第4話 好きな人がまたお母さんになってしまいました。

 両親の出張をキッカケにして、奨吾の義理のきょうだいで、同級生でもある繭香が、「私はあなたのお母さんである」と謎の宣言をした。

 そして、お母さんらしい立ち居振る舞いを心がけていた。

 しかし、両親が出張から帰ってきた途端、まるでスイッチでも入ったかのように、元々知っているクールで近寄りがたい同級生の彼女に戻った。学校で視線を感じることはなくなり、自宅でも奨吾のことをほぼ無視。その姿には、『お母さん』の片鱗すら見えない。

 ……あれから数日。

 お母さんの繭香と過ごした日々は、夢だったのかとすら思う。


***


 夕食時。食卓を囲んでいるのは、奨吾、繭香、そして繭香の母(奨吾の義理の母親)・梨花子の三人だ。

 繭香は一切言葉を発さないで、黙々と食している。その姿は、学校の昼休みにいつも見かけているものとなんら変わらない。奨吾は試しに「醤油を取って」と頼んでみたが、無言で差し出された。今日の夕飯に醤油をかけるようなメニューはなく、それを突っ込んで欲しかったのだが。

 ひとりきりの夕飯には慣れているが、喋らない繭香との食事というのも、息が詰まってけっこうつらい。

 ただ、梨花子の方は気さくでよく喋るタイプである。そこだけは救いだった。

 奨吾の父親・洋一はいつも帰りが遅いので、夕飯のメンバーはたいていこの三人になる。そうなると必然的に、梨花子が会話の主導権を握ることになった。

 

「出張が多くてごめんなさいね。奨吾くん」


 ストレートボブの髪を耳にかけながら、梨花子が申し訳なさそうに謝ってくる。いまだ慣れない美人モデルの義母を相手に、ぎこちなく奨吾は答えた。


「いえ、父も昔からしょっちゅうでしたから」

「でも、家事とか大変でしょう? この前の出張も突然だったから、全部あなたたちに任せきりで」


 さすがに「娘さん、完全に俺のお母さんになってましたよ」とは言えない。

 梨花子は普段から明るくはつらつとした性格で、モデルとしてもそのイメージで売っている。つまり裏表のない素直な人間だ。

 そんな彼女に繭香の一連の奇行を話したら、大騒ぎになるかもしれない。

 奨吾は迷いつつ、結局そつのない返答を口にする。


「繭香さんがいろいろやってくれましたから。助かりました」

「まぁ、ほんとう? 繭香ったら、やるじゃないの!」


 娘を褒められたことで、梨花子は心底うれしそうな顔になる。ああ、これこそが「母親」の顔なのだなと、奨吾はぼんやりと思った。


「……べつに。私は当たり前のことをしただけ」


 しかし娘のほうは、褒められても素っ気ない反応だった。

 口を開いたついでと言わんばかりに、梨花子に声をかける。


「それよりママ。この夕飯はなに?」

「なにって、いつもどおりでしょ?」

「これ、デパ地下のお惣菜でしょ」

「そうよ、おいしいのよね~Mデパートのお惣菜!」

「お惣菜ばかりだと脂っこいから……成長期に毎日続けるのはあんまり良くないかも」

「どうして? あなたも好きじゃない、Mデパートのお惣菜」

「す、好きじゃない」

「なんでそんな嘘つくのよ? ふたり暮らしのときは、今日はなに食べよっか~なんて言って、一緒に買いに行っていたでしょう」

「そ、そうだけど、私はいいんだけど……かっ……彼が」

「えっ、奨吾くん?」


 梨花子はきょとんとしている。唐突に会話の中心に振られた奨吾も、ぎょっと目を丸くしてしまう。


「奨吾くん、Mデパートのお惣菜は嫌い? あっ、もしかしてTデパート派だった?」

「い、いや! 何派とかないです! デパートの総菜なんて、むしろ高級でうれしいですよ!」

「奨吾は手作りの料理が好き」


 なぜか繭香が答える。奨吾は慌てた。これじゃまるで、自分が陰で文句を言っているかのようである。


「そうだったの? 奨吾くん」


 梨花子が尋ねた。カチャリと箸を置く音が、食卓に大きく響いた。気のせいかもしれない。けれど、妙に耳にこびりついてしまう。きっと梨花子を嫌な気持ちにさせてしまった。奨吾のせいで、彼女に不快な感情を抱かせた。

