朝起きたら同級生がお母さんになっていました。
モノカキ・アエル
第1話 朝起きたら同級生がお母さんになっていました。
可憐な少女が、奨吾のことをのぞきこんでいた。
息がかかりそうなほどの至近距離だ。
これは夢に違いないと、奨吾は思う。まだ夢の続きなのだ、と。
黒目がちな大きな瞳が、奨吾をじっと見つめている。まばたきするたびに、ぱちぱちと音がしそうなほどまつげが長い。そんな彼女の、つやめいた小さな唇が動く。
「ねぇ……起きて……」
少女はその細い腕をそっと伸ばし、奨吾を揺り起こそうとする。動くたび、ふんわりと内巻きカールにした毛先が揺れ、漂う甘い香り。ああ、この匂いだったのだと、夢うつつの中で悟る。
「んっ……まだ眠いんだ……」
「まったくもう……しょーちゃんはお寝坊さんなんだから……」
慈愛に満ちた声が耳をくすぐり、奨吾は懐かしいような気持ちになった。
――お母さん……?
と、言いかけて、やめる。
奨吾に母親はいないし、母親にそんな言葉をかけられた記憶もない。そもそも、目の前にいるのは同世代の少女だ。お母さんなわけない。
意識がふわふわしていて、うまく状況を理解できない。
「ほら……起きて……遅刻しちゃう」
「大丈夫だって。スマホのアラームかけてるから」
「さっきも鳴ってた。いったい何回鳴らすつもりなの?」
「5回は鳴らす……」
「じゃあ最初から5回目の時間にセットするべきでしょ」
「5回鳴らさないと起きれないんだよ」
「意味がわからない」
夢にしては妙にリアルだった。
そしてこの声は、どこかで聞いたことがある。
「とにかく起きて。もう朝ごはんできてる」
もの静かだけれど、凛としたよく通る声。
そうだ、この声は同じクラスの
藤村繭香はクールな態度から教室では孤立しているが、成績は優秀、しかもハッとするほどの美少女である。学園の有名人ではあるが、本人は我関せずで、いつもひとり読書をしている。表情に乏しく、何を考えているか分からない。
彼女に憧れている男子はごまんといるが、声を掛ける勇気のある者は誰もいない。畏れすら感じる美貌を、高嶺の花だと遠くから眺めているだけだ。
そんな彼女が、今、奨吾の目の前にいる。
顔に息がかかりそうなほど至近距離に。
藤村繭香が。
「ッ……!!」
一気に意識が覚醒した。
奨吾は慌て、ベッドから体を起こす。
「なっ、なんで藤村さんがここにいるんだ!?」
「なんでって、なに言ってるの? もう3カ月まえから一緒に暮らしてるけど」
「いっ、一緒に暮らしてる……?」
寝起きの頭をフル回転させる。そうだ、思い出した。
――3カ月前、おやじが再婚して、俺たちは義理のきょうだいになったんだ。
「わあああああっ!!!!」
「どうしたの、急に大きな声を出して」
「ど、どうしたもこうしたも! なんで藤村さんが俺の部屋にいるんだよ!?」
「見ればわかるでしょ。起こしにきたの」
「だからなんで!?」
「だって私……」
彼女は少し頬を赤らめて言った。
「あなたのお母さんだから」
………………………………は?
「いや、お母さんじゃない」
「お母さんです」
「いや、キリっとされても違うから」
「私があなたのお母さんよ」
「言い方の問題じゃなくて」
いったい藤村繭香は、どうしてしまったのだろうか?
