第9話後編 お母さんじゃなくて同級生と夏祭りに行きます。

 繭香が夏祭りにはじめて行くと聞いて、奨吾はある決意をした。

 それは彼女をとことん楽しませるということ。買いたいものをメモに書いてしまうほど、行きたかった夏祭り。「お母さん」モードの彼女じゃなければうまく話せない、なんて言ってはいられなかった。

 繭香は本当に夏祭りがはじめてのようで、賑わう屋台をひとつひとつ珍しそうに見ていた。そして彼女の視線がある屋台に留まる。メモにも書いてあった、金魚すくいだった。


「やってみる?」


 尋ねると、少し迷ってから首を振った。


「どうして?」

「だって、水槽がない」

「それなら大丈夫。うちに小さいのがある。どうせそんなにはとれないし、一匹や二匹なら余裕だよ」

「でも……」

「とりあえずやってみようよ」


 奨吾は渋る繭香を強引に誘い、「いらっしゃい!」と威勢よく迎えたおっちゃんに二人分の金を渡した。金魚すくいは小学生以来だ。ちなみに家にある小さな水槽は、そのとき買ってもらったものである。

 おっちゃんからポイと碗を受け取ると、二人は水槽の前にしゃがんだ。赤い小さな金魚と、少し混ざった黒の出目金が、ゆらゆらと大量に泳いでいる。小学生のころに感じた高揚感を、奨吾は思い出していた。

 いっぽうの繭香は、どうしたらいいかわからないというふうに、ポイと碗を手におろおろと奨吾の顔を覗き見た。


「こうやってすくうんだよ」


 空中でやって見せる。


「で、できるかな」

「大丈夫。網の真ん中は破れやすいから、端っこを使うんだ」


 そうアドバイスすると、おっちゃんが「兄ちゃん、通だねえ」と笑った。向かいにいた小さな子どもが見事すくい上げ歓声を上げる。その横では、張り切って大物を狙った男の子が豪快に網を破いていた。


「いっくぞー!」


 奨吾の掛け声に、繭香も張り切って浴衣の袂をまくる。彼女にいいところを見せようと、なるべく軽そうで小さな金魚を探して目で追った。その横で、


「えいっ!」


 と、声がしたので見ると、繭香が迷いなくポイを水中に入れていた。狙ったのはおそらく、一匹だけ目立っている尾ひれのひらひらとした大物だ。

 大物は一瞬だけ網の上に乗ったが__一度濡れてしまった網は重みに耐えきれず、ぱちゃん! と金魚が水に跳ねた。


「……とれなかった」


 繭香がむうっと膨れる。おっちゃんが「姉ちゃん、惜しかったな」と言って、ニヤリと笑った。その笑顔を見て奨吾は確信する。あのひらひらの金魚はおとりだ、と。

繭香が逃したあと、今度は周りにいた子どもたちが一斉にそいつを狙った。誰だって、目立つきれいな金魚が欲しい。しかし懸命な挑戦もむなしく、皆玉砕をしていた。紙でできた網に、やつの重さは耐えきれないのだ。

 そうして、哀れな子どもたちは小遣いを無駄にしてしまうというわけである。

 そのからくりを理解しながら、ひらひらのでっかい奴を狙うなんてバカだ。しかし初心者の繭香が大物を狙うという賭けの勝負をした姿を目の当たりにしておきながら、自分だけが安全な道を選ぶなど、男がすたるというものだろう。

 奨吾はターゲットを変えた。繭香のリベンジである。


「あのひらひらの奴は俺がとる」

「……ほんと?」

「だって、欲しいんだろ?」

「うん、欲しい」


 繭香の目が輝いており、本当にこれが欲しいのだとわかった。奨吾は小さく頷く。彼には作戦があった。


「まずは慌てず動きを追う。奴が隅っこに来たとき、一気にいくぞ!」


 さっき玉砕した子どもたちのように、やみくもに網で追い回すような愚行はしない。これが大人(高校生)のやり方である。


「奨吾、がんばって!」


 繭香の応援を背に受けて、奨吾はターゲットに挑んだ。まずは動きを把握する。

奴は数多の人間の手から逃れてきた、いわばこの水槽の主である。その名にふさわしく、ゆらゆらと尾っぽを振って優雅に泳いでいた。奨吾は主に悟られないよう、静かにそれを追う。そしてじわじわと壁際に追い詰めていった。

