第3話 お母さんとラブコメはできません。


「おかえりなさい、しょーちゃん」


 学校から帰宅して玄関のドアを開けると、またもエプロン姿の繭香が奨吾を出迎えた。

 しかし今回は制服にエプロンではなく、その下は部屋着だ。半袖の白いTシャツに、ジーンズタイプのショートパンツ。

 動画を撮られたことの文句を言おうと思っていたのに、そのすらりと伸びた真っ白い脚がまぶしすぎて、奨吾は言葉を失ってしまった。


「ぼーっとしてどうしたの? しょーちゃん」

「あ、ああ! ただいま。帰るの早いね」

「夕飯の準備しないとだから」

「えっ、もう?」


 時計を見ると、まだ午後の四時。夕飯の準備をするには少し早い時間のように感じた。


「確認だけど、朝みたいにたくさん作らなくていいからね?」

「わかってる。今度は失敗しない」


 ポニーテールがぴょこんと跳ねる。

 料理をするのに邪魔になるからだろうか。彼女は胸元あたりまである髪をいつもおろしているので、その髪型は新鮮だった。今の健康的な格好とよく似合っている。そしてとてもスタイルが良い。


「というわけでしょーちゃん、お風呂に入ってきて」

「は? なんで?」


 まるで脈絡がなかった。すると繭香はハッとして「こっちのがいいかな……」と、ぼそりつぶやいてから言い直した。


「ごはんにする? それともお風呂?」

「それ新婚夫婦のせりふだよね? お母さんじゃなかったの?」

「そう、私はお母さん……!」

「いや、違う! お母さんじゃないよ!」


 危なかった。しかも自分で口にしておきながら、『新婚夫婦』という言葉に鼓動が速まってしまっている。


「外、暑かったでしょう? 汗をかいたらお風呂に入ったほうがいいと思って」

「まぁ暑かったし汗もかいたけど。でもあとでいいよ」

「スースーする入浴剤買ってきた。お風呂が青色になるやつ。しょーちゃんそういうの好きでしょ」

「俺も初耳だよ」

「とにかく入って」

「いや、だからいいって」

「……お風呂が青色になるよ?」

「わかりました。入ります」


 負けた。奨吾はがっくりと肩を落とす。繭香の透明感ある大きな瞳は、有無を言わせぬ目力を持っている。理由も言わずに席を譲れと言われ、うなずいてしまった中村くんの気持ちがよくわかった。


「じゃあ、お風呂掃除してくるね」


 繭香がスリッパをパタパタと言わせて、浴室へと向かっていった。足音が弾んで聞こえた。よほどスースーする青い風呂に入ってほしかったらしい。


「入浴剤なら無着色のハーブでも選びそうなイメージなんだけどな」


 ひとり言を言いながら、冷蔵庫を開けてよく冷えた麦茶を飲んだ。

 ごくごくと飲みながら、奨吾は冷静になろうと考える。パニックに陥って繭香のペースに呑まれてしまうと、朝の二の舞だ。

 いかにも子どもが喜びそうな青い着色のされた風呂を用意したのは、おそらく自分のためなのだろう。やはり彼女は、お母さんとして奨吾のことを子ども扱いしたいのだ。

 いったいどうしてお母さんなのか。

 繭香がお母さんを名乗り始めたのは両親がそろって出張になった翌朝からなので、それがスイッチであったことは間違いない。

 家事を張り切っている様子から、母親代わりを務めたいのだろうということは推測できるが、何も自分が「お母さん」と名乗る必要はない。

 奨吾と仲良くなりたかったとしても、「お母さん」になる必要はない。むしろ「お母さん」なんてごめんだ。

 謎は深まるばかりだった。


「おっと、麦茶がなくなった」


 悩んでいるうちに麦茶を飲み干してしまった。最後の一杯を飲んだ者の責任として、奨吾は容器をすすぎ新しい麦茶パックと水を入れる。それを冷蔵庫に入れた時だった。


「きゃあっ」


 浴室から、悲鳴が聞こえた。


「どうしたっ!?」


奨吾が慌てて駆けつけると、そこにいたのは――びしょぬれの繭香だった。


「だ、大丈夫っ!?」

「お、お湯を入れようとしたら間違えて……」


 洗い場にへたり込んだ繭香に、シャワーの水が勢いよく降り注いでいた。その様子を見て把握する。浴槽に湯を張ろうと思ったが、間違えてシャワーの蛇口をひねってしまったのだ。


