第9話前編 お母さんじゃなくて同級生と夏祭りに行きます。

 繭香の看病の甲斐(?)あって、奨吾の捻挫は完治した。夏休みを二週間ほど安静に過ごす羽目にはなったが、インドア派の彼にもともとアクティブな予定はない。

去年は父親が仕事で不在がちであるのをいいことにだらだらした生活を送り、夜中まで映画三昧をしていた。親が不在の夏休み。もし彼女でもいたならば、それは絶好のシチュエーションだっただろう。しかし泊まりにきたのは陽人だけだった。男同士、たっぷりと濃密な時間を過ごした。

しかし今年は違う。なぜなら藤村繭香が家にいるのだ。同級生の美少女と過ごす夏休みなのである。それがいくら家族としてであっても、心は自然と浮かれてしまっていた。

  彼女と、夏らしいことをしたい。

 ただしお母さんと子どもという関係ではなく、同級生として。

 奨吾はそう思いながら、しかしなにもできない日々を過ごしていた。そんなときである。


「なんだこれ?」


 リビングに一枚のメモが落ちていた。拾い上げると、そこにはこう書かれていた。


・りんごあめ

・綿あめ

・かき氷(いちごかレモン、練乳をかける)

・金魚すくい(水槽があれば)


「買い物のメモ……なわけないか」


 繭香はよく買い物リストをメモしている。しかしこのラインナップは、あきらかにそうではないだろう。ふとテーブルに目をやると一枚のチラシが置いてあった。


『夏祭りのお知らせ』


 近くの神社で開かれる祭りのしらせだった。昔からあるわりと大きな祭りで、ずらりと並んだ屋台は毎年多くの人で賑わう。日付を見ると今日だった。


 するとこのメモは、この夏祭りで買いたいものリスト……?


 ということは、彼女は夏祭りに行きたいのだろうか。それとも、すでに友達と約束をしている? しかしいつも学校でひとりきりである繭香に、後者の可能性は少ないだろうと思った(ちなみに彼女もこの夏休みずっと家にいる)。