 この世界には果てがある。主が壁際にぶつかったそのとき、奨吾は「今だっ!」と、素早くポイを水中に入れた。なるべく網を濡らさないよう、端っこにその体を乗せる。そして壁をつたうようにして一気に持ち上げた。そして__。


 ちゃぷん!


 ひらひらの金魚は見事、奨吾の椀にダイブしたのである。


「やったぁー!」


 獲物の入った椀を思わず掲げる。金魚すくいの主である奴に玉砕した子どもたちも、感嘆の声を上げた。


「繭香! とったぞ!」


 椀の中でも優雅に泳いでいるひらひらの金魚を見せる。言ってから、その姿がまるでお母さんに成果を自慢する子どものようだったので、恥ずかしくなった。せっかく理想どおり同級生の藤村繭香と夏祭りデートをしているというのに、息子ムーブをしてしまうなんて。

 繭香はそんな奨吾を無表情で見ていた。いけない、この顔は「お母さん」になるときの表情だ。きっと「しょーちゃん、えらいえらい!」と頭を撫でられ、いつかのスーパーのときのようにキッズたちを恐怖のどん底に突き落としてしまう!

 すると繭香がぐっと身を寄せた。やはり「えらいえらい!」か? と身構える。しかしそうではなかった。彼女はごく自然に奨吾の腕を取り言った。


「奨吾、すごい!」


 あ、藤村繭香のままだ。


 それはうれしい誤算だった。彼女は珍しく興奮しているようで、その頬は上気し、いつもきりっとした瞳がまんまるになっている。やっぱり今日は、お母さんになることはないらしかった。


「一発でとれるなんてすごい。奨吾は金魚すくいの天才?」


 繭香が真剣な顔をして尋ねる。しかし奨吾は、いま自分の腕を彼女がぎゅっと握っているという重大事項で頭がいっぱいで「いや、その」としどろもどろになることしかできなかった。


「はいよ。兄ちゃん、見事だったぜ」


 主をとられてしまったおっちゃんは、しかし清々しい表情でひらひらの金魚を袋に入れて渡した。受け取った金魚をそのまま繭香に渡す。


「えっ、いいの」

「だって繭香のためにとったんだから」

「あ、ありがとう」


 彼女は礼を言って恥ずかしそうにうつむく。その下で彼女が微笑んでいるのがわかって、それを見た奨吾はいままで感じたことのない幸福感に包まれた。



 そのあとは繭香のリストに書いてあったことを全部した。どの色にするか迷いながらりんご飴を買って、かき氷でもまた、いちごかレモンにするかを迷った。あんまり繭香が迷うので「自分のを一口あげるから」と言って奨吾がレモンを選ぶ。かけ放題の練乳を、笑ってしまうくらいにたくさんかけた。


「それじゃあ、はい。レモン、ひとくち」


 今度は奨吾が、繭香に「あーん」をする。彼女の小さな唇が遠慮がちに開き、奨吾は震える手で恐る恐るレモンイエローのかき氷を口の中に入れた。


「……つめたい」

「あっ、ご、ごめん!」

「ううん。おいしい」

「そっか、よかった。レモンと交換する?」

「ううん。どっちもおいしいから」

「そっか」


 赤くなったことを悟られないよう、奨吾はそっぽを向く。「あーん」するほうも緊張するだなんて、ちっとも知らなかった。

 かき氷を食べ終わり、二人は屋台が並ぶ道を歩く。繭香はときどき、うれしそうに金魚を見た。そういえば、と夕飯を食べていないことを思い出す。気づけば小遣いはほとんど使い果たしていて、だから焼きそばをひとつだけ買った。