「ああっ、ご、ごめんっ!」


 奨吾はとっさに謝っていた。

 この家の風呂は、自動湯沸かし器ではない。カメラマンをしている父親がデザインに凝ったせいで、風呂場はあえてレトロな作りになっている。ここで暮らす前、最新式のオートロックマンションに住んでいた繭香にとって、蛇口をひねってお湯を入れるというやり方はかえってわかりづらかったのだろう。

 申し訳なさから、奨吾は慌てて水を止めようとして、ぎょっとした。

 繭香の白いTシャツがびしょぬれになってぴったりと肌に張り付き――下着が透けてしまっている。


「は、早く上がって!」

「なにをそんなに慌てて……」


 目を逸らす奨吾に、ようやく自分の状態に気づいたらしい。視界の端で繭香が真っ赤になっている。


「こ、これ!」


 繭香の方を見ないように努めつつ、バスタオルを引っ張り出して渡してやる。繭香はそれを肩からかけ、少し気分が落ち着いたのか、恨みがましい上目遣いになっていた。

 ぬれそぼったポニーテールから、雫がぽたぽたと垂れている。

 その姿が妙に色っぽくて、こんなときだというのに体温が上がってしまう。


「……見た?」

「み、見てないよ」

「ほんとうに?」

「うっ……ご、ごめん。少し」


 繭香が顔を上げ、キッとこちらをにらんだ。奨吾はどんな叱責も覚悟しようと、ぎゅっと歯を食いしばった。


「私、なんてことを……」

「えっ?」

「だってお母さんなのに……」

「ああ! 気にすることじゃないよ! この風呂、おやじが変にデザインに凝ったせいで、わかりづらいんだ。陽人も一回間違えたし……」

「そうじゃない。私、お母さんなのに、恥ずかしがってしまった」

「…………はい?」

「お母さんなら子供に下着を見られたって平気なはず」

「い、いや、どうだろう? お、お母さんだって恥ずかしいんじゃないかな? よく知らないけど」

「そんなはずない。お母さんは、子供に何を見られても、どんなことをされても平気」

「お母さんにも人権あるから!」


 すると繭香がおもむろに立ち上がり、奨吾の目をじっと見た。


「え? ま、繭香……? どうしたの……?」

「……やり直し。だって私はお母さんだから、しょーちゃんには何を見られても、どんなことをされても平気。だから……脱ぐ」


 その宣言と裏腹に、繭香の頬は真っ赤だった。必死に何かを耐えているように、ぎゅっと目をつむり、唇を噛んでいる。シャツを持ち上げようとしている指先は、震えていた。

 目の端には涙までにじませて。

 なんでそこまで。

 奨吾はあまりに必死な繭香を前にぼんやりしてしまったが、我に返る。

 こんなこと、させていいわけがない。


「わ、わかった! じゃ、じゃあ……風邪をひいたら困るから、先にシャワー浴びてよ」

「で、でもしょーちゃんが先に……」

「ほ、ほら。お母さん……的な存在の人は、いつも元気でいてほしいから……」

「……しょーちゃんがそう言うなら」


 繭香は安心した表情になった。彼女の気が変わらないうちにと、急いで浴室に押し込みドアを閉めた。


「あーびっくりした……」


 まだ胸がドキドキしている。

 一緒に暮らす上で、奨吾が一番気を遣っていたのは風呂だった。

 風呂に入るときは必ず声を掛けてバッティングしないようにしていたし、繭香が風呂に入っているときは浴室には近寄らないようにしていた。

 それなのに、下着を見てしまった上、目の前で脱ごうとするとは。

 同級生の美少女であればうれしいが、相手はお母さんである。いや、お母さんではない。お母さんではないが、お母さんだと言い張っている以上、あれはお母さんに迫られているのと同じ。