 頭がキンと痛んだ。

 それをきっかけに、景色がまるで、映像のようにぶれていく。梨花子の顔がぐにゃりとなって――別の女の顔に変わった。

 奨吾の体が強張り、小さく震えはじめる。奥底に閉じ込めているはずの、幼いころの記憶がよみがえった。


 ダイニングテーブルが当時の色に変わり、その上には豪華なデパートの総菜ではなく、袋に入った食べかけのスティックパンがひとつ置かれている。

 お腹はぺこぺこだったが、今日は朝も昼もこれだけで、さすがに飽きてしまった。このまま手をつけないでいたら、気づいてくれるだろうか。

 しかし目の前にいる奨吾の母は、手にした携帯電話をカチカチと操作しながら、奨吾のほうは見向きもしない。

 おそるおそる呼ぶと、「なに」と低く声だけで答えた。


 ――おなかすいた……。


 母は顔を上げて、ゆらりと立ち上がった。よかった、きっといまから夕飯を作ってくれるんだ。奨吾はほっとする。

 本当は、嫌われてしまったのかと思って怖かった。朝、スティックパンを渡したきり、外に出てずっと帰って来なかったから。でもそれは、きっと仕事かなにかだったんだろう。

 けれど。

 文句があるなら食べなくていいと、不愉快そうに口にし、彼女はスティックパンをゴミ箱に捨てた。

 それだけだった。母は奨吾から興味を失い、ふらりと立ち去っていく。


 まちがえてしまった。きっとそんなこと、言っちゃだめだったんだ。


 そう思ったそのとき、目の前の映像が、ぱちんと弾けた。


「あ、お、俺は気にしませんから、本当に! 別に手作り信者じゃないですし、梨花子さんは働いているんだから、料理くらいラクしないとですよ! ていうか、そもそもお惣菜を買うことは悪いことじゃないです! おやじとふたり暮らしのときなんて、コンビニ弁当がしょっちゅうでしたから。あ、でも、それでも別に文句はないっていうか、コンビニ弁当、普通にうまいっていうか……」


 気づいたら矢継ぎ早に話していた。話せば話すほど、言い訳じみて嘘くさいと自分でも思うのに、口が止まらない。


 いま自分は「母親」を困らせている。早くなんとかしなくては。


 頭はその思いだけに支配され、顔が熱くなる。部屋は冷房が効いていて心地のいい温度なのに、汗がどっと溢れた。梨花子の方を見られず、俯いてしまう。


 直後、聞こえてきたのは、高らかな笑い声だった。


「私も実は、コンビニ弁当大好き!」


 顔を上げると、梨花子がからからと笑っていた。汗が引き、急に視界がはっきりとする。頭の痛みも、すっかりなくなっていた。


「太るから滅多に食べないけど、たまに食べると妙においしいんだよね」

「そ、そうなんですよね! あの濃い味付けがいいっていうか」


 一緒になって笑いながら、安堵する。

 梨花子さんは良い人だ。些細なことを気にするようなタイプではない。そんなこと、短い期間一緒に過ごしただけで、もう分かっていたことだった。それなのにトラウマにとらわれた自分が、いちいち動揺してしまう。母のポジションに立つ人への緊張感が、いつまでもまとわりつく。

 ――奨吾の母親は、ある時期に精神を病み、幼い彼の養育を放棄していた。父親が在宅しているときはよかったが、ふたりきりのとき、奨吾の食事は作られなかった。1日分の食事としては少なすぎる量の菓子パンだけを置かれて、外出することもしばしばだった。