「半分こしよう」


 どちらともなく言う。ごく自然にそうなったことが、なんだか妙にうれしかった。野菜はキャベツの切れ端が少しだけ、肉なんてほとんど入っていなくて、ソースの味だけがやたらと濃い焼きそば。

 でも今まで食べた焼きそばの中で、奨吾は一番おいしく感じた。


***


 繭香のリストにあった欲しいものはすべて買い、夕飯も済ませたところで手持ち無沙汰になった。やることがあるうちはそれをネタに会話も弾んだのだが、奨吾はすっかり口下手に戻ってしまう。

 奨吾が無口になるのと反比例するように、縁日は大いに賑わっていた。そのとき、大学生くらいの男の集団とすれ違った。


「うわ、すっげー美人」

「あれ、彼氏か?」


 すれ違いざまに声が聞こえ、心臓が跳ね上がる。繭香に聞こえただろうか? こっそりと横目で確認をしてみたが、うつむいているのでわからなかった。

 藤村繭香が、赤の他人からの目を引いてしまうほどの美少女であることを、とたんに思い出す。でもその横にいる自分は「彼氏か?」と疑問形で話されてしまうくらい彼女に釣り合っていなくて__そう思ったら、急に並んでいるのが恥ずかしくなってしまった。

 奨吾は無意識に歩を速めてしまう。カラコロと、繭香の下駄の音が少しずつ遠ざかって行った。


__やっぱり俺なんて、藤村に釣り合わない。


 さっきまで楽しかったはずなのに、どろりとした劣等感が頭を支配する。縁日を往来する人のざわめきだけが、切り取ったように大きく聞こえた。

 下駄の音が聞こえなくなっていることに気が付いて、ハッとして振り返る。そこに繭香の姿はなかった。

 いつの間にか人通りも増え、身動きがとりづらいほどになっている。この状況で、はぐれてしまったのかもしれなかった。


__俺がぼーっとしていたから!


 奨吾は焦り、周囲を見渡す。繭香の赤い花の髪飾りを探したが、見当たらなかった。来た道を戻って探そうと、踵を返したそのときである。くんっと、シャツが引っ張られた。


「えっ?」


 振り返ると、そこに繭香がいた。どうやら人混みにまぎれてしまっていたようだ。 


「繭香! ごめん! 俺、ぼーっとしてて……」


 繭香はうつむいたまま小さく首を振った。様子が少しおかしい。よく見ると、左足を上げて下駄をつっかけるようにしていた。


「もしかして……足痛い?」


 少し迷ってから、こくりと小さく。奨吾は悔しさに唇を噛み締めた。下駄の音がゆっくりになっていたことを思い出す。くだらない劣等感なんかで頭をいっぱいにして、彼女が慣れない下駄を履いて苦労していたことにも気づけなかったなんて__。


