第5話 お母さんと部屋で悪いことをしてしまいました。

 繭香の気持ちがうれしいと言った言葉は、どうやら彼女にとって都合のいい意味で伝わってしまったようだ。

 つまり、繭香が「お母さん」として接してくれる気持ちがうれしい、と。

 彼女は奨吾に認められたと調子に乗ったのか、ふたりきりになるとかなりの頻度で「お母さん」へとスイッチが切り替わるようになってしまった。

 学校に行こうとすれば「しょーちゃん、忘れ物はない?」と、しつこく持ち物検査をされる。

 学校から帰れば「しょーちゃん、一緒にドーナツ作ろうか」と、親子の手作りおやつ教室が始まる。

 リビングでうたた寝をすれば「しょーちゃん、子守歌うたってあげるね」と、背中をぽんぽん叩かれる。

 そんなふうにして、奨吾の日常は「お母さん」に支配されていった。

 繭香の「お母さん」としてのやり方は、基本的に子ども扱いである。なぜかはわからないが、奨吾を喜ばせるためにやっていることだけは明らかなので、無下にあしらうこともできない。

 しかし正直を言うと、少し息が詰まった。子守歌をうたわれるくらいはいいが(このあたりちょっともう麻痺しているけれど)長時間のゲーム、テレビ、スマホ、体に悪そうな食事は禁止と、生活まで厳しく管理するのは、さすがに勘弁してほしい。

 すっかりストレスが溜まってしまった奨吾は、繭香に隠れて、禁止されたそれらを存分に楽しむことにした。



 ……家族が寝静まった金曜日の夜。

 コンビニで買い込んだ大袋のポテチとペットボトルのコーラを手に、そろりそろりと階段を降りる。ちなみにこれらは、自分の部屋に隠しておいたものだ。冷蔵庫やリビングの戸棚に置いておくと、いつの間にか繭香が処分をしてしまうからである。


「砂糖と油の取り過ぎは体に毒。しょーちゃんは成長期なんだから」


 という理由らしいが、成長期という若くパワフルな時期なのだからこそ、これくらい無理させてほしかった。成長のためには無論、夜更かしも厳禁。だから最近、奨吾は健康的な食事に早寝早起きと、管理されすぎた息苦しい生活を送っているのである。


 たまにはジャンクフードを食べながら、夜更かしして好きな映画を観たい。


 というわけで、夜中にこっそりと起きてリビングにやってきたというわけである。

息を潜め、まずはキッチンの電気をつけた。辺りをきょろきょろと見渡す。繭香の姿はなかった。

「よしっ!」と思わず声が出る。すると背後から、


「なにがよかったの?」


 と、冷たい声が聞こえた。振り向くとそこにいたのは、ゆったりとしたシャツタイプのパジャマを着た繭香だった。


「ど、どうして!?」

「しょーちゃんが起きてどこかに行く気配を感じたから見に来たの」

「気配」

「そう、気配。お母さんはいつだってしょーちゃんを感じてる。それで、しょーちゃんはこんな夜中になにをしようとしているの? 手に持っているそれはなに?」


 繭香が鋭い目つきでポテチとコーラを見た。「こ、これは……」考えても、適当な言い訳が見つからない。こうなったら、素直に白状して許してもらうしかないと思った。


「い、いまから動画でも見ようと思ってさ。ほ、ほら、明日は休みだし。たまには夜更かしもいいかなって」


 動画という言い方をしたのは、定額制の動画配信サービスを利用して映画を観ようとしていたからだ。しかしこの言い方がまずかったらしい。繭香が「ひっ」と一歩退き、体をわなわなと震わせた。