 誘ってみようか、とふと思う。

 もし彼女が夏祭りに行きたくてこのメモを書いたのなら、一緒に行くことをOKしてくれるのではないだろうか。

 などと考えていると、とたとたといつもより急いで階段を降りる音が聞こえ、勢いよく繭香が飛び込んで来た。


「どうしたんだ? そんなに慌てて」

「忘れ物したの。えっと……小さな紙。落ちてなかった?」


 妙な表現をすることが気になって、少し意地悪をしてみる。


「小さな紙? それってメモかなにか?」

「……違う」

「そうか。残念、メモなら落ちていたんだけどな」

「あっ!」


 繭香がメモをひったくろうとするのを、ひょいとかわす。核心的なことを聞いてみた。


「もしかして夏祭り、行きたいのか?」

「……違う。それは夕飯の買い物リスト」

「夕飯」

「そう、夕飯」

「りんご飴や綿あめは百歩譲ろう。食うのか? 金魚を」

「…………食う」

「……なんかごめん」


 メモを返した。

 彼女はよほど夏祭りに行きたいと思われることが恥ずかしいのか、受け取るなりそれをくしゃりと握りつぶす。

 もしここで行きたいと言ってくれれば、スムーズに誘うことができたのに。

 繭香が本音を隠すのは、やはりお母さん的思考が働いてのことなのだろうか。お母さんなんだから夏祭りに行きたいなんて言えない、的な。

 だとしたら息子としてお母さんにお願いする形で頼めば確実に承諾してくれるのだろう。

 でもそれは、なんか違う。自分はお母さんと夏祭りに行きたいわけではないのだ。

 はたしてどうしたものかと苦悩している奨吾に助け船を出してくれたのは、リアルお母さんだった。


「今日も暑いわね~! 昼ご飯買ってきたわよ!」


 梨花子はそう言って、買ってきた荷物をドンとテーブルに置く。そのときチラシに気づいた。


「あら、夏祭り。いいわねぇ。あなたたちふたりで行ってきなさいよ」


 さすがリアルお母さんはお母さんらしく、子どもたちにさらりと言ってのける。奨吾は内心でガッツポーズをしたが、驚いたのは繭香だった。


「な、夏祭りなんてダメ」

「あらどうして?」

「だってママ、夕方から撮影なんでしょう。だから私が夕飯を作らないと」

「そんなの屋台で焼きそばでも食べたらいいじゃない。むしろちょうどいいわ!」

「で、でも! しょーちゃ……あう……手作り……ふ、不良……!」

「えっ、なぁに? そうだ、夏祭りなら浴衣を出さないとね! かわいいのがあるのよ~」


 奨吾にはわかる。繭香はきっとこう言おうとしていたのだ。


「でもしょーちゃんには手作りのごはんを食べさせないと! それに夏祭りなんて不良の行くところ!」


 しかしさすがにリアルお母さんの前でお母さんになってはいけないという分別はあるらしい。そして繭香があうあうと口をぱくぱくさせているうちに、梨花子が話をまとめてしまった。


「それじゃあ仕事に行く前に浴衣着せてあげるからね! ふふっ、楽しみだわ~」


 繭香が返事の代わりに「あう……」と言った。


***


 そんなわけで、夏祭りに行くことになった。

 浴衣を着せられるために二階へと上がった繭香の準備は思いのほか長く、奨吾はスマホをいじりながらリビングで待つ。リアル友達は陽人しかフォローしていないSNSをなんとなく見ていたが、画面を流れる文字はまったく頭に入ってこなかった。

 女の子と夏祭りに行く。しかも相手はあの藤村繭香なのだ。緊張するなというほうが無理だろう。

 そわそわと落ち着かない時間が流れ、もう何回目かになる陽人の「暇だー」というつぶやきを見たところで、リビングのドアがゆっくりと開いた。


「お、お待たせ……しました……」


 なぜか敬語を使って入ってきた繭香の姿を見て、奨吾は息を飲む。


 なにこれ、やべ。めちゃくちゃにかわいい。


 一瞬で全身の血が沸騰した。繭香が着ているのは紺地に大きな花柄模様の浴衣で、真っ白な帯で締められている。その色合いは彼女の持つ清楚で凛とした雰囲気にぴったりだった。

 艶のある黒髪はきれいにまとめられて、くるりとカールした後れ毛がゆらゆらと揺れている。かわいらしい赤い花の髪飾りが目を引いた。


「ふふっ、どう? 親バカだけど、この子すっごくかわいいでしょう?」


 梨花子が言うと、繭香は「ママったら!」と真っ赤になって恥ずかしがった。そして奨吾も照れてしまい頷くことができない。

 本人を目の前にして「かわいい」だなんて、恥ずかしくて言えるわけがなかった。奨吾の無言をネガティブに解釈した繭香が、唇をぎゅっと噛み締める。


「へん……かな?」

「い、いや。へんじゃないよ。へんじゃないっていうか、その……に、似合ってる」

「……ありがとう」


 すっかり照れてしまった奨吾にとっては「似合ってる」と言うのが精一杯だった。

 でもきっと褒められ慣れている彼女にとって、そんな言葉は特に心に響くものではなかったのだろう。無表情で礼を言うと、ぷいとそっぽを向いてしまった。

 もっと彼女を喜ばせられる気の利いた言葉が言えたらいいのに、と悔しく思う。

 しかし同級生の美少女を気軽に褒めるなどというのは、彼女いない歴=年齢の奨吾にとってあまりにもハードルが高いことだ。事実、奨吾の顔はいま自分でも恥ずかしいほどに熱くなっていた。


