第8話 お母さんは看病がしたいです。

 体育の授業で繭香を助けたつもりが、かっこ悪くも右足を捻挫してしまうという事件から数日が経った。

 幸いなことに、あれからすぐに夏休みに入ったので、学校生活にほとんど支障はなかった。

 あとは、医者から言われた二週間を安静に過ごすだけであったが――この好機を彼女が逃すはずがなかった。

 特に今日は両親が不在で、奨吾のことをよろしくお願いされている。

 ベッドに寝ていると、コンコンとドアがノックされ、声が聞こえた。


「しょーちゃん? 私、お母さん」

「いや、お母さんじゃないです」

「お母さんだから入るね」


 問答無用でドアが開けられる。立っていたのは、Tシャツにジーンズという動きやすい服装に、髪をポニーテールに結んだ繭香だった。手には大きなバスケットを持っている。

 繭香はいそいそとベッド脇に正座をすると、ドサッと音をたててそれが置かれた。どうやら大荷物らしい。


「それ、なにが入ってるの?」

「看病グッズ」

「グッズて」

「今日はお母さんがしょーちゃんのことをしっかり看病するからね」


 繭香はいつものクールな表情でそう言ったが、口元には抑えきれない笑みが浮かんでいる。完全に看病プレイを楽しむ気だと、奨吾は思った。

 実際、奨吾の捻挫は大した怪我ではない。二週間の安静というのも、激しい運動など無理なことをしないという程度の意味で、なんならいまベッドに寝ているのもただ漫画を読んでいただけである。その旨を説明したが、


「というわけで、看病するような怪我じゃないから大丈夫だ」

「安静というのは体を動かさずに静かにしているという意味。だからしょーちゃんはこのベッドから一歩たりとも動いてはいけない」


 繭香は許さなかった。


「せめて日常生活は送らせてよ」

「だめ。しょーちゃんに平穏な日常はない」

「意味変わってきてるから」


 彼女のまっすぐな眼差しから、なにがなんでも奨吾の看病をするのだという確固たる意志を感じる。こうなったときの繭香はてこでも動かない。奨吾はため息をつき、しばらく付き合ってやることにした。一通りの看病とやらをすれば、きっと満足するだろう。


「じゃ、じゃあ適当にやってよ。任せるから」


 言い終わらぬうちに、繭香が体を乗り出して顔をぐいっと近づけた。


「ちょ、ちょっと! なに!?」

「おでこで熱をはかる」

「なんで!?」

「親子はおでこで熱を計るもの」

「親子じゃないから! その大荷物のなかに体温計ないのかよ!?」

「そんなものはない」

「看病グッズの意味! ていうか、そもそも捻挫だし熱ないから!」

「怪我で熱が出ることもある」

「それもう大怪我だよ!」

「とにかく熱を計らないと」


 もう何を言っても聞く耳を持たない。目をらんらんとさせて顔を近づけようとするばかりだ。そりゃあ、おでこコツンはうれしい。でも、いまの奨吾にはレベルが高すぎるのである。

 意を決して言った。

 

「あのなぁ! 言っとくけど、そんなことしたら自分だって恥ずかしいんだぞ!」


 繭香はきょとんとして動きを止める。前髪を上げておでこを出した繭香は幼く見えて、こんなタイミングだけれどかわいいと思ってしまった。だから余計に恥ずかしくなる。こんなにもかわいい同級生女子とおでこコツンなどしてしまったら、ない熱も急上昇してしまうだろう。


「どうして恥ずかしいの?」

「ど、どうしてって……お、おでこをくっつけるってことはだな! おでこだけじゃなくて顔全体がくっつくってことなんだぞ!」

「顔全体が……くっつく……?」


 言葉を反すうしたあと、繭香の顔が一気に赤くなった。珍しく強い口調になって言う。


「べ、別にそんなのは平気! だってお母さんなんだから!」

「お母さんだって高校生男子と顔くっつけるのまぁまぁ抵抗あると思うぞ!?」

「そんなことない! お母さんはしょーちゃんのためならなんだってできる!」

「あっそ! じゃあやってみろよな!」


 あ。しまった。


「わかった……やる!」


 勢い余ってそんなことを言ってしまい、やる気に火を付けてしまった。

繭香は再び前髪を上げておでこを出し、むうっと頬っぺたを膨らませる。そしてなにかを決心したように頷いたあと、ゆっくりと顔を近づけてきた。

 ふわりと空気が動き、シャンプーのいい香りが鼻腔をくすぐる。押さえつけられているわけでもないのに、体が動かなかった。

 奨吾は思わず、ぎゅっと目を閉じる。ベッドの軋む音がした。


 ――コツン。


 おでこ同士がぶつかった感触があり、つい目を開けてしまった。すると反対に繭香は目を閉じていて、その長い睫毛が目の前にあった。


 ……それは、キスしてしまいそうな距離。


 彼女のピンク色の唇が視界に入った。


「も、もういいだろっ」


 奨吾は慌てて、繭香を引きはがした。


「ほら。やっぱり熱、あった」

「それはっ……」


 誰のせいだよ、という言葉を飲み込む。繭香がどんな顔をしているのかは、そっぽを向いているのでわからない。

 しばらくしてこちらに向き直った彼女は、いつもの澄ました表情だった。


「熱があるんだから安静にしていないと、だめ」


 言われるがままベッドに寝かされてしまう。体温が高くなったのは君のせいだと言うわけにもいかず、奨吾は従うしかなかった。


「次は、脱いで」

「……は?」

「熱、あるから。きっと汗かいてる。体を拭かないと」

「かいてないって! ていうか思い出して? 俺、そもそも捻挫だから!」

「…………」


 繭香はしばらく黙ったあと、


「私のやることが、ない」


 と、怒ったような悲しんでいるような、複雑な表情をした。なんだか気の毒になってしまう。好きな女の子を悲しませることは本意ではないし、ここはひとつ、なにか看病されてあげることが彼女のためなのだろう。