 それはやがて父親の知るところとなり、彼は離婚を決意する。しかし母親はそれに応じなかった。両親は毎日のように口論をするようになり、そして。

 でもそのことは、誰も知らない。唯一、境遇の似ている陽人にだけは少し話したことがあったが、それでも決定的なことまでは知らない。

 話せるわけが、なかった。

 膝に置いた両手の拳をぎゅっと握り締めた。甲にぽたりと汗が落ちる。ゆっくりと、ばれないように小さく深呼吸をした。

 ふと、繭香が怪訝な様子でこちらをじっと見ていることに気付く。様子がおかしいと、見抜かれてしまったのだろうか。

 奨吾は取り繕うように笑顔を作って言った。


「繭香、俺は手作りがいいなんて思っていないし、なんなら夕飯を用意してもらえるだけでありがたいんだよ」

「ほら、奨吾くんだっていいって言っているんだからいいじゃない」

「……ママはわかってない」

「そうかもしれないわね。でも、話してくれなければわからないわ」

「ママがそんなだから私が……」

「それはどういうこと?」


 繭香は黙ってしまった。重い空気が食卓に漂う。梨花子が大きなため息をついた。


「繭香、黙っていたらわからないわ。ママにいけないところがあるなら話して」

「……もういい」

「じゃあママだってもういいわ」


 ひとまずこの険悪な空気をなんとかしようと、あいだに割って入る。


「ま、繭香さんはきっと俺に気を遣ってくれたんだと思います! 彼女の手作り料理がすごくおいしくて。俺、感動していっぱい食べたから。だけど別に、手作りじゃないと嫌だってわけじゃないです。だ、だから喧嘩はやめてほしいなって……」


 言いながら、ふたりの顔色を伺った。繭香は不服そうであったが、梨花子の表情が晴れやかになり安堵する。


「なんだ、そういうことだったのね! それならそうと言ってくれたらよかったのに。せっかくの夕飯を変な空気にしてしまって申し訳ないわ。ほら、あなたも謝りなさい」


 しかし繭香は、ぷいと顔をそらした。


「嫌……私、悪くない!」


 ガシャンと食器が鳴る。彼女は荒々しく立ち上がると、リビングから出て行ってしまった。


「もう……あの子ったらいったいどうしたのかしら……」


 奨吾にもわからない。しかし、このまま繭香のことを放っておけないと思った。



***


――コンコン。


 夕食後、奨吾は繭香の自室の前に立っていた。

 静かにドアをノックして、入っていいかと尋ねる。嫌がられるかと思ったが、意外にもすぐに「どうぞ」という答えが返ってきた。

 一緒に暮らし始めて三か月経つが、繭香の部屋に入るのは初めてだ。いや、同級生の女の子の部屋に入ること自体初めてである。

 奨吾はごくりとつばを飲み込むと、ドキドキしながらゆっくりとドアを開けた。

 繭香はクッションを抱えて、ベッドにもたれるようにして座っていた。奨吾は少し迷ってから、その横に腰を下ろす。


「あのさ、さっきのことなんだけど……話してもいいかな?」


 繭香の肩がびくりと上がる。しかし表情は崩さずに、「いいよ」と小さく言った。


「でも、私は謝らないから」


彼女は「私」と言った。そして、その素っ気ない言い方は紛れもなく同級生・藤村繭香のもの。


「俺さ、夕飯が手作りとかそうじゃないとか、ほんとうにどっちでもいいんだ」

「……でも、私の手作り料理をおいしいって言ってくれた」

「そりゃあ繭香の手料理はおいしかったよ。でも、それとこれとは」

「私がお母さんになるから」

「……えっ? あれ?」

「私がお母さんよ、しょーちゃん」


 奨吾はだらだらと汗を垂らし、隣に座る繭香を直視してしまう。

 お母さんモードは、両親が出張に出ていたあの時限りの出来事ではなかったのか。


「あの、繭香……さん?」

「お母さんでしょ、しょーちゃん」

「あああぁ……」


 どうしてこうなったと、頭を抱えてしまう。

 奨吾にとって、繭香がお母さんモードになってしまうのは望ましくない事態である。どうにかして同級生の繭香を取り戻さねばならない。


「しょーちゃんのために、私が手作り頑張るから」

「あのね、繭香、聞いて。別に俺は、夕飯がコンビニ弁当でも買ってきたお惣菜でもいいんだ」

「しょーちゃんはお母さんの手料理うれしくないの?」

「それはうれしいに決まってるよ。手料理も弁当も、すっげえうれしかったよ」

「ほんとう?」

「ああ、ほんとうだ。でも、なんでうれしかったかわかる?」

「お母さんが作ったから?」

「違うよ。その……ま、繭香が、作ってくれたから……」


 目の前にいる美少女が、間の抜けた声で「えっ?」と言う。なんて恥ずかしいことを言ってしまったのかと、あとから顔が熱くなった。けれど奨吾は必死だった。好きな人がお母さんになるのは嫌だ。なんとか繭香を取り戻したい。