 __ていうか俺、こんな美少女といまから夏祭りに行くのか?


 あらためてことの重大さを認識し、ごくりと唾を飲み込む。


「さぁ、いってらっしゃい! 楽しんできてね~」


 ひとり能天気な梨花子に見送られ、真っ赤な顔の奨吾と無表情の繭香は家を出た。


***


 祭りのメイン会場となる境内にはずらりと屋台が並び、大勢の人で賑わっていた。

 威勢のいい客引きの声が飛び交い、甘い香りと香ばしい香りが交互にやってきて食欲をくすぐる。カップに入ったカラフルな綿あめを見て、久しぶりにやって来た奨吾は「いまはこんなのがあるんだな」と思った。

 きょろきょろと屋台ばかりを見てしまうのには理由がある。浴衣姿の繭香が横にいることが、やはりどうにも落ち着かないのだ。


「け、けっこう混んでるな……」


 間が持たず話しかけてみる。しかし繭香は小さく頷いただけで、うつむいてしまった。この状態をどうにかするコミュ力を奨吾は持ち合わせていない。あたりはざわざわと騒がしいのに、カラコロと繭香の下駄の音だけが浮き上がって聞こえた。


 まずい……いったいなにを話せばいいんだ……?


 悩んで、ふと思った。いま奨吾と繭香はふたりきりだ。ということは、いつものお約束どおり繭香は「お母さん」モードになるはずだということである。

 夏祭りはお母さんになるにはぴったりのシチュエーションだ。奨吾に小銭のお小遣いをあげたり、くじ引きなんてどうせ当たらないのだからやめなさいと叱ったりと、こんな絶好のお母さんチャンス(なんだそれは)を彼女が逃すはずがない。

 自分はお母さんと夏祭りに行きたいわけではない、などと大口を叩いていたあのときは、まだこの浴衣美少女に会う前のことだ。

 奨吾はもう、浴衣姿の繭香と普通に話せる気がしなかった。それならば、いっそお母さんになってくれていたほうがありがたいと、そう思ったのだ。


「ねぇ、あのカラフルな綿あめ食べたいな?」


 ちょっと甘えた声で言ってみた。はじめての息子モード。正直、自分でも気持ちが悪かったが背に腹は代えられない。この甘え声で、彼女のお母さんモードにスイッチが入るはずである。

 繭香が「!」と、顔を上げる。そしてその小さな唇が、なにか言いたげにゆっくりと開いた。

 きた! と奨吾は心のなかでガッツポーズをする。

 奨吾が欲しがった綿あめは、ブルー・ピンク・イエローとカラフルに着色されたものだ。

 お母さんモードの彼女はすかさず、「体に悪い」や「虫歯になる」と説教をはじめるだろう。

 奨吾はそれらの言葉を「さぁ来い」とばかりに待ち構えていたのだが、繭香が発したのは思いもよらない言葉だった。


「わ、私もっ」

「えっ……?」

「私も……食べてみたい……」

「そ、そっか。わかった! じゃ、じゃあ買ってくるよ」


 繭香がお母さんにならなかったことに動揺しつつも、そう言われてしまっては綿あめの屋台へ走るしかない。横目で見た彼女は、なぜか恥ずかしそうにもじもじとしていた。

 そういえば、拾ったメモに「綿あめ」と書いてあったことを思い出す。彼女は藤村繭香として、ただ綿あめが食べたかったということなのだろうか。

 その答えはすぐに出た。


「はい、買ってきたよ」

「あっ、ありがとう!」


 カップに入った綿あめを受け取った瞬間に、繭香の顔がぱっと華やいだからだ。しかし慌てて取り繕い、いつものクールな表情に戻る。


「……いくらだったかしら」

「ああ、お金はいいよ。梨花子さんから夕飯代もらってるから」


 繭香は「そう」と言って、カラフルな綿あめをじっと見つめる。そして、おもむろに巾着袋からスマホを取り出すと、屋台をバックに写真を撮った。聞き間違いでなければ、小さな声で「かわいい……」とつぶやきながら。