 さっき見た彼女の姿が頭に浮かんでしまい、奨吾は慌てて首を振った。


「いや、そもそもあんなお母さんいねーよっ!」


 思わず虚空に向かって叫んでしまう。お母さんがゲシュタルト崩壊していた。


「少し頭を冷やそう」 


 冷たい飲み物を飲もうと、冷蔵庫を開ける。

 麦茶はまだ色が出ていなかったので、奥にあるペットボトルのスポーツドリンクを取り出そうとして、ぎょっとした。


「……なんだこれは」


 先ほどは気づかなかったが、冷蔵庫には食材がぎっしり詰まっていた。


「これ……今日の夕飯の分じゃないよな……?」


 朝食バイキングのことが頭をよぎる。しかし、夕飯は適量でとお願いしたばかりだ。おそらくこれは数日分の量なのだろう。

 しばらくして繭香がシャワーから戻ってきたので、念のため尋ねてみる。


「あのさ、今日の夕ご飯って何かな?」

「中華」


 中華と和風と洋風などと、またバイキング形式になっていたらどうしようかと思っていたが、ほっとした。ジャンルが一種類であれば、そんなにも量が増えることはないだろう。


「いいね! 中華は好きなんだ」

「よかった。メニューはね、麻婆豆腐と卵スープ」

「楽しみだ」

「と」

「……と!?」

「ギョーザと春巻きとチンジャオロースとホイコーローと」

「うん、ちょっといいかな?」


 今度は中華バイキングが始まろうとしていた。


「なに?」

「あの、なんていうか、メニューがちょっと多いかなって」

「しょーちゃんは育ち盛りなんだから、たくさん食べないと」

「いや、たぶんもう育ち盛りじゃないんだ。俺のピークは中二だから」

「たくさん食べたらきっとまだまだ育つ」

「そういうことじゃなくて」


 繭香はきょとんとした顔で、小首を傾げた。100パーセント善意でやってくれていることがわかるだけに言いづらい。

 どう伝えたものかと考えて、あることを思いついた。


「えっと……そうだ! 俺からのお願いなんだどさ」

「しょーちゃんからのお願い? お母さんなんでも聞く」

「料理のメニューは一種類でいいんだ」

「それで足りるの? ほんとうに?」

「ああ、量なんて、白飯がたくさんあれば満足だからさ」

「そういうものなの?」

「ああ、うまいおかずがあれば白飯何杯でもいけるよ」

「そうなんだ……わかった。じゃあ今日のメニューはギョーザと卵スープにする。ギョーザの餡、もう作っちゃったから」


 繭香はエプロンの裾を両手でもじもじといじりながら、しおらしく頷く。お母さんへのお願い効果はすごかった。


「じゃあ、お母さんからもひとつだけお願いしていい?」

「あ、ああ。お母さんじゃないけど、いいよ」

「青いお風呂、いまから入ってきて?」

「いや青い風呂、めちゃくちゃ押すな?」


***


 というわけで、奨吾は風呂に入ってきた。

 まさか「お背中流します」とか来ないだろうなと戦々恐々していたのだが、さすがにそれはなく。

 無事に風呂から上がり、奨吾はリビングのソファに腰掛けた。

 ちなみに青い風呂はかき氷のハワイアンブルーのような真っ青な色で、子どものころだったら、たぶん無意味にテンションが上がってしまっただろう。しかしそれだけでなく、ミントソーダの香りと清涼感があり、暑い夏にぴったりだった。

 体がスースーとして気持ちがよく、腹もほどよくすいてきた。このあとに味の濃い中華料理が食べられるなんて最高だと、奨吾は手足を伸ばした。

 リビングからはキッチンが見えるようになっているので、繭香の様子を伺う。そこで、おやと思った。

 彼女は一生懸命にギョーザを包んでいるのだが、なんとなく、その手つきがぎこちないように見えたのである。


「あの」

「ふぁっ」


 繭香の肩がビクッと上がり、包んでいたギョーザをぼたりと落としてしまった。


「驚かせてごめん! 何か手伝うことないかなって思って」

「な、ない。しょーちゃんは、ゆっくり休んでればいい。お母さんギョーザ作り得意だから」

「それならいいんだけど……ん?」


 拾い上げると、そのギョーザは妙な形をしていた。よく見る一般的なあの形ではなく、なんというか、形容のしがたい斬新な形だ。

 繭香の頬がみるみるうちに赤くなる。


「……もしかして、包むの苦手?」

「そんなことない」

「でも、これ」

「これは令和の新しいギョーザの形」

「手伝おうか?」

「しょーちゃんに料理させるなんてダメに決まってる。ケガする」

「いや、ギョーザ包むのにケガはしないと思うけど」

「とにかくお母さんはギョーザ作り得意だから……」


 言いながらギョーザを包んで見せる繭香だが、言葉とは裏腹にギョーザの皮が破れてしまう。


「う……」

「や、やっぱり手伝うよ!」

「ひとりでできる! だって……私は……お母さんなんだから……」


 言っているそばから、ギョーザの餡がボロボロと落ちる。見ていられなかったが、ここまで頑として断られては、どうやって手伝ったらいいものかわからなかった。

そのときふと、脇に置かれたあるものに目が留まる。それは『誰でも簡単! はじめての料理レシピ』という本だった。


「え? これって……」


 ページのいたるところに付箋が貼ってある。気づかれないようにこっそり開くと、なかにもそれは貼られていて、繭香の文字でメモが書かれていた。


『ほうれん草はあく抜きをすること!』

『ソースはネットレシピを調べる』

『冷めてもおいしいのでお弁当に最適』

『こげないように注意!』


 ……そういうことだったのか。


 奨吾はぎゅっと唇をかみしめる。

 繭香は料理がうまいのではなかった。料理初心者だったのだ。

 そうと知ったら、彼女が取った不可解な行動にも納得がいく。帰るなり風呂を勧めてきたのは、作っているところを見られたくなかったからだろう。朝に尋常ではない大量の料理を作ったのは、それが練習も兼ねていたからだ。奨吾の目を気にせずに料理ができる時間は限られている。陽人が、繭香が珍しく眠たそうだと言っていたことを思い出した。きっと、とてつもない早起きをしたのだ。もしかすると徹夜かもしれない。

