目の前で、容赦なく地獄は繰り広げられる。
「うーん、汗かいちゃったかなあ。久々にお風呂入らなきゃダメかも」
「すぐに用意しよう☆」
するな。
「あ、そうだ。また新発売のゲームを買いたいんだけど」
「お小遣いを置いておくよ☆」
やめて。
「てかさー、たまにはいっしょに遊ばない? ネット対戦ももう飽きちゃって」
「明日は休むと部長に伝えるね☆」
お前もう本当に大概にしてください。
――なんだこの地獄絵図。
ディストピアかよ。冬泉も大概めちゃくちゃだけど、俺も俺で頼られるたびに顔をものすごいキラキラさせてるの怖すぎるんですけど。最低最悪の共依存じゃないですか。
このとき、俺はようやくのように思い出していた。
まだほんの幼い頃、俺には確かに、未来を視る能力があったということを。
この感覚は、あのときのそれによく似ている。
ならば。
これが俺と冬泉の、至り得る未来の光景だというのならば――。
「ね、伊吹くん。いっしょにお風呂入ろ?」
「いいとも☆」
いっそ思春期のリビドーが見せた都合のいい幻覚妄想であればいやダメだ何も都合よくない。ぜんぜん嬉しくない。いくら俺が思春期でもこれは嬉しくない。自分すら騙せない。
死にたい。ダメだ。ショックが何ひとつ隠せない。
ああ。
「い、嫌あああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
俺は心の底から絶叫を発して。
そのまま、ぷっつりと意識を失った。
そしてリアルに救急搬送された。
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