「……頭でも打ったのか?」
「打ってない」
「なんか変なもん食ったっけ?」
「あ、昨日はうちのママが宅配ピザなんて体に悪いものを食べさせてしまってごめんなさい。お母さんは、しょーちゃんに手作りしか食べさせたくなかったのに」
「待って、お母さんが渋滞してるから。それから、そのしょーちゃんって何?」
「え? しょーちゃんはしょーちゃんでしょ?」
「いや、はじめましてだわ! 昨日までそんな呼び方してなかっただろ?」
「今日からそう呼ぶことにしたの。だからしょーちゃんも、私のことは気軽にお母さんって呼んでほしい。だって、私たち家族になったんだから」
「義理のきょうだいなんだから、せめてお姉さんとかだろ!?」
「お姉さんになった覚えはない」
「お母さんになった覚えのがないだろ!」
「とにかく私のことはお母さんって呼んで」
「いやいやいや……」
「じゃあお母さんって10回言ってみて」
「お母さんお母さんお母さんお母さん…………」
「私は?」
「藤村繭香さん」
「チッ」
「いま舌打ちしたよね!?」
「じゃあ言わせてもらうけれど、いまだに藤村さんって呼ぶのはおかしい」
「ううっ……」
それはそのとおりだった。
高校二年の春から一緒に住み始めて3カ月になるが、奨吾はいまだこの生活になじんでいない。父親が再婚するというだけでも大ごとなのに、その再婚相手の連れ子が同級生だった。しかも近寄りがたい類のオーラを持つ異性。
せめて彼女が、気さくで話しやすかったなら。
彼女のクールな対応は家でも変わらず、奨吾は学校にいるときと同じく距離を取るしかなかった。
その結果、いまだに名字にさん付けとなってしまっていて、それに関してはいずれ改めなければと思っていた。
「わ、わかったよ! じゃあ……名前! 下の名前で呼ぶから!」
「お母さん?」
「いつから藤村お母さんになったんだよ。繭香だろ!」
勢いで呼び捨てしてしまった。どこか気まずい空気が流れる。
「繭香……」
「ご、ごめん」
「……藤村さんよりは、そっちの方がいい」
心なしか、繭香の頬に赤みがかっているように見えた。先ほどまでは真剣なまなざしで奨吾を見ていたのだが、視線が泳いでいる。
「お母さんって呼ぶの恥ずかしいなら、とりあえずは繭香で妥協する」
「え、二択なの?」
繭香はコホンとせきばらいをひとつして言った。
「じゃあ早く着替えて。朝ごはんを食べないと」
「ああ、わかったよ。それじゃあ」
部屋から出るように促したつもりだったが、繭香は奨吾の近くに立ったままだ。よくよく見れば、制服の上にフリルレースのエプロンを身に着けている。
「あの……」
「なに?」
「着替えたいんですが」
「だから待っているの。脱いだパジャマ、洗濯しないとでしょう」
「い、いいのか? このまま着替えて」
「なにか問題が?」
「いや、だって。俺がここで裸になるってことだぞ……?」
「そんなの平気……裸……?」
繭香の真っ白な頬が、今度は明らかに赤く染まった。
悟られまいとしたのか、即座に背を向け、ドアの方へと急ぐ。
「……へ、平気だけど? あぁ、でもそういえば、鍋に火をかけっぱなしだった」
わざとらしく言って、立ち去っていった。
しばらくして、外からどんがらがっしゃんという音が響く。
なにかにつまずいたらしかった。
「マジでなんだったんだ……」
昨日までとは、いや、藤村繭香を知ってからの彼女とは、まるで別人だった。
冗談だったのかなと思うが、繭香は真剣な表情だった。どこか、必死にも見えた。
「でもなんでお母さん……?」
同世代の女の子が朝起こしてくれるという夢のような時間は、「お母さん」の一言ですっかり色あせていた。同級生がお母さんに思えるわけがない。それに奨吾は――
「母親なんていらないだろ……」
無意識に、本音をぽつりと吐き出していた。
***
リビングに降りると、テーブルにはものすごい数の料理が並んでいた。
「えっ……こ、これは……?」
「しょーちゃん座って。朝ごはんの説明するから」
「お、おう……」
はたして朝ごはんに説明が必要なのだろうかと思いながら、奨吾は席につく。
「まず、こちらが洋食コーナー」
「コーナー?」
「そう、洋食コーナー。内容はウインナーにスクランブルエッグ。トーストにはバターとジャムをご用意しております。そしてこちらが和食コーナー。赤だしのおみそ汁にだし巻き卵、ほうれん草のおひたしと焼きのりです。ごはんは好きな量を自分でよそってください」