 レシピを熟読して忠実に作った料理は絶品だった。でもそれは、料理初心者の彼女にとってどれほど大変だっただろう。


「家事は得意だから、すべて私に任せて。あなたは何もしなくていい」


 自分は、どうして繭香の言葉を疑わなかったのか。

 のんきに繭香の作ってくれたものを食べていた自分に、腹が立った。

 学校での繭香は、成績優秀でなんでもできるパーフェクトな美少女だ。しかしだからといって、家でもそうであるとは限らないのに。

 最後に目を留めたメモには、こう書かれていた。


『お父さんに聞いたしょーちゃんの好物』


 彼女が自分のことを「お母さん」だと言い張る理由はわからない。でも、奨吾のためにこうなっているということだけは確かだった。


「繭香! やっぱり、俺もやるよ!」

「まだ言ってるの? 私はお母さんなんだからひとりで――」

「ギョーザは親子で作るものだろ!?」


 繭香の言葉を遮るように、奨吾は叫んだ。


「え……?」

「ほ、ほら聞いたことあるだろ? ギョーザパーティー。子供はギョーザの皮包むの好きなんだよ。粘土遊びみたいでテンション上がるんだって。だから親はやらせてやるものなんだ」

「そうなの?」

「だ、だから、その……一緒に作ろう?」

「……分かった」


 しばらく考え込んでいたが、彼女はうなずいてくれた。


***


「こうしてひだを作って、と……なんだこれ? 全然うまくできない」

「しょーちゃん、下手」

「し、仕方ないだろ! 俺だって初めてなんだから。ていうか人のこと言えないだろ!」

「残念でした」


 繭香がきれいに包まれたギョーザを掲げて見せた。

 手先の器用な彼女は、もう包み方をマスターしたらしい。


「ちくしょー! 俺だって……ああっ! 皮が破れて中身が出てきた!?」


 慌てる奨吾を見て、繭香が小さく吹き出す。


「い、いま笑ったな?」

「笑ってない」

「いーや、笑った!」

「できあがったギョーザ、焼いちゃうね」

「くっそー!」


 繊細なギョーザの皮と悪戦苦闘しながら、フライパンを振る彼女をちらりと横目で見た。

 風呂上がりの髪は無造作に結ばれていて、そのラフな感じは彼女をより幼く見せている。なんだか無防備で、ちょっとドキドキした。

 奨吾が見ていることに気付いている様子はない。学校では誰とも話さないクールな美少女のこんな姿を知っているのは、おそらく自分だけだろう。

 それはまるで、誰もが憧れる美少女と恋人同士になったかのような優越感。

 ギョーザを包みながら、少しだけ顔がにやけてしまった。

 が、しかし。


「できた。しょーちゃんとお母さんの愛情の結晶」


 繭香の弾んだ声で、奨吾は我に返る。


 恋人同士じゃない。

 俺たちは親子(という設定の元)で、彼女は『お母さん』として、奨吾と接している。


 それはなんだか、とても胸が苦しくなった。

 繭香に惹かれ始めている自分がいる。彼女はお母さんなのに、家族とも思えそうにない。

 ピピピッと、炊飯器からごはんが炊ける音が鳴った。それはまるで、奨吾を現実に引き戻す合図かのようだった。


「……って、お母さんじゃないけどな!」


 勢いよく炊飯器のふたを開け「わっ」と驚く。

 そこには、たっぷり五合の米が炊かれていた。


***


 ――翌朝。

 予感はあったのだが、両親が帰ってきたと同時に、繭香の「お母さん」スイッチは切り替わった。


「あの、おはよう繭香」


 朝食のため、リビングに入ってきた繭香に奨吾は声をかけたのだが。


「……」


 何も言わず、ふい、と視線を外してしまった。

 それは今まで知っている、同級生の藤村繭香だった。

 昨日一日が、特別だったのだろうと思う。

 奨吾は少し寂しい気持ちになったが、これで良かったのだと自分に言い聞かせた。


 だって繭香に恋をしてしまったのだから。


 そして、『お母さん』とは、ラブコメできない。




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