第7話 しょーちゃんのことはお母さんが守ります。
藤村繭香とタピオカデートをしたことで、奨吾は浮かれていた。
そう、あれは誰がなんと言おうとデート。
地域密着型スーパーの駐車場に出ていた屋台だったけれど、そしてタピオカを持つ反対の手には味噌と醤油が入ったエコバックを持っていたけれど、デートなのだ。
そして奨吾の勘違いでなければ、繭香の様子もいつもと違っていた。あのクールで素っ気ない態度は「お母さん」モードではなく、藤村繭香そのものだった。
つまり彼女は同級生の女の子として、奨吾に接してくれていたのである。これは大きな進歩じゃないだろうか。
家でふたりきりのときも藤村繭香のままでいてくれたらいいのにと、奨吾は思う。そうすれば、同級生の異性として仲を深める努力をすることができるからだ。
――しかし現実は、そう甘くはなかった。
***
「しょーちゃん、これあげる」
ある朝、学校に出かけようとする奨吾を、繭香が呼び止めた。
手渡されたのは、キルト生地でできた巾着袋。
小学校の家庭科の授業でよく作るようなやつ。学校指定の業者から選ばざるを得ないキットで作る、あのダサい感じの巾着袋にそれは見えた。
「えっと……これは……?」
「体操着を入れる袋。お母さんの手作り」
「お、おう……」
渡された巾着袋は、青地にファンシーな絵柄でパトカーや救急車などの働く車がプリントされており、どう見ても小学校低学年向けだった。
「夜なべして作った。お母さんの愛情がたっぷり」
そう言われてしまっては、受け取り拒否はしづらい……。
「あ、ありがとう。今日の体育でさっそく使わせてもらうよ」
奨吾はとりあえずそう答えて、その場をごまかすことにした。どうせ男女の着替えは別室なのだから、ほんとうに使っているかどうかを繭香が確認できるすべはない。
受け取った巾着袋を鞄に押し込み、玄関のドアに手を掛けたとき、繭香が言った。
「お母さんは、ずっと見てるからね」
冷や汗がたらりと落ちる。もしかしてあの巾着袋には、盗聴器でも縫い付けられているのだろうか。あとでチェックしなければとため息をついた。
***
そして体育の時間。
更衣室にて、奨吾はなによりも先に盗聴器探しを始めた。巾着袋をくまなく触り、硬いものが埋め込まれていないか確認をする。ゴソゴソと不審な動きをしたせいか、一緒にいる陽人が巾着袋に注目してしまう。
「おまえの体操着袋、なんか懐かしい感じだな」
「気にするな。俺は物持ちがいいんだ」
「小学校からの年代物か。さすが、ちゃんと名前まで刺繍してある」
「えっ、名前!?」
もしかして平仮名で「うえはらしょうご」とでも書いてあるのだろうか。繭香ならやりかねないと、陽人が指差したところを見た。もっと最悪なことが書いてあった。
__MOTHER
「またかよっ!」
思わず声に出してしまう。なんなんだこのメッセージは。意味がわからないし普通に怖い。
もしかしたらこの狂気の刺繍は盗聴器から目をそらすためのものかもしれないと、再び念入りに巾着袋を触ってみる。しかしそれらしき物体は見つからなかったので、ほっと胸を撫でおろした。
陽人がうれしそうに言う。
「おまえほんとモサーのこと好きだな!」
この数日で、彼の偏差値が上がっていなかったことだけが救いだった。
***
授業がはじまった。今日は体育館を半分に分けて、女子はバレーボール・男子はバスケットボールをすることになっている。
バスケットコートの方では試合が行われており、バスケ部のエースで爽やかイケメンの工藤を中心に、クラスのスポーツマンたちが多数出ていた。完全に男女に分かれての授業ではあるが、試合に出ないときは見学できるため、女子たちはバレーそっちのけでこちらの試合に夢中になっている。