 奨吾は、なるべく平和に終わりそう(?)な看病についてしばらく考えた。


「……じゃあ、さ。ひとつだけ、お願いしてもいいかな」

「しょーちゃんのお願いならなんでも聞く」

「りんご、むいてくれない?」


 これならば、りんごがなかった時点で終わりだ。


「りんご、ある!」

「あっ、あるんだ」


 繭香は目をきらきらさせながら、バスケットからりんごと果物ナイフを取り出す。


「……なんでも入ってるんだね。そのカゴ」

「言ったでしょう。看病グッズは揃ってる」

「りんごも入ってるとは思わなかったよ」

「りんごは看病のマストアイテム。消化がいいし、すりおろせば弱った体でも食べやすい」

「俺、捻挫なんだけどな」

「…………」


 都合の悪いことは聞こえないようで、無視をして皮むきに集中し始める。

くるくると器用にむいている様子を見ながら、まぁ、りんごを食べるだけならそうおかしなことにはならないだろうと思った。おでこコツンや(あれはやばかった)、体を拭こうとするなど、看病には危険なことが多すぎる。

 しばらくして、


「はい、できたよ」


 皿に綺麗に盛られたりんごが差し出された。そのひとつは、うさぎの形になっていて、思わず笑みがこぼれてしまう。

 ありがとうと礼を言って受け取ろうとしたが、繭香は首を振って渡さなかった。


「だめ。食べさせてあげるから、あーんして」


 そうきたか、と奨吾は膝を打った。ただりんごをむいてあげるだけでは終わらせない。さすがはお母さんである。いや、お母さんじゃないけど。


「じ、自分で食べるからいいよ!」


 しかしお母さんムーブだとわかっていても、美少女に「あーんして」と言われるのはなかなかの破壊力であり、恥ずかしくなってしまった。しかし彼女はおかまいなしで、フォークを差したりんごを手に迫る。


「だめ。あーん、して」

「だからいいってば!」

「あーんしないとMOTHERの呪いが降りかかる」

「……あれ呪いだったの?」

「とにかく口を開けて。看病がはじまらない。はじまらないと終わりもない」

「わかったよ! あーんっ!」


 半ばやけくそだった。子どものように大きく口を開けると、ちょうどいいサイズにカットされたりんごがそっと入れられる。それは噛み砕くとシャクッと爽やかな音がして、とても甘かった。


「あ……うまい」

「よかった。しょーちゃんのために選んだの。いちばんおいしそうな真っ赤なりんご」

「べ、別にわざわざ買わなくたってよかったのに」


 自分のために「いちばん」を選んでくれたことがうれしくて、つい強がりを言ってしまった。観念した奨吾は、引き続き「あーん」をしてりんごを食べさせてもらう。繭香はいちいち「おいしい?」と尋ね、頷くとうれしそうな顔をした。

 そんな表情をされたらドキドキしてしまう。とたんに、いま自分は同級生の美少女・藤村繭香に看病をされているのだということを意識した。このことをクラスの奴らが知ったらどう思うだろうか。特に繭香に好意を持っている山下が知ったら、ただでは済まないだろう。しかし皮肉にも、彼のおかげでこの恩恵にあずかることができているわけで、その意味では感謝すべきなのかもしれない。

 りんごを食べさせ終えたあとも繭香は、飲み物を用意したり部屋を片付けたりと、甲斐甲斐しく奨吾の世話をしてくれた。


「なぁ、どうしてここまでしてくれるんだ?」


 正座をして着替えを畳んでいた繭香が顔を上げる。


「お母さんだからだよ」


 それはお決まりの言葉。同時に少しがっかりしてしまう。自分はいったいなにを期待していたのだろうか。彼女は最初からずっと「お母さん」モードだったというのに。

 でも、実の母親に看病をされた記憶のない奨吾にとっては、それでも少しうれしかった。


「さて、と。私はおかゆ作ってくるね」

「待って! ひとつだけ……いいかな?」


 部屋を出て行こうとする繭香を呼び止める。どうしても確認しておきたいことがあった。


「あのさ……さっきも言ったけど、俺、捻挫なんだ」

「…………」

「いや、無視しないで? 捻挫だから、食べ物は普通でいいんだよ」

「ちょっとなに言ってるかわからない」

「いや、わかるでしょ!? 捻挫なんだって! だから別にやわらかいものを食べる必要はない」

「できるまでしょーちゃんはゆっくり寝てて」

「聞いて!?」


 無常にも閉まるドア。その日の昼食は、ちょっとかためのおかゆだった。



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