第6話 お母さんとデート気分を味わいます。


 繭香はいつも、奨吾より先に学校から帰ってきている。

 それは、「お母さん」として彼を出迎えるためだ。

 繭香が「お母さん」モードになるのは、両親がいないときだけ、姿が見えない時だけである。そのため、「お母さん」モードになる前に、両親の不在をしっかり確認しておきたいのだろう。

 フリーのカメラマンとして働く奨吾の父親と、人気モデルとして活躍する繭香の母親は、朝から晩まで毎日忙しく働いており、在宅していることが少ない。

 それでも梨花子の方は、子どもたちを気遣ってか夕飯の時間には帰ってくるように努めているようだ。

 どちらにしても、学校から帰ったあと夕飯までの時間は、両親がいる可能性がほとんどない。繭香が「お母さん」になれるゴールデンタイムというわけなのである。

 しかし、時には例外の日もある。

 それが今日だった。


「おっかえり~! 我が愛しの息子よ! 会いたかったぞ~!」


 そこにいたのは、ある意味でお母さんモードの繭香よりも面倒くさい人物だった。

変なプリントのアロハシャツとボロボロのダメージジーンズという、一見汚らしい恰好だが、それがなぜか味になってしまう髭面の男。

上原洋一、奨吾の父親である。


「いや、やめて、そういうテンション」

「おいおい、なんだよぉ~そのつれない態度! スタジオに缶詰めだった父親がやっと帰ってきたんだぞ? もっとこう、喜んだりしてくれないわけ?」

「はいはい、うれしいうれしい」


 手を振ってあしらうと、名前を連呼しながら泣いてすがった。

 彼はいつもこんな調子である。男手ひとつで育ててくれたことには感謝しているが、この歳になるとちょっとウザい。

 全身の力で奨吾の腕にしがみつくおっさんを引きずりながら廊下を歩いていると、リビングから透き通った声が聞こえた。


「お茶が入りました」


 繭香である。同級生の素っ気ない繭香のままだ。なるほどと納得する。奨吾の父が珍しく家にいたので「お母さん」になれなかったらしい。

するとさっきまでぎゃあぎゃあと騒いでいた父親が急に真顔になり、すっくと立ち上がった。そして乱れた髪を整えると、


「はぁ~い! 繭香ちゃん、いま行くねぇ~!」


 と、スキップをしながらリビングへと消えていく。父親の猫なで声なんて、できれば知らないままでいたかったと、奨吾は思った。


***


 リビングに行くと、奨吾のぶんのお茶も用意されていたので、食卓に座った。

 藤村親子が持ってきたソーサー付きの上品なティーセットと、おしゃれな小ぶりのクッキーがテーブルに並んでいる。


「今日はアールグレイティーにしてみたのですが、どうでしょうか?」


 制服姿にエプロンをつけた繭香が、よそいきの声で言った。


「めちゃくちゃうまいよ。繭香ちゃんが淹れてくれたお茶は最高だなぁ!」

「誰が淹れても味は同じですよ」

「いや、そんなことない! 最高!」

「気のせいだと思いますが」

「気のせいでもいいんだって。大事なのは心だよ、心!」

「心は入ってません」

「いいねぇ、そういうクールなところ」


 繭香の言葉を受けて、洋一はガハハと豪快に笑う。奨吾は久しぶりに目の当たりにした我が父親のコミュ力に、あらためて感心してしまった。

 彼は娘とのティータイムがよっぽどうれしかったようで、ぺらぺらとよく喋った。そして繭香は、無表情ではあるが嫌な顔というわけではなく、相槌を打ちながら話を聞いている。時おり辛辣なツッコミを(おそらく無自覚に)するが、フリーランスとして荒波を乗り越えてきた洋一にとって、そんなのは軽くいなせるジャブだ。なんなら笑いに変えてしまうことだってできる。