つまり見学の時間は、目当ての異性を応援する時間というわけだ。
女子たちから黄色い歓声が上がる。どうやら、工藤がシュートを決めたようだ。爽やかにハイタッチをする彼らを見ながら奨吾は、この試合のメンバーでなくてよかったと心から思った。こういう時、スポーツが得意でないタイプの人間は非常に肩身が狭い。
「こんなの公開処刑だよな」
陽人が言った。
「大丈夫だ。俺たちのことを見てる女子なんていない」
「それはそれで悲しいな」
「ていうかおまえはわりとスポーツできるほうなんだからいいだろ」
「スポーツは好きだけどスポーツマンが嫌いなんだ。奴ら全員野蛮な筋肉脳だからな」
「すごい偏見だな」
「あ、試合終わった。次、俺らだぞ」
「よしっ。それじゃあ、ずっとマークされてるふりで乗り切るか」
奨吾は重い腰を上げてコートに向かう。試合を終えた爽やかイケメンたちとすれ違う。その中で工藤が声を上げた。
「おっ、藤村繭香だぜ」
続いて「ラッキー」という言葉が追いかける。バレーコートを見ると、繭香が試合に出る準備をしていた。これから見学をする工藤たちは、繭香がバレーボールをする姿を存分にみられるため「ラッキー」ということなのだろう。
孤高の美少女・藤村繭香は、工藤たちのようないわゆる陽キャのタイプの興味も引いてしまうらしい。もっと自分たちに似た、ギャルっぽい女の子を好むのかと思っていたので、奨吾としては意外だった。
同時に心配になってしまう。もし彼女が、スクールカースト上位のイケメン男子たちに直接的な好意を向けられたら。
想像しただけで、心がぎゅっと締め付けられる。でも、自分にそれを止める権利などないのだ。
そんなことを考えていると、見学をしている男子たちがざわつきだした。いったいどうしたのかと振り返る。
するとなんと、バレーコートから藤村繭香がすたすたとこちらに向かって歩いていた。
しかもその目線は、明らかに奨吾だけを見つめている。
な、なんだ? なにをしようとしているんだ!?
奨吾は動揺した。まさかここでお母さんモードになるわけではあるまいが、万が一ということもある。クラス全員の前でお母さんムーブをされたときの言い訳を必死で考えていると、やはり繭香は奨吾の前でぴたりと止まった。
その顔が、ゆっくりと近づいてくる。工藤たちが立ち上がって驚いているのが、視界の端で確認できた。
まずい、こんなところを見られたらあとでなんと言われるか……!
ぎゅっと目を瞑った奨吾の耳元で、繭香が言った。
「体操着袋、ちゃんと使ってくれた?」
「今かよっ!」
すごい大声が出た。その勢いのまま、とりあえず適当な嘘でごまかそうと、わざと周りに聞こえるよう声を張り上げる。
「あー! そうだったごめんごめん! 図書室の本ずっと借りっぱなしだったね!」
「本? 私はそんなこと聞いてない。体操着袋を」
「いやー本当ごめん! すっかり忘れてたよ。教えてくれてありがとう、図書委員の藤村さん!」
だいぶ苦しいが、藤村繭香が図書委員ということを利用し、本返却の催促をしてきたことにした。周囲は納得していないようだったが、あの藤村繭香が突然に奨吾に話しかけることのほうが納得いかないようで(悲しい)、無事に「まぁ、あの真面目な藤村だから思い立ったときに確認したかったのだろう」という空気になる。
しかし、繭香がバレーコートに戻り、ほっと胸を撫でおろしたのも束の間だった。
