第10話 完璧な同級生に告白されています。
綿あめのように甘い夜が終わり、いつもどおりの日常がはじまった。
あの藤村繭香と夏祭りデートをして、あまつさえ手をつないだなんて……やはり何日経っても信じられない。
あれは本当に現実だったのだろうか?
慣れない下駄を履いた足を引きずる繭香がかわいそうで、つい手を差し出してしまった。彼女の性格を考えれば、断られることも覚悟のうえである。
でも繭香は、迷うことなく手を取ってくれた。しかもそれだけでなく、ぎゅっと手を握り返してくれたのだ。
どうして彼女は、俺なんかと手をつないでくれたのだろう?
それからもうひとつわからないことがある。それはあの夜、繭香が「お母さん」にならなかったことだ。
それは奨吾にとって喜ばしいことではあったが、同時に不可解でもあった。
繭香は奨吾とふたりきりになったとき、ほぼ必ずと言っていいほど「お母さん」になる。
見分け方は簡単で、奨吾のことを「しょーちゃん」と呼ぶか否か、だ。
だが夏祭りの夜、ふたりきりになったにも関わらず繭香はそうならなかった。名前を「奨吾」と呼び捨てにしたうえに、その言動は紛れもなく、ごく普通の同級生の女の子のそれだったのである。
「もしかして……少しは俺のこと意識してくれたとか?」
ベッドに転がりながら独りごちる。もしそうなのだとしたら、こんなにもうれしいことはない。でもこれは奨吾の希望的観測だ。
せめてあの夜の以後、彼女に何かしらの変化があればと思うのだが、その態度は悲しくなるほどにいつもどおりだった。
そう、いつもどおりの素っ気ない態度。
あの日以来、家で繭香とふたりきりになることがなかったので「お母さん」モードになることはなかったが、こうなってくるとむしろあのやさしいお母さんが恋しいくらいだ。
「いや、お母さんじゃないからっ!」
思わず虚空に向かってツッコミを入れてしまう。自分はいま、なんと恐ろしいことを考えてしまったのか。
好きな女の子がお母さんになることを望むなんて、そんなのは熟練者の趣味嗜好である。
奨吾は恋愛初心者、そしていたって普通の趣味嗜好を持つ男子高校生だ。恋をするなら、普通の女子高生がいいに決まっている。
あの日、心臓が壊れるくらいにときめいたのは、相手が同級生の藤村繭香だったから。
でも、彼女はどうだったのだろう?
繭香にとって自分はどういう存在なのだろうか。義理のきょうだい、息子(息子て)、同級生。彼女と両想いになりたいなんて贅沢なことは言わない。でもせめて、普通に同級生の男として見てほしいと、ずっと思っていた。
繭香が同級生の女の子として接してくれたあの夜は、ようやくそのステージに上がることができたということなのだろうか? それとも単なる彼女の気まぐれ?
そんなことをもやもやと考えていたら、残りの夏休みはあっという間に終わってしまった。
***
二学期がはじまった。
今日は父親が出張、梨花子も早朝から撮影ということで、夏祭りぶりに繭香とふたりきりである。
きっと繭香はお母さんモードになって張り切っているのだろうな。
悲しいけれど、そう思う。あの夢のような夏祭りの夜のできごとは、日にちが経つにつれ「もはや夢だったのでは?」と感じるようになってきた。
ただひとつ、それが現実であると証明するものがあるとすれば、リビングに置かれた小さな水槽に、かわいらしい金魚が泳いでいることである。
リビングに降りていくと、ちょうど繭香が餌をあげているところだった。なにやらブツブツと言っているので、耳を澄ましてみる。
「ふふっ、朝ごはんだよ。たくさん食べてね、モサー」
え、かわいい。
繭香はモサーに話しかけながら餌をやっていた。かわいいので立ち聞きする。
「わーすごい! いっぱい食べたね~モサーはえらいね。ん? そうなの~おいしかったの~よかったでちゅね~」
__お母さん!?
繭香はモサーのお母さんになっていた。一瞬、お母さんを取られると思ってしまった自分の恐ろしい考えについてはとりあえずスルーして、奨吾は合点する。
彼女は生来そういう性質なのだ、と。
自分よりも弱く小さな生き物に対して、お母さん的な行動を取ってしまう。繭香にとって奨吾は、義理のきょうだいという守るべき存在。そして何もかも完璧な彼女からすれば、自分など金魚と同レベルに弱く小さな生き物なのだろう。自分で言っていて悲しくなってきたが。
ということは、やはりあの夜のこと彼女の気まぐれ。個人的にただ夏祭りを楽しむため、お母さんモードを封印したに過ぎないのだ。
ネガティブな奨吾にとっては、この考え方のほうがしっくりきた。
というわけなので、家にふたりきりでいるというこの現状、繭香は必ず「お母さん」になる。
奨吾はごくりと唾を飲み込み、声をかけた。
「繭香、おはよう」
「!?」
背後から声をかけられて驚いたのか、繭香は飛び上がった。しかしすぐに体裁を整え、キリリとしたいつもの表情になる。
「おはよう」
「モサー元気?」
「いつもどおりよ」
「それはよかった」
「奨吾、朝ごはんできてるけど食べる?」
「ああ、うん。ありがとう」
__えっ?
返事をしてからハッとする。繭香はいま「しょーちゃん」ではなく呼び捨てで「奨吾」と呼んだ。
用意された朝食はトーストとカリカリのベーコンエッグで、「成長期だから」と山盛りであったり、パックの牛乳が用意されていたりもしていない。
どうしてふたりきりなのにお母さんにならないんだ?