 奨吾に見られていると気づいた繭香は、赤くなって言い訳をする。


「しゃ、写真、ママに送ってあげようと思っただけ」


 そう言ったけれど、うきうきとうれしそうに綿あめを眺めるその様子を見る限り、普通の女子高生がそうするように「かわいい」を写真に残したかっただけなのだろう。


 __なんだこれ?


 奨吾は困惑する。このとおり、目の前にいるのは紛れもなく同級生の藤村繭香だった。 

 お母さんではない。女子高生で美少女の藤村繭香で、しかも一緒に夏祭りに来ている。

 彼女は今日、なぜか「お母さん」にならなかったのだ。

 困惑する奨吾をよそに、繭香はうきうきと細い指で綿あめをつまむと、その甘さを少しずつじっくりと味わいながら奨吾の横を歩いている。

 その仕草がいじらしくて、ついじっと見てしまい目が合った。すると繭香が慌てて目をそらす。その頬は、さっき口に入れたピンクの綿あめと同じ色だった。


 __いや、だからなんなんだよ、これ?


「あっ」


 繭香が声を上げる。


「奨吾、綿あめは?」


 ふいに呼び捨てにされたので、まいってしまった。繭香が奨吾のことを「しょーちゃん」と呼ばない。ということはやっぱり、今日の彼女はお母さんではないのだ。

 まいったな、と奨吾は頭をかく。同級生の藤村繭香とは、やっぱりどう接したらいいのかわからなかった。


「あ、え、えっと、買い忘れたんだ」

「? 奨吾も食べたかったんだよね?」

「別に……あっ、い、いや! えっと、その、思ったより大きかったから。なんていうか、俺はちょっと食べてみたかっただけで、だから買うのをやめたんだよ。深い意味はない」

「そう」


 あれは繭香をお母さんモードにするための作戦だったなどと言うわけにはいかず、しどろもどろになってしまった。


「で、でも、ちょっと食べたかったんだよね?」

「あ、ああ、まぁ……」

「じゃあ……はい」


 繭香が真っ赤な顔をして、その細い指先につまんだ綿あめを差し出した。意図がわからず「は?」と間抜けな声を出してしまう。


「だから……はいっ!」

「えっ?」

「あ……あーん!」

「ええっ!?」

「あーん、して?」


 上目遣いでそんなことを言われて断れるわけがない。まるで女神さまの言いなりになるようにして奨吾は口を開ける。すると夢みたいに甘いピンクのふわふわが、その口に入ってきた。

 久しぶりに食べた綿あめは喉が焼けるほど甘くて__そのとき彼女の指先が、ほんの少しだけ唇に触れた。


「っ……!」


 夏の暑さではない。体の内側から、かっと燃えるように熱くなった。お母さんモードで看病されたときの「あーん」とは、種類が全然違う。

 甘いふわふわの毒が全身に回った。


「ご、ごめんなさい!」


 奨吾の唇に触れたことで彼女も動揺したのか、慌てて手を引っ込める。お互いの顔をまともに見ることができず、ふたりともそっぽを向いてしまった。


 __なんだこれなんだこれなんだこれ!?


 頭がくらくらする。これじゃあまるで、普通のデートだ。

 動揺していることを悟られぬよう、平静を装って普通の会話をする。でもなにを話したらいいかわからなくて、結局、最初に綿あめを見たとき思ったことを言った。


「い、今の綿あめってこんなふうにカップに入ってるやつがあるんだな。カラフルだし、これも映えってやつ? 俺らが小さいころは、こんなのなかったよな?」


 しかし繭香は答えない。しばらく黙ったあと、小さく言った。


「わ、わからない。私、夏祭りはじめてだから」

「えっ、そうなのか?」

「夏はママがモデルの仕事忙しいときだから。パパは昔から病気がちだったし、だから私、夏祭りに行ったことがない」

「そうだったのか……」


 状況は違うけれど、繭香も家庭環境で苦労をしてきたのだろうと胸が詰まる。

 彼女が今日だけは「お母さん」モードにならず、藤村繭香として夏祭りを楽しもうとしている理由がわかった気がした。


「なぁ、繭香。今日はいっぱい楽しもう」


 繭香がハッと顔を上げる。染まった頬の色と同じ赤い花の髪飾りが、うれしそうに揺れた。

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