「なぁ、なんで藤村がおまえなんかに話しかけてんだよ」
目の前に立ちはだかるのは、対戦相手であり身長190センチはある大男。柔道部の山下だった。そういえばこいつ、藤村繭香のことが好きだったっけ。
高校生にもなって好きな女子の名前をクラス中に知れ渡るくらい公言しているようなやつは、ちょっとやべーやつだ。よっぽど自分に自信があるか、ただのバカである。山下はその両方を兼ね揃えていた。
「おい、てめー。ぶっ潰してやるから覚悟しろよ」
ボキボキと拳を鳴らす。いろいろと見ていられなかったが、厄介なことになったということだけはたしかだった。
笛が鳴って試合が始まると、すぐに奨吾は山下にマークされた。それは試合の勝ち負けなど関係のない、ただただ奨吾の邪魔をするというやり方だった。
「いってえっ……!」
彼のディフェンスから抜けようと思ったが、阻まれて足を踏まれてしまう。山下がニヤリと笑ったのが見えた。ぶっ潰してやるという宣言どおり、ファウルすれすれの動きも辞さないようだ。
はらわたが煮えくり返ったが、190センチもある大男に迫られてはひとたまりもない。奨吾はただ圧倒され、せめて怪我をしないように立ち回るのがやっとだった。
まさか自分の好きな女が気に入らない陰キャと喋っただけでここまでやるとは。陽人の言葉に「偏見だ」と言ったのを撤回する。スポーツマンは全員野蛮な筋肉脳だ。
もし俺が藤村繭香と一緒に暮らしているなんて知ったら殺されるだろうな。
そう考えたらぞっとした。ファウルを装って攻撃する程度で済むのなら、まだマシなのかもしれない。
しかし試合を見ている奴ら、特に審判をしている体育教師は、この卑怯なプレイにどうして気づかないのだろうか。横目で見ると、見学の男子はほとんどが藤村繭香に夢中で、山下に負けないくらい大柄の体育教師は残念ながら筋肉脳だった。山下の卑怯なプレイを、積極的な攻撃と判断してむしろ清々しい表情で見ている。
これは気づいてもらえそうにないな、と奨吾はため息をついた。
すると、遠くから視線を感じた。顔を上げると、藤村繭香だった。
彼女は自身もバレーボールの試合中でありながら、奨吾のことをじっと見ている。また「お母さん」として監視をしているのだろうか。なにも試合中にしなくても。
案の定、よそ見をしているせいで反応に遅れてしまう。しかし繭香は、持ち前の運動神経を発揮してとっさに体勢を変え、敵のコートにボールを返していた。
ほっと胸を撫で下ろす。試合の片手間に監視をするなんて、彼女にとっては簡単なことなのだろう。
そう思って奨吾は、再び山下との攻防戦に意識を集中させる。しかし、繭香からの視線は外されることはなかった。
片手間……だよな?
山下に体を押されながら横目で見る。彼女はまだ、奨吾のことを見ていた。その瞳は怒りに満ちている。そこで奨吾は理解する。
繭香は、奨吾が卑怯な手で抑えつけられていることに気づいている。試合中のメンバーも、見学者たちも、審判の体育教師ですら気づいていなかったのに。
でも彼女はたったひとり、それに気づいていたのだ。
それどころか、怒りに任せてこちらに駆けだそうとしている。
「危ないっ!」
叫んだのは奨吾だった。
繭香が走り出したのと同時に、敵コートのバレー部員がスパイクを打つ姿勢を取ったのだ。しかし繭香の視線は奨吾のみに向けられている。このタイミングでは、何歩か進んだ彼女にボールが当たってしまう。バレー部員も「あっ」という顔をしたが、もう方向を変えることはできなかった。
――間に合えっ!
奨吾は山下の重い体を全力で押しのけ、バレーコートへと走った。
ダンッ!