「それはどういう意味?」

「あーっと、だ、だからさ、ほら! その気持ちがうれしいんだってことだよ!」

「気持ち……」

「そう、気持ち! 梨花子さんだって、いつも俺たちのために急いで帰ってきてくれるだろ? お腹空いてるだろうから、待たせたら申し訳ないって。俺は、その気持ちだけでじゅうぶんありがたいんだよ。そもそも……」


 ――俺は「お母さん」なんて求めていないんだ。


 そう言おうとしたけれど、目の前で健気に「お母さん」ぶろうとしている彼女を見て思いとどまる。「気持ち」が大切だと言うのなら、彼女のそれも尊重するべきなのではないか?

 考えあぐねいた挙句。


「繭香、俺のためにありがとう」


 そう口にしていた。

 すると彼女の顔が、一気に赤くなった。


「……別に。お母さんなんだからこれくらい当たり前」

「お母さんじゃないけどな」


 せめてもの抵抗でそう言うと、繭香はむうと頬を膨らませた。無表情ながら、些細な感情の動きは奨吾にも分かるようになってきた。


「まぁ、とにかくさ。梨花子さんと仲直りしてくれよな」

「……だってママがママらしくしてくれないから」

「だからそんなこと俺、気にしてないんだって。ていうか梨花子さんみたいなママ、むしろ最高だろ。美人だしやさしいし若く見えるし、なにより明るいのがいいよな」


 指を折って彼女のいいところを数えていると、繭香がこちらを睨んでいた。


「な、なに? どうかした?」

「しょーちゃんはママみたいなママがタイプなの?」

「はぁ!? な、なに言ってんだよ! そんなわけないだろ!?」

「でもママのこと褒めた」

「ち、違うって! 俺はその、ただ梨花子さんのフォローをしようと」

「どうせ私は明るくない」


 繭香は唇を尖らせて、クッションに顔を埋めた。

 なんだろう? この反応は。少し、拗ねているようにも見えて、奨吾は慌てた。


「梨花子さんは、俺にとってお母さんだろ」

「お母さんは私だもん」

「わかった、義理のお母さんな。なんにせよ、家族に対してタイプとかないから!」

「じゃあどういうのがタイプなの?」


 繭香が顔を上げ、奨吾をじっと見る。


「そ、それは……」


 好きな女の子のタイプ。

 もしここで繭香などと答えたら、彼女はどう思うのだろうか。

 少し迷ったが、


「お、俺のことを好きになってくれるんなら、どんな子でもいいよ」


 勇気が出ず、普通の回答をしてしまった。しかし繭香は許さない。


「そんなんじゃわからない。具体的に教えて。髪型は?」

「に、似合ってたらなんでもいいよ」

「見た目を芸能人に例えると?」

「俺、テレビ観ないから」

「思わずグッときて抱き締めたくなっちゃう服装は?」

「そりゃあぶかぶかの彼シャツでしょ! って、なに言わせんだよ!?」

「しょーちゃんが勝手に言った」

「変な聞き方するからだろ!?」

「しょーちゃんは彼シャツを着たお母さんが好き。把握。着替えるね」

「わぁーっ! き、着替えなくていいから! ていうかそれは俺の単なる性癖……」

「せいへき……?」

「うわああああああ!」


 おもむろに制服のボタンを外そうとする繭香を慌てて止める。


「ていうか、タイプってお母さんのタイプのことだったのかよ」

「当たり前。なんだと思ったの?」

「うっ……」


 好きな女の子のタイプを聞かれていると勘違いしたなんて、口が裂けても言えなかった。


「私、しょーちゃんの理想のお母さんになるからね」


 決意に満ちた目で宣言する繭香を見て、ため息をつく。

 好きな人がまたお母さんになってしまった。

 一体どうして、繭香が奨吾のお母さんになろうとするのか、全然分からない。けれどもうこの流れを止めるだけの力を、奨吾は持ち得ていない。

 繭香の気持ちがうれしかったという言葉が、いつかほんとうの意味で彼女に届きますようにと、奨吾は願うしかなかった。

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