「しょーちゃん、まさか……」

「え?」

「動画って、エッチなのを見る気じゃ……」

「はぁ!? な、なに言ってんだよ!? 違うって、俺は映画を」

「大丈夫。お母さん、わかってる。しょーちゃんにもいつかこういう日が来ると思ってた」

「いや、そういう変に理解あるの一番ウザいパターンだからね!?」

「お母さんは一体どうすれば……」


 深刻な表情の繭香を見ていて、奨吾は意地悪な気持ちになる。


「繭香こそ、動画って聞いて即そういう思考回路になるのエロくないか?」

「……へ?」


 繭香があまり見たことのない、きょとんとした表情になる。よっぽど想定外の言葉だったらしく、頬がみるみる赤く染まっていった。


「ち、違うし! エロくないし!」


 あ、これ素に戻ってる。ムキになって言ってくる繭香に、できれば素の彼女と接したいと日々願っている奨吾は増長した。


「いやいや、普通はそんなこと思わないでしょ。繭香がエロいせいだって」

「エロくない! 奨吾がエロいから疑ったの!」

「俺エロいって思われてたの!?」

「奨吾はエロい! 今証拠を見せる!」


 繭香は唇を噛み締め、ぎゅっと目を閉じたあと、決心したようにシャツのボタンに手をかけた。


「ちょ、ちょっと待って! なにしてんの!?」

「女子の体見たら興奮するに決まってる! 何故なら奨吾がエロいから……!」

「えっ? えっ? 繭香待って落ち着いて」


 しかし繭香はよっぽど動揺しているのか、奨吾の声が聞こえていない様子。息を荒げ、ゆっくりとボタンを外していく。

 しんと静まり返った深夜、両親はすでに寝ている。キッチンのライトだけが灯るリビングは薄暗く、ベッド代わりになる大きなソファが妙に視界に入ってくる。

 心臓がバクバクと大きく鳴っていて、頭がぐらぐらした。

 艶やかな繭香に見惚れ、無意識にごくりとつばを飲み込んでいた。

 ボタンを外しながら近寄ってくる彼女を前にして、奨吾は。


「だめええええええ!」


 悲痛な叫び声をあげた。煩悩を消し去るためだ。ただし、両親が起きてこないように極力声を抑えた。そして迫ろうとする彼女を押し返す。


「何がダメなの?」

「決まってるだろ!? こういうことは……す、好きな人としか、しちゃいけないんだよ」

「でもエッチな気持ちになったでしょ?」

「いや、それは……」


 当たり前だ。興奮しないわけがない。でも奨吾の方がエロいと認めさせたいだけの繭香に脱いでもらうのは本意ではない。

 こうなったら仕方ないと、奨吾は止むを得ず切り札を出すことにする。


「お母さん相手にエッチな気持ちにはならないだろ?」


 繭香はハッとした。繭香にとって、一番効く言葉だ。これでもうこのおかしな空気は消え去ってくれるに違いない。奨吾は詰めていた息を吐こうとし、


「ごめんなさい。お母さん、間違えてた。しょーちゃんは、こういうのが好き」


 おもむろにパジャマのズボンを脱ごうとする繭香に目を剥いた。


「ちょ、ちょっと、今度はなに!?」

「待ってて。いますぐ彼シャツ一枚のお母さんに」

「どーしてそうなった!」

「脱ぐなら彼シャツ一枚のお母さんになるのが、しょーちゃんの望み」

「もうそれ忘れてください!」


 奨吾は土下座をする勢いで頭を下げた。だから異様にぶかぶかのシャツを着ていたのかと、把握する。


「忘れないよ。だって、しょーちゃんの好きなものは全部覚えてる」


 繭香は奨吾をまっすぐに見つめて言った。

そう、彼女はいたって真剣なのだ。だから「彼シャツ一枚」なんて、くだらない奨吾の性癖もちゃんと覚えている。

 一時素に戻ってくれたのに、結局彼女は「お母さん」になってしまう。

 けれど、素の繭香より、お母さん繭香の方が、奨吾にとって冷静に対処できる相手になっている。


「そんなん、ずるいよなぁ……」


 奨吾は思わずつぶやいてしまう。

 繭香のシャツのボタンは3つも外されていて、胸元が大きくはだけている。

 そんな状態の美少女と薄暗い部屋でふたりきりというこの状況は、エッチな動画なんかよりもよっぽど刺激が強いっていうのに。


「なにが、ずるいの?」


 しかし当の本人は、きょとんとした顔で首を傾げた。どうやら自分の魅力にはまったく無自覚らしい。

 その無防備な様子が子どものように見えて――つい手を伸ばしてしまった。


「ボタン。風邪ひくよ」

「っ……な、夏だから平気」

「俺が平気じゃないんだ」

「……どうして?」


 理由は答えなかった。

 指先に繭香の視線を感じながら、ひとつひとつボタンを留めていく。簡単なことなのに、指に力が入ってしまって、うまくできなかった。時間がとてつもなく長く感じられる。

 ボタンの位置で気づいたが、繭香は男性用のシャツを着ていた。つまり、ほんとうに彼シャツというシチュエーションを再現しようとしていたのである。

それもこれも全部、奨吾のためだ。でも。


「彼シャツは恋人同士だからいいんだ」


 ボタンをすべて留め終わる。奨吾の小さな声は、うつむいている彼女の耳には届かなかった。


「あ、ありがとう」

「どういたしまして」


 自分のために「お母さん」としてなんでもしようとする繭香。ふと、思う。ならば「お母さん」としてお願いすれば、彼女はどんな頼みも聞いてくれるのだろうか。

 奨吾にはどうしてもしてみたいことがあった。それはこの年頃の男子であれば、誰でも一度はしてみたいと思ったことがあるだろう。しかも相手が同級生の美少女・藤村繭香であれば、こんなにも心躍ることはない。まして奨吾は、彼女に恋心を抱いているのだから。