「繭香、つかまって」


 奨吾は手を差し出した。突然のことに目を見開いて驚いている彼女の右手を、強引に取る。

 そして足に負担がかからないよう、ゆっくりと歩きだした。握った繭香の手は緊張したように強張っていたが、しだいにほどけていく。そして、きゅっと握られた。

 二人は手をつないだまま、無言で人混みを歩く。その距離は自然と近づき、肩が触れるくらいまでになった。

 握った手が熱くなってしまう。きっとその熱は繭香にも伝わっているはずで、それは夏のせいだと彼女が思ってくれることを願った。


***


ようやく人混みを抜けて、二人は近くにある寺の境内にやってきた。そこは賑やかな縁日とは打って変わって、人通りはなく静かだった。

小さなベンチがあったので、そこに腰掛ける。本音を言ってしまえば、つないだ手が離れるのが寂しかったけれど、いまはそれどころではない。


「足、大丈夫?」

「うん。鼻緒が当たって、擦れちゃったみたい」

「あっ、絆創膏!」


 コンビニまで走ろうと腰を上げて思いとどまる。こんな人通りのない場所に、彼女をひとり置いていくわけにはいかなかった。

 すると繭香が「大丈夫」と言って、巾着袋から絆創膏を取り出した。


「これ、ママが持たせてくれた」

「よかった!」

「慣れない下駄で、足が痛くなるかもしれないからって」

「そっか……やさしいな。梨花子さん」


 やはり彼女は本当に「お母さん」なのだと実感する。母の愛情を知らない奨吾は、それを素直にうらやましいと思った。

 でもだからといって、繭香にその役割を求めたいなどと思ったことは一度もない。

 今日のように、家でふたりきりのときにも同級生の藤村繭香でいてくれたらどんなにいいだろうか。

 繭香は取り出した絆創膏を貼るため、奨吾に背を向けた。からり、と下駄が脱げる音がする。なんとなく、じっと見てはいけない気がして、奨吾はそっぽを向いた。

 この寺には、小さなころよく遊びに来ていた。母親に目をかけられず、ともすればひとりで外に放り出されることもあった奨吾は、ここがお気に入りだったのだ。親子連れで賑わう公園は苦手だったし、スーパーなど商業施設に行くことは危険だと、子ども心ながらに感じとっていた。

 平日の寺に来るのは年寄りばかりでやさしかったし、ときどき寺の職員や住職が声を掛けてくれた。今思えば、奨吾の境遇を察して見守ってくれていたのだと思う。

 ひとしきり遊んだあとは、必ずお参りをしてから帰った。やり方は父親から習って知っていたし、参拝客のやることを見て覚えた。


 __あのときの自分は、いったい何を祈っていたのだろう?


 もう記憶は曖昧だった。


「……できた」


 繭香が言って、我に返る。立ち上がったので見ると、足の親指と人差し指に絆創膏が巻かれていた。


「もう痛くない?」

「……ん。大丈夫そう」


 下駄をトントンとして確かめる。歩けそうだったので、ほっとした。


「じゃあ行こうか」


 そう言うと、繭香が「待って」と言って奨吾を止めた。


「どうしたの?」

「お参りしたい」


 さっき考えていたことを読まれていたのかと思い、どきりとしてしまう。でも、そんなわけはないし、そもそもこの寺は今日の夏祭りの主催に関わりのある寺だ。繭香と楽しい時間が過ごせたことを感謝するのもいいだろうと、そう思った。


「うん、そうだね。そうしよう」


 賽銭を入れて、ふたりは手を合わせる。感謝をしてすぐに願い事をするのは図々しいかと思いながらも、奨吾は祈る。


 __繭香がお母さんとしてではなく、同級生として俺と接してくれますように。


 思ってから「これ、わけわかんねーな」と、心の中で笑ってしまった。でもまぁ、仏様ならすべてお見通しなのだろう。

それは、藤村繭香がなぜ「お母さん」になろうとするのかということも、きっと。

 彼女が合わせた手を下したのを見て声を掛ける。


「行こうか」

「うん」


 足をいたわりながら、二人はゆっくりと歩き出した。繭香はずいぶんと長く目を閉じていた。そんなにも熱心に、彼女はいったいなにを祈ったのだろうか。

 いつか聞いてみたいと、奨吾は思う。聞いたところで、きっと彼女は教えてくれないだろうけれど。

 それよりも今日は、藤村繭香でいる彼女との時間を楽しみたかった。なぜかはわからない。でも彼女がこうなっているのは、夏祭りの間だけのような気がしたからだ。

 そうだ、と奨吾はずっと思っていたことを切り出す。


「金魚の名前、どうする?」

「考えてない。奨吾が決めていいよ」

「ほんと?」

「ん。取った人に決める権利がある」

「じゃあさ、モサーにしていいかな?」

「……モサー? いいけど、どうして?」

「なんていうかさ……運命?」

「運命。よくわからないけど、いい名前だと思う」


 繭香がモサーを掲げて、うれしそうに目を細めた。

 しかし奨吾は金魚ではなく、その白く細い手に目がいってしまう。この手と自分の手がさっきつながれていたのだ。

 それはまさに奇跡のようなできごとで、奨吾はこっそり赤くなってしまうのだった。

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