 ふたりが話している様子は、娘と仲良くなりたいお父さんと思春期でつれない態度をしているがまんざらでもない娘といった感じで、仲睦まじく微笑ましいものに見えた。

 とはいえそれは、この小汚いおっさんのコミュ力というスキルのおかげなわけで、実の親子でありながらそれを持たない奨吾は、紅茶を飲みながら肩を落とした。

 高嶺の花・同級生モードの藤村繭香とあんなふうに会話を続けるなんて、自分には絶対にできない。


 お母さんのときなら平気なんだけどな……。


 ふとそう思ってしまい、慌てて首を振った。

 あの狂気の世界に馴染んでどうする。仲良くなるのなら同級生の藤村繭香と、だ。

 頷いて紅茶を一気飲みする。とても、熱かった。


「そうだ、奨吾。悪ぃんだけど、買い物頼まれてくれねーか?」

「いいけど、どこまで?」

「駅前のスーパー。今日は俺が夕飯を作ることになってんだ。梨花子さんに手料理をご馳走すんだよ! あ~緊張するなぁ。喜んでくれるかなぁ」

「あーそう。で、何を買えばいいの?」

「醤油と味噌を頼む。俺はいまから下ごしらえしねーといけないからさ」


 わかったと返事をすると、締め切り明けの小汚いおっさんは愛しの妻の名前を呼んで身をよじらせた。父親の新婚デレデレ姿を見るのは複雑だ。しかし、これまでの父親の苦労を知っている分、幸せになってほしいとは心底思っている。


「じゃあ、いってくるよ」


 苦笑混じりに言うと、繭香が立ち上がった。


「私も行く」

「えっ、いいよ。すぐ近くだし」

「私も、行く!」


 その力強い眼差しを見て把握する。これは「お母さん」モードだ。どうやら帰宅後「お母さん」として奨吾を迎えられなかったことで、欲求が高まっている。なんとかして「お母さん」になるチャンスを掴みたいという繭香の思考が透けて見えた。

そしてお買い物は最大級のチャンスである。

 彼女のお母さん的思考が読み取れるようになってきたあたり、自分もだいぶ狂気に染まっているなと思う。だがしかし、これは奨吾にとってもチャンスだと感じた。

 同級生の美少女とスーパーで買い物。これはちょっとしたデートのようなものである。


 今日こそはお母さんではなく藤村繭香との距離を近づけようと、奨吾は強く頷いた。


***


 夕方のスーパーは活気があり混み合っていた。

 入口に置いてあるカゴを手に取り店内に入ろうとすると、繭香が「こっち」と言ってカートを指差す。

たしかにカートを押したほうが運ぶのは楽だ。しかし今から買うのは、醤油と味噌だけである。もしかして彼女は、なにか他に買いたいものがあるのかもしれないと思いながら、奨吾はカゴをカートに置いた。

店内に進もうとする。しかしまた繭香に止められた。


「しょーちゃん。ここ、乗って」

「……は?」


 もしかして、カートの椅子になっている部分に座れと言っているのか? 困惑する奨吾の横を、小さな子どもをそこに座らせた親子連れが通り過ぎる。

 繭香は目を輝かせてポンポンと椅子を叩いた。


「ほら早く、乗って? お母さんが押してあげるから」


 心なしかハァハァと息まで荒くしている。


「いや、乗らないから! ていうか乗れないから!」

「しょーちゃんならできる」

「店内ざわつくわ!」

「言いたいやつには言わせておけばいい」

「なんで急にストイックなんだよ!」


 高校生男子がカートに乗る乗らないという世界一くだらない押し問答を五分ほどして、ようやく店内へと入る。なんかもうめげそうだった。


「しょーちゃん、ほら見て。お魚さんが売ってるよ」

「買うのは醤油と味噌だから」

「しょーちゃん、ほら見て。細切れにされた豚さんが売ってるよ」

「いや、表現」


 繭香のお母さんモードは鉄壁だった。またこのスーパーという環境がよくない。お母さんになれる要素が多すぎるのだ。


「しょーちゃん」

「なに?」

「お菓子はひとつまでよ」

「お菓子欲しいって一言も言ってないよね!?」

「しょーちゃんの心の声」


 そう言って、奨吾の腕を引っ張り強引に菓子売り場へと連れて行く。美少女に腕を握られるという、本来ならうれしいシチュエーションであるはずなのに、ムードもなにもなかった。


「さぁ、なんでも好きなもの選んで」


 目の前には子ども向けの菓子がずらりと並んでいる。そしてリアルお母さんに「お菓子はひとつまでよ」とリアルに言われたリアル子どもたちが、突然に現れて売り場を占拠した高校生男子を唖然として見つめていた。いたたまれない。


「ほら、しょーちゃん。お母さんに遠慮しないの」


 ――お母さん!?