 これが叶ったら、死んでもいい。


 そう思って、つばをごくりと飲み込むと、奨吾は言った。


「あのさ……いまから一緒に映画、観ない?」


 好きな女の子と映画鑑賞をする。それは映画好きの奨吾にとって、ずっと憧れていたことだった。

 繭香の「お母さん」モードに、わけもわからずいつも振り回されて。そのせいで、奨吾の恋は叶いそうにない。

 だからこれくらいの我儘を言っても許されるのではないかと、そう思ってしまったのだ。


「ダメ。こんな夜中に映画を観るなんて。それに映画は、青少年に悪影響を及ぼす」


 繭香の返事は想定内だった。普段なら「いつの時代だよ」と突っ込むところだが、今回はその返事を利用させてもらう。


「そう、だからさ。繭香に健全な映画を選んでほしいんだ」


 お母さんに、と言わなかったのは、せめてもの反抗である。しかし繭香は案の定、この言葉を自分に都合よく解釈した。


「お、お母さんがしょーちゃんのために健全な映画を選ぶ……!」


 与えられた「お母さん」としての役割に、無表情ながらも目だけを輝かせる繭香。ここでもう一押ししておく。


「夜中に映画を観るのはよくないかもしれないけれど、昼間は勉強をしなきゃいけないだろ? こんなときにしか時間が取れないんだ。だから、お願い!」


 このお願いが効いた。繭香は「わかった」と珍しく大きな返事をして、


「さぁ、しょーちゃん。お母さんがしょーちゃんにふさわしい映画を選んであげる」


 と、張り切ってソファに座る。膝をぽんぽんと叩いているのは、もしかしてそこに座れという意味なのかと思ったが、それには気づかないふりをする。

 奨吾は緊張しながら、彼女の右横にそっと腰かけた。重みでソファが揺れ、彼女の肩が少し触れる。奨吾の左半分が、照れて熱くなった。

 テレビを付け、映画を配信しているサイトにつなぐ。画面にずらりと映画のサムネイルが並んだ。リモコンを繭香に渡し、そのなかから「健全な映画」を選んでもらう。

 恋愛映画、ホラー映画、過激なアクション映画を次々に飛ばして、彼女はようやくひとつの映画を選んだ。


「動物の映画なら間違いない。これにしましょう」


 それは泣ける映画として鉄板の犬の映画だった。映画好きの奨吾はすでに視聴済みで、たしかにこれなら、青少年に悪影響を及ぼすことはまずない内容だ。彼女の「お母さん」としての威厳も保ってやれる。

 と、思ったのだが……。

これが繭香にとって思わぬ誤算となってしまった。

 この映画は、犬との交流がコメディタッチで描かれるが、油断をすると「泣き」のシーンが訪れる。すると隣から、すんと鼻をすする音が聞こえた。

 見ると、繭香の肩が小さく震えている。


「これ、泣けるよね。ティッシュ取ろうか?」


 話しかけると、ハッとして急に背筋を伸ばした。


「泣いてない。お母さんなんだから泣くわけない」

「いや、お母さんだって映画で泣くと思うけど」

「あとでしょーちゃんと感想を話し合って親子ディスカッションするから真剣に観ている。話しかけないで」

「ごめん」


 しかししばらくして、今度は盛大な音が聞こえた。


「うっ……ずび……」

「やっぱりティッシュ、取ろうか?」

「だから泣いでないっでば!」

「はい」

「……ティッシュ」

「はい」


 数枚のティッシュで顔を覆った繭香は、それで安心したのか、あとはもう大洪水だった。


「ずびっ……うっ……あうっ……」


 それは感動の涙なんてレベルではなく、もはや嗚咽。奨吾はそっと、ティッシュを箱ごと渡した。


 まさかあのクールな美少女が、こんなにも泣き上戸だったなんて。


 それはクラスの誰も知らない、奨吾だけが知っている繭香の顔だ。そのことがうれしくて、感動のシーンだと言うのにニヤけてしまう。

 奨吾はずっと、映画ではなく横目で繭香を見ていた。

 思わずクスリとなるシーンで、無表情を装いながらもふっと小さな笑いを漏らした彼女。主人公がつらい目に遭うシーンでは、ぎゅっと唇を噛み締めていた。そして感動的なシーンには、こんなにも共感してしまう。

 それは「お母さん」ではなく、飾らない藤村繭香の姿だった。

 映画が終わり、エンドロールが流れる。彼女はいつの間にか体操座りをして丸まっており、ティッシュで顔を覆って、まだずびずびとやっていた。しかし字幕が流れるに従って、だんだんとその体勢が整っていく。ソファに良い姿勢で腰かけ、背筋をピンと伸ばし、丁寧に涙を拭いたころ、ちょうどエンドロールが終わった。

 すっかりいつもの様子に戻った繭香がこちらを見て言った。


「とてもいい映画だったわね。しょーちゃん」


 さっきまであんなに泣いていたのに。

 そのギャップがおかしくて、奨吾はつい笑ってしまった。


「うん、いい映画だったよ」


 ふたりでした、深夜の映画鑑賞という悪いこと。


 おかげで誰も知らない藤村繭香の一面が見られた。それは奨吾にとって飛び上がるほどうれしいことで、「お母さん」に誘惑されたときよりもずっと、ドキドキしていたのだった。

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