ボールが地面に落ちる音と、奨吾が倒れる音が館内に響く。繭香の腕を引いたまではよかったが、慣れない全力疾走で足がもつれ、奨吾は倒れ込んでしまったのだ。
見上げると、繭香が無表情で立っていた。
その様子は、少し怒っているようにも見えた。
もしかしたら自分は、余計なことをしてしまったのかもしれないなと思う。
クラス中が注目する騒ぎになってしまったし、彼女の運動神経なら向かってくる球を薙ぎ払いながら走ることなど、わけもなかったのかもしれない。
でも、もしそれができていたら。あの藤村繭香が奨吾を助けるために駆け寄るなんて行動をしてしまっていたら、もっと騒ぎになっていた。
だからこれでよかったんだよな。それに、繭香に怪我がなくてほんとうによかった。
奨吾には、そのことだけで十分だった。
「いてて……」
立ち上がろうとして、どうやら足首を捻挫していることに気がつく。「大丈夫か?」と駆け寄ってきた体育教師にその旨を告げると、保健委員を呼んだ。
「私が保健室に連れていきます。彼の怪我は私のせいですから」
制したのは繭香だった。突然の申し出に周囲はざわつく。
「責任感が強いのはけっこうだが、こういうことは保健委員に任せればいいんだぞ、藤村。そのために係というものがあるんだ」
体育教師がもっともなことを言ったが、
「いえ、私が連れていきます」
頑として譲らなかった。こういうときの繭香は、なにか人を圧倒するオーラのようなものが出る。教師ですらもそれに圧され、わかったと頷いた。
「上原くん、つかまって」
繭香は、ちゃんとクラスメートとしての関係性を演じてくれた。みんなの前でその手を取ることを少し恥ずかしく思ったが、痛みでそれどころではなかった。
そうするべき理由があるとはいえ、藤村繭香に支えられる奨吾を見た男子たちから口々に「うらやましい」という声が上がる。
悔しさからか、小学生のようにからかう者もいた。安定の筋肉脳、山下が叫ぶ。
「んだよ、女に支えてもらって、かっこわりーやつ!」
すると繭香がゆっくりと振り返って言った。
「かっこ悪いのはどっち? 私、卑怯な人は嫌い」
氷のように冷たく、静かな声が響く。それはまるで、下卑た野次を飛ばした全員に言っているようで。ざわついた声は、一気に静まったのだった。
***
保健室に着くと『緊急応対中。すぐに戻ります』という手製の立て札が掛けてあり、養護の先生は不在だった。
仕方がないので、とりあえずベッドに横になる。繭香は側らのパイプ椅子に座った。
その顔は無表情のまま。やはり余計な騒ぎにしてしまったことを怒っているのだろうかと、奨吾は謝った。
「なんか……ごめん。本当はもっとかっこよく助けられたらよかったんだけど」
繭香はふるふると小さく首を振った。
「もとはと言えば俺のせいだよね。俺が、山下に攻撃されているのを見て――」
「あいつはあとで消す」
「やめて」
すると、繭香の目からぽろり、ぽろりと、涙が落ちた。
「えっ、ちょ、ど、どうしたの。なんで泣いてんの?」
「だって。私のせいで、しょーちゃんを傷物にしてしまった」
「こ、こんなのただの捻挫だから! 繭香が気にすることじゃないよ」
「だめ……しょーちゃんが怪我するなんて絶対にあってはいけないこと」
「いや、本当に大したことないから!」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
彼女はぽろぽろと涙だけをこぼして泣き続ける。奨吾には、どうして彼女が泣くのかわからなかった。
実の母親に愛されなかった奨吾は、他人を思って涙を流すということが、とっさに理解できなかったのだ。
でも、感じることはできた。彼女が流す涙はとても綺麗で、その一粒一粒が、まるで心の傷を癒す薬のように染み渡っていく。
そのあたたかさに奨吾は戸惑い、少し迷ってから言った。
「……俺なんかのために泣いてくれてありがとう」
すると繭香はハッと目を見開き、首を振って涙を拭いた。真剣な表情で、まっすぐに奨吾を見つめる。
ギシリ、と、ベッドが軋む音がした。繭香がベッド脇に手をついて立ち上がり、奨吾のほうにゆっくりと顔を近づけた。
「えっ、ちょ、ま、繭香!?」
慌てて体を起こそうとすると、それを制するようにふわりと頭の上に手を置かれる。その手は小さな子どもをあやすように、ゆっくりとやさしく奨吾の頭を撫でた。
「俺なんか、なんて言わないで」
「で、でも実際、俺なんてさ」
「しょーちゃんだから、涙が出るんだよ」
その先を言わせまいとするように、畳みかけるように繭香が言った。その言葉に、胸が詰まる。
昔から、人にやさしくされたり親切にされたりすることが怖かった。自分なんかがやさしくされるはずがない、きっとなにか裏があるはずだと、そう思ってしまうからだ。母親に愛されなかったという劣等感。そのせいで、人と深く関わることもできなかった。
でも、繭香のその言葉は、そんな奨吾の心と体を、まるで母親が抱き締めるように包み込んでくる。
「しょーちゃんのことはお母さんが一生守るからね」
「いや、お母さんじゃないから」
強がってそう言うのだけが精いっぱいで、頭を撫でられる手をはねのけることはできなかった。
お母さんの繭香も悪くない、なんて思ってしまうのだった。
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