いや、ホテルの朝食バイキングかよ。
ご家庭で和洋選べる朝食ははじめてだと奨吾は困惑した。しかし繭香は冗談を言っている様子はなく、真剣に料理の説明をしている。
「お母さん、しょーちゃんのことを考えて栄養たっぷりの朝ごはんにしたから」
そしてまたお母さんである。
この茶番劇はいったいなんなのだろうか? と、奨吾は思案する。
そもそも彼女が朝食を作ることになったことに関しては、ちゃんと理由がある。
奨吾の父親、上原洋一はファッション雑誌から旅行のパンフレットまで、なんでも撮るフリーのカメラマンだ。そして再婚相手、奨吾にとっては義理の母親であり、繭香にとっての実の母親である藤村梨花子はファッション雑誌のモデルをしている。
そんな二人が、昨日からそろって出張となってしまったのだ。
奨吾は動揺した。もともと彼の父親は忙しく、ひとりには慣れているが、今回は繭香がいる。両親がいるときでさえ日常生活に気を遣っているというのに、二人きりだ。
いつもどおりに「いってらっしゃい」と両親を送り出した様子からは、彼女がいったいどう思っているのかは読み取れなかったが、きっと不安に違いなかった。
出張は二泊三日。明日の朝にはもう両親は帰ってくる。とはいえ、当然に家事をやらなければならないわけで。その分担を決めようと提案すると、繭香は言った。
「家事は得意だから、すべて私に任せて。あなたは何もしなくていい」
冷たく突き放す物言いに、背筋が伸びた。
父子家庭で育った奨吾は家事ができないわけではなかったが、得意とはいえなかった。男二人の生活は適当なもので、藤村母子を迎えるために急いで大掃除をしたくらいである。
そんなことは一緒に暮らしていてすぐに見抜かれていたのだろう。
なにもかも完璧な美少女は、きっと家事も完璧にこなすのだ。ここは触らぬ神にたたりなしである。
そんなふうにして、奨吾は家のことを彼女にすべて任せることにした。その結果、まさか彼女が「お母さん」になってしまうとは、誰が想像できただろうか。
彼女はどうして突然に「お母さん」になってしまったのか?
……ひとつの可能性として思いつくのは、『奨吾と仲良くなろうとしている』。
義理とはいえ、きょうだいになったのだから、繭香なりに今の奨吾との距離感を問題視していたのかもしれない。とはいえ、学校でも常にひとりでいる彼女である。他人との距離の詰め方をよく分かっていないのではないだろうか。そのため、間違った方向に突っ走ってしまったのでは。
ただ、それにしたって「お母さん」はやめてほしい。
どうにかしてこの茶番劇をやめさせる方法はないものかと思いつつ、ことなかれ主義の奨吾は強く出れる性格でもない。とりあえずテーブルを見回す。
「あのさ……これって、洋食か和食のどちらかを選べばいいんだよね?」
「…………」
繭香は黙っている。
確認したのは、それにしても量があったからだ。洋食か和食を、奨吾と繭香でどちらか選ぶ。そういうシンプルな量ではなかった。
繭香は引き続き黙っていた。
きれいな瞳が、少しだけ泳ぐ。そして、
「つっ……」
「つっ……?」
意を決したように言った。
「作り過ぎたの……」
「やっぱり」
「ごめんなさい」
頭を上げた繭香の頬は、真っ赤に染まっていた。
人数分の適量を作るというのは案外むずかしい。そのことを、少なからず料理の経験がある奨吾は知っていた。自分も父親と二人ではとうてい食べきれない量のカレーを作ってしまったことがある。あのときは自分を呪いながら、一週間カレーを食べ続けた。
だから奨吾には、彼女を責める気持ちはみじんもない。そもそも作ってもらっている立場で文句を言うなんて、最低の人間がすることである。
「いいよ。どっちもおいしそうだし。食べよう」
そう言って奨吾は、スクランブルエッグを口にした。
「んっ……うまい!」
卵は口の中でとろける、ほどよい半熟加減。バターもしっかり効いている。食欲を刺激され、厚切りトーストにかぶりつく。あっという間に平らげてしまった。
次は和食。赤だしをずずっと吸い込んだ。具は豆腐とわかめとネギ。みそ汁はシンプルなのが一番良い。だし巻きはふわっふわだった。かつおぶしのかかったほうれん草のおひたしはしゃっきりと歯ごたえがあり、どのおかずも白飯が進んだ。
「いや、マジでうまいよ、これ」
お世辞ではなく、ほんとうに箸が止まらない。その様子を見た繭香が「よかった……」と言って、小さくほほ笑んだ。
――え? 笑った……?