 リアル子どもたちは、制服姿の女子高生が発した言葉に思わず顔を上げる。そして奨吾と繭香を目だけを動かして交互に見たあと、なにかを察したように売り場から去って行った。

 小さな子どもにも狂気というものは伝わるらしい。ごめんよ、キッズたち……。

 彼らのトラウマにならないことを願いながら、奨吾は涙目でようやく菓子をひとつ選ぶ。繭香は満足そうに頷いた。


 そんなこんなを経て、ようやく醤油と味噌を購入する。藤村繭香と仲良くなるという計画は……失敗に終わった。


「荷物持ってくれてありがとう。しょーちゃんはやさしいのね」


 男の矜持で、せめて荷物を持つことを申し出たが、それすらも息子の矜持になってしまった。

 しかしこうなってしまったのは、奨吾にも原因があると自覚している。

 なんとかして同級生がする普通の日常会話を振ろうとするのだが、話題が見つからないのだ。共通の話題といえば学校のことになるが、繭香は孤立しているし奨吾には友達が陽人しかいない。学校生活にあまり興味がないという共通点はあるかもしれないが、それで盛り上がるとは思えなかった。

 非リアな奨吾は、女子高生が喜ぶような流行りも知らない。そもそも、彼女の趣味嗜好すらなにも知らないことにあらためて気づいて愕然とした。


 こんなんで仲良くなれるわけないよな……。


 父親のコミュ力を思い出して、奨吾は肩を落とす。すると、店を出たところにファンシーなカラーリングの出店があった。

 流行りのタピオカドリンクである。

 これだ! と奨吾は思った。こんなスーパーの前でも売っているあたり終焉の日は近そうだが、とにかく女子高生はみんなタピオカドリンクが好き。これなら会話が盛り上がること間違いなしである。

 幸いなことに、醤油に味噌と常温で悪くなるような品物は買っていないし、いまの繭香なら奨吾のお願いはなんでも聞いてくれる。

 ちょっと卑怯な気はしたが、甘える声でタピオカドリンクを飲みたいと頼んでみることにした。


「タピオカは不良の飲み物だからいけません」

「どうしてそうなった?」

「あの黒い玉は、黒い組織とつながっている証」

「お店の前でそういうこと言うのやめて」

「とにかくダメ。それにお菓子はひとつまで」


 繭香は頑として譲らず、奨吾は撃沈した。

 非リアが美少女とタピオカドリンクを飲むなんて、しょせんは夢物語だったのだ。がっくりと肩を落としため息をつくと、ファンシーなタピオカドリンク屋に背を向ける。

 すると背後から小さな、しかしよく通る透き通った声が聞こえた。


「だけど……今日は特別」


 振り返ると、頬を赤らめた繭香が恥ずかしそうに唇を尖らせていた。


「えっ、マ、マジで?」

「しょーちゃんがあんまり欲しそうだから」

「やった!」


 思わず声に出てしまう。タピオカドリンクが飲めることを喜んでいると思ったのか、繭香は慈愛の眼差しで奨吾を見つめる。心なしか、小さく微笑んでいるようにも見えた。

 定番だというミルクティーのタピオカを頼み、小さなベンチに腰掛ける。ふたりともタピオカドリンクを飲むのは初めてだった。

 不思議なもので、同じものを飲んでいると会話は自然と弾んだ。


「うわ、こんな感触なのか」

「……もちもちしてる」

「あっ、写真撮らなくていいの?」

「写真……?」


 女子高生はみんなタピオカドリンクを撮ってバエな写真をSNSにアップする生き物かと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

 まぁ、藤村繭香はそんな俗っぽいことはしないか。奨吾はひとりで納得しながら、タピオカを吸う。すると、パシャリとシャッター音が響いた。


「えっ?」


 顔を上げると、繭香がスマホで2ショットを撮っていた。

 