正常な世界に困惑する奨吾。彼女が夏祭りでお母さんにならなかったことは、気まぐれではなかったのだろうか。あの日以来、繭香はお母さんになるのをやめた?
ちらりと盗み見た繭香は無表情で淡々とトーストをかじっており、その様子からは何も読み取れない。
結局その日の朝、藤村繭香が「お母さん」になることはなかった。
***
「あ~……夏休みがもう終わったとかマジかよ……」
始業式が終わりホームルームまでの空き時間。陽人の嘆きの声は、しかし生徒たちの喧騒にかき消された。
新学期の教室はざわざわと浮き足立っている。久しぶりに会ったクラスメートとの会話を楽しむ生徒たちがほとんどであるなか、陽人と奨吾はふたりでひっそりと隅にいた。
お互い他に友達がいないし、そういう生徒にとって学校生活というのは特に楽しいものではない。だから周りの陽キャたちのように、新学期にテンションが上がったりはしないのである。
しかし奨吾は別の理由で密かに浮き足立っていた。
それは朝、繭香が「お母さん」にならなかったこと。
もしあの夏祭りをきっかけに彼女のお母さんモードが終了し、同級生の藤村繭香に戻ってくれたのだとしたら、こんなにうれしいことはない。
思わず彼女のほうを見てしまう。繭香は背筋をピンと伸ばし、ひとり読書をしていた。彼女にとっても、新学期というのは単なる過程の区切りに過ぎないのだろう。
なぜ繭香は「お母さん」になることをやめたのか?
その理由が自分にとって喜ばしいものであることを願いながら、帰ったら尋ねてみようと奨吾は決意した。
そのときである。ガラリと勢いよく前方のドアが開いた。
「やっほ~、るなぴよだよ~?」
花が咲くような笑顔。そこにいたのは、隣のクラスの荻野瑠奈(おぎのるな)だった。自分で名乗っているとおり、あだ名は「るなぴよ」。
担任が入ってきたのだろうと慌てて席に着こうとした生徒たちが、その動きを止めて沸き上がる。友達なのだろう、数人の女子たちがわっと駆け寄った。
荻野瑠奈は学年のアイドル的存在の女子生徒だ。
ほどよく茶色に染められたポニーテールに、ぱっちりとした瞳。気ままなしぐさや、間延びした喋り方のどれもが愛らしく、人の目を惹きつける。少し袖あまりの制服は、計算なのか天然なのか、とても愛らしさを引き立てていた。
いつも笑顔で、おしゃれアンテナの高い、ゆるふわJK。
普段から笑みを絶やさず、かつその笑みに嫌みのない彼女。男女や相手を問わずどんな生徒にも分け隔てなく気さくに接してくれるのだから、人気者であるのは必然だった。
まさに神対応アイドル。誰もが憧れるパーフェクトな同級生なのである。
そんな荻野瑠奈が、取り囲む女子たちの応対もそこそこにこう言ったのである。
「ねぇ~。上原奨吾くんって、いるかなぁ?」
誰もがるなぴよの声に耳を澄ました。
教室内は一瞬静まり返ったあと、騒然とする。理由は簡単だ。
どうしてあのるなぴよが陰キャの上原奨吾を呼び出す?