そのあまりにかれんな笑顔に目を見張った瞬間、食べていたものが喉に詰まった。
「んっ、ううっ!」
「しょーちゃん、大丈夫!?」
「だ、だいじょう……うぐっ」
「はい、お水!」
渡されたミネラルウォーターをごくごくと流し込む。傍らで繭香は心配そうに奨吾の顔をのぞき、ごく自然な手つきで背中をさすってくる。今度は水をむせてしまいそうになり、慌てて飲み込んだ。
あたたかい手が、背中を優しく、ゆっくりとなでている。
奨吾には、同年代の異性がこんなに密着してきた経験はない。彼女のことを意識してしまい、急速に鼓動が高まっていく。
「だ、大丈夫! も、もう大丈夫だから! 離れて、お願い」
奨吾が訴えると、繭香は「そう?」と首をかしげ、自分の席についた。
体温が急上昇して、汗がどっとあふれる。コップに残っている水を一気に飲み干した。
……これはいろいろとヤバイのでは?
真意は分からないが、繭香が「お母さん」と称して急激に奨吾との距離を縮めているのは確かだ。そしてそれは、物理的な距離も伴っている。
いくら家族になったとはいえ、彼女はつい最近まで同級生だった。というか、家族というものに対して冷めている奨吾にとっては、藤村繭香は同級生という認識の方が強い。
かわいい同級生がこんなに接触してきたら、いろいろもたない。視界がちかちかする。
まして彼女はお母さんなのだ。いや、お母さんではない。ダメだ、混乱している!
奨吾は目の前にある朝食バイキングを一気にかき込んだ。
「ごちそうさまでしたぁああああ!!!!」
「……全部食べたのね。しょーちゃん、えらいえらい」
トーンはいつものクールな繭香のままなので、かけてきた声はどこか棒読みめいて聞こえた。どうやら一生懸命お母さんらしい言葉を選んでいるようだ。あまつさえ、頭に手を伸ばしてきた。
なでられる予感に震え、とっさに伸びてきた手をかわし、奨吾は席を立つ。一刻も早くこの場所を離れたかった。
猛スピードで学校へ行く準備をして玄関に向かうと、パタパタとスリッパの音が追いかけてきた。
「しょーちゃん、待って」
今度はなにをする気なんだと、恐る恐る振り返る。すると繭香は、保冷バッグを差し出して言った。
「はいこれ、お弁当」
「えっ……お弁当……?」
「お昼ごはん、いつも菓子パン食べてるでしょ。栄養バランスが心配だから」
忙しい父親は早朝に出掛けることが多く、奨吾はいつも購買を利用していた。別にそのことに不満はないし、好きな物を好きなように食べられるのはむしろありがたいくらいだった。
だから繭香の母、梨花子が弁当を作ると言ってくれたときも断った。でもそれは、どこかで家族に対し、壁を作っているという面もあって。
繭香が、強引にその壁を越えてこようとしている。
こんな風に、手作りのお弁当を渡された経験は、初めてだった。
いらないと思っていたはずなのに、胸がじんわりと熱くなった。
わざわざ作ってくれたものを突き返すわけにはいかない。朝からずっと「お母さん」に困惑させられっぱなしだったが、さすがにこれは効いた。
「……ありがとう」
「気にしないで。自分のぶんを作るついでだから」
「それでも、ありがとうだ」
「じゃあお母さんって呼んで」
「いや、呼ばねーから」
ちょっと危なかった。
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