「……記念」


 バカみたいに顔が熱くなる。落ち着け、繭香はお母さんとして親子の記念写真を撮っただけなんだ。でも……。


 同級生の女の子とふたりでタピオカドリンクを飲み制服姿で自撮り2ショットなんて、これじゃまるで普通のデートだ。


 奨吾はここがスーパーの前であることも忘れてニヤけてしまう。繭香に「おいしい?」と尋ねてみたが、


「……甘すぎるよ」


 という素っ気ない返事をされ、顔をふいとそらされてしまう。冷たくされたのに、奨吾の心が弾んだ。

 だってそれこそが、お母さんではなく藤村繭香としての態度なのだから。

 奨吾は再びニヤけながら、甘すぎるタピオカドリンクの味を噛み締めたのであった。








__Side 繭香


 流行に疎いのは昔からである。しかしそんな繭香でも、爆発的な人気であるタピオカのことはさすがに知っていて、少し興味があった。

こんなにも大勢の人を引き付けるなんて、いったいどんな味がするのだろうか。

一度飲んでみたいと、密かにそう思っていた。しかし彼女には、一緒にタピオカドリンクを飲むような友人がいない。かといってひとりで飲むには、ちょっと勇気が必要だった。

 だから奨吾が「タピオカを飲もう」と誘ってくれたとき、本当はすごくうれしかったのだ。それなのに、頷くことができなかった。


なぜなら自分はいま、「お母さん」だから。


 お菓子はひとつまでと約束してしまったし、そもそも制服姿で買い食いをするなんて不良のすることだ。ましてや、あのタピオカである。おじさんが販売したら断罪されただの、あの黒い玉にまみれることができる不可思議なテーマパークがあるだの、恐ろしい噂は後を絶たない。

 そんな飲み物にお母さんがテンションを上げるなんてこと、あってはならなかった。

 そう思って、一度は断ったのだが……


「だけど……今日は特別」


 好奇心が勝ってしまった。

 奨吾の頼みは、母親として叶えるべき。自分にそう言い聞かせながら、タピオカドリンクを受け取る。はじめて口にしたそれは、もちもちしてとてもおいしかった。

奨吾に写真を撮ったほうがいいと言われ、たしかにこれは親子の記念になると思った。

いつもは学校で隠し撮りをしているので、堂々と撮れる機会を逃すまいとスマホを取り出して構えた、そのときだ。


ほんのわずかであるが、奨吾と肩が触れ合った。


 ドキリと心臓が跳ねる。

 画面に収まろうとしたことで、知らず知らずのうちに近くへと寄ってしまったようだった。ただそれだけのことなのに、触れた部分からじわじわと体が熱くなる。飛び跳ねた心臓はもとに戻らず、どんどんと速くなった。

 動揺しながら慌ててシャッターボタンを押して身を離す。「記念」と二文字を口に出すのがやっとだった。


 この現象は、いったいなんなの? 


繭香は自分に問いかけた。触れ合っただけで胸が高鳴り、体が熱くなる。肩を並べてタピオカドリンクを飲んでいるというなんでもない出来事が、どうしてか気恥ずかしくなってしまう不思議な現象。

その答えは、彼女が普段読んでいる小説たちが教えてくれた。


――それは恋だ、と。


 繭香の顔が一気に赤くなる。そしてその瞬間、ここ最近の奨吾と過ごした記憶が、色を変えて一気に思い出された。

 自分が作り過ぎてしまった朝食を無理して食べてくれたこと、餃子に悪戦苦闘するのを見かねて手伝ってくれたこと、怒って部屋にこもった自分を心配して見に来てくれたこと、映画に感動して泣いているのを知らんぷりしてくれたこと__。

いま思えばかなり恥ずかしい姿もさらしてしまった。でも奨吾はいつだって、繭香のことを笑ったりしなかった。戸惑いながらも、まっすぐに応えてくれたのだ。

 そんな奨吾が「おいしい?」とタピオカの感想を尋ねてくる。


「……甘すぎるよ」


 おいしかったはずなのに、なぜか文句を言ってしまった。恥ずかしくて、彼の顔が見られない。繭香はタピオカの容器をぎゅっと握り締めた。


 ――恋しちゃ、ダメ。


 だって私は奨吾の「お母さん」じゃなきゃいけない。

 奨吾のために、そうすると決めたのだ。

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