彼女の声は当の本人である奨吾にも届いていたのだが、彼自身にもまったく覚えがなかった。陽人が聞く。
「なんでおまえが呼び出されてんだ?」
「し、知らねーよ。こっちが聞きたい」
「あいつに何かしたのか?」
「してない。それどころか2年になってから喋ったこともないって!」
奨吾と荻野瑠奈は1年のときに同じクラスだった。他に接点はない。彼女の神対応の一環として話しかけられたことは何度かあるが、それだけである。
わけがわからないまま名乗り出られないでいると、向こうのほうから見つけられてしまった。
「奨吾くんっ! いたいたぁ~っ!」
荻野瑠奈はこちらを指差すと、抱き着く勢いで走り寄った。そして上目遣いに言う。
「ふふ。話すの、久しぶりだね~?」
彼女の長い睫毛がはっきり見えてしまうほどの距離。みんなのアイドル・るなぴよは、間近で見るとめちゃくちゃにかわいかった。みんなが好きになるのもわかる。
「どしたの? 奨吾くん、ぼ~っとしてる?」
「い、いや、なんでもない。お、俺、何かしたっけ?」
「ううん? 何も~? ふふ、変なの」
荻野瑠奈はころころと笑い、ごく自然に奨吾の腕に触れる。ドキリと心臓が跳ねた。
人気者のJKなんて、自分ともっとも相反する存在だ。そんな彼女に不意打ちのボディタッチをされ、奨吾は自分でも恥ずかしくなるくらい動揺してしまった。
このボディタッチは計算なのか? それとも天然なのか? そう不意に疑ってしまうくらい、しぐさはあざといのだが、彼女の満面の笑みは全ての疑問を帳消しにしてしまう。
「あのね、話したいことがあるんだ」
「な、何?」
「ん~……ここじゃちょっと言えないよ? だから……」
意味深な言葉を聞いて、男子たちは総立ちになる。荻野瑠奈は「きみたちには教えない」と言わんばかりに、悪戯っぽい目つきで彼らを一瞥してから、背伸びをして声を潜めた。
「放課後、屋上に来て?」
耳元で、ちゅっと音が鳴る。息がかかる。
ぞくりと鳥肌が立って、奨吾は「わっ」と思わず彼女を引き離した。
「えへ~。待ってるからね」
荻野瑠奈はにこっと笑って、短く仕立てたスカートを翻す。
ふと視線を感じて顔を上げると、読書をしていたはずの繭香が、じっとこちらを睨んでいた。
***
荻野瑠奈に言われたとおり屋上に行くべきか否か、奨吾は迷った。
からかわれているだけなのかもしれないと思ったが、それにしてもメリットがない。
人気者で友人も数多くいる彼女が、どんな理由であれ自分なんかに時間を割くこと自体があり得ないと、そう思ったのである。
だとすれば結論はひとつ。彼女はほんとうに、奨吾に「話したいこと」があるのだ。
あの場では言えないというのが不可解ではあるが、あれだけ注目を浴びてしまっては、どんな用事であれ話しにくいだろう。
人気者も大変だな……と思いながら、奨吾は屋上へと足を踏み入れる。荻野瑠奈はそこにいた。
「待ってたよ~」
彼女はフェンスに腰をあずけながら、内またに座っていた。
その天使のように明るい笑顔は、自分のような陰キャにはやっぱりまぶしくて。
「えっと、話したいことってなに?」
奨吾は顔をまともに見ることができず、うつむいてしまった。しかし彼女はそんなことお構いなしで立ち上がり、距離を詰めて、奨吾の視界に入ってこようとする。
「……!」
だからなんなんだ、そのあざといしぐさは。焦りで奨吾の思考が加速する。彼女は一貫した笑顔の裏で、何を考えているのかわからない。ボディタッチの多さ、短いスカート、いちいち人をまどわすような態度を見れば、人の反応を見てからかうのが趣味なのだろうか。しかし、彼女のどこかおっとりとした雰囲気に、裏があるとは思えないのも事実だ。
――るなぴよという人間は、底が読めない。
「あのね、奨吾くん」
彼女は「ふふ」と笑い、後ろ手を組みながら、奨吾の顔を覗き込んできた。
距離が近い。このままの勢いで顔と顔が触れてしまいそうなほどに。
「好きだよ」
その言葉は、遅れて脳に届いた。
「ああ、そう……えっ……?」
そして理解するのはもっと遅かった。
「あ、あの、それってどういう意味?」
「え~? わからないかな?」
「はい」
「ふふ。何度でもいうね。わたしはね~、奨吾くんのことを好き」
「は? 誰が、誰を好きって!?」
「――好き」
ぱっちりとした丸い目は、一瞬もそらすことなく、至近距離で奨吾を見つめ続ける。
「好き、好き、好き」
「はぁ…………えっ? ちょ、ちょっと待って!」
荻野瑠奈が……俺のことを好き!?
「そ、そんなわけないだろ!?」
「ん~? なんで?」
「だって荻野が俺なんかのことを好きになるわけない!」
「なんで、わたしの気持ちを奨吾くんが決めるの?」
「うっ……」
おっとりした笑顔の彼女に、もっともなことを言われてしまった。
本人がそう言っているのだから、それはほんとうであり、本人の意思である。
でもやっぱり信じられなかった。この場合、何かの罰ゲームや、からかわれているのだろうか、という考えのほうが自然だ。荻野瑠奈の、ゆったりしたマイペースな振る舞いは、ただ素直なだけなのか、本音が見えないのかわからない。だから奨吾はきっとからかわれているのだと自身に言い聞かせた。
「だ、だってさ! 好きになる理由がないだろ! クラス分かれてから、接点なんて何もなかったし。ていうか1年のときだって、ほとんど会話もしてないじゃないか!」
それは至極まっとうな主張だった。こんな関係性で、学年のアイドルが自分のことを好きになるなんてあり得ない。いや、普通の女の子だってそうだろう。
しかし彼女は言った。
「ふふ、ねえ、それって関係ある?」
「えっ?」
今一度ぐいっと距離をつめられた。
「好き」
「……!」
「理由なんて関係ない。だって……」
夏の気怠い風が吹き、短いスカートが翻る。
「奨吾くんはわたしの運命の人なんだもん」
人気者のJKであり、神対応アイドルであり、パーフェクト同級生の荻野瑠奈が、天使の顔をして笑った。
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