第17話 俺はやっぱりお母さんを求めていたのかもしれません。

 繭香を置き去りにして、ひとり店を飛び出してしまった奨吾は、たったひとりで歩いていた。

 ショッピングセンターは自宅からバスで15分ほどの距離なので、歩けないことはない。

 とはいえ家に帰りたい気分でもなく、奨吾はその距離ですらわざと遠回りをした。


「いいかげんそのお母さんってのやめろよ!」


 繭香に言ってしまった言葉が、今更になって胸を締め付ける。

 彼女が「お母さん」になろうとする理由は結局わからないままだ。

 ただ、確かなことは、彼女はいつだって自分のことを想って『お母さん』を演じている。

 それだけは、わかっていたのに──。


「傷つけるつもりは、なかったんだ……」


 奨吾は立ち止まり、ぽつりと呟く。

 あのときの、繭香の悲痛な表情が、脳裏にこびりついて離れない。

 好きな子にあんな顔をさせてしまうなんて……そう思うたび、両の手を強く握りしめた。


「くっ……」


 手の甲に、ポツポツと冷たい雨が落ちる。見上げると、大きな雲が空を覆っていた。あっと思う間に、土砂降りの雨が降る。

 しかし奨吾は、まるで自分に罰を与えるかのように、その雨に打たれ続けた。


***


「……ただいま」


 帰りたくない──そうは思っても、行く当てなどあるはずもなく。

 奨吾はめいっぱい時間をかけて、ずぶ濡れのまま帰宅した。仕事で両親はおらず、出迎えたのは繭香だった。


「! しょーちゃん、傘もってなかったの!?」


 やはり彼女は『お母さん』のまま。

 そのことで、肩にずんとした重みを感じつつも、いつもと変わらず接してくれたことに対して、どこか胸をなでおろした。

 想いにふけっていると、繭香がバタバタと慌てて、バスルームからバスタオルを運んでくる。


「早く拭かないと風邪引いちゃう」


 そう言って、バスタオルで奨吾を包み込み、わしゃわしゃと拭いた。

 冷え切った体にふわりとした感触があたたかく、ふにゃりと力が抜ける。

 つい彼女に体を預けてしまいそうになって、ハッとした。


「大丈夫、自分で拭けるから」


 バスタオルを半ば強引に奪い取り、びしょ濡れの髪の毛を拭いた。

 奨吾は頭を押さえる。どこか朦朧としていて、もしかしたら、熱が出ているのかもしれなかった。

 ただ、今はこれだけでも確認しなければ、と言葉を振り絞る。


「──繭香は?」

「えっ?」

「繭香は……濡れなかった……?」

「私は、大丈夫」

「そっか、よかった……」


 雨に打たれながらも考えていたのは、繭香のことだった。

 バス停から家までは少し距離がある。繭香が雨に濡れていないか、それだけが心配だったのだ。

 しかし彼女は奨吾を強く叱った。


「よくない! しょーちゃんがずぶ濡れになって、ぜんぜんよくない! せっかく私、いつも折り畳み傘を2本持ち歩いているのに……」

「……2本?」

「しょーちゃんのぶん。お母さんはいつだってしょーちゃんのことを考えている。だから……心配させないでほしい……」


 繭香は消え入るような声で、すがるように言った。彼女がいつも大きな鞄を持っているのは、きっとそのせいなのだろう。それ以外にも、お母さんとして奨吾のために持ち歩いているものが、たくさんあるに違いない。

 繭香が常に自分のことを考えてくれているのはうれしい。でも──。


「ごめん、心配してくれてありがとう……シャワー浴びてくるから」


 奨吾は、朦朧とする意識の中で、そう伝えるだけが精一杯だった。


***


 その夜、奨吾の熱は38度にまで上がった。

 高熱が繭香に知れたら、お母さんとして張り切られてしまうと黙っていたが、結局、症状の悪さを隠しきることはできない。

 夕飯もろくに食べられず、顔は火照ったように赤くなり、さすがに気づかれてしまった。


「しょーちゃん……大丈夫……?」


 ベッドに横たわる奨吾を、傍らで繭香が心配そうにじっと見つめてくる。

 運悪く両親は泊まりがけの仕事に出ており、奨吾は寝ていることしかできなかった。


 ──看病なんかしなくていい。


 そう言いたかったが、熱にうなされて声を出すことすらできない。とにかく体が熱くて、はぁはぁと苦し気な息だけが漏れる。


「タオル、代えるね」


 しばらくすると、奨吾はおでこがひんやりと冷たいものがあたるのを感じた。

 それを気持ちがいいと思ったのも束の間、またすぐに意識がぼうっとしてしまう。

 窓の外はまだどしゃ降りで、雷まで鳴っていた。

 その音が、奨吾にとある記憶を呼び覚ます。それはまだ彼が幼いころ、ひとり家に残されて留守番をした記憶だ。

 窓の外は今夜のようなどしゃ降りだった。時おり大きな音で雷が鳴り、そのたびに小さな彼は身を縮める。


 ──お母さん、早く帰ってきて。


 しかしその願いは叶わず、当時の奨吾は、そのまま泣き疲れて眠りについたのだ。


「おか……さ……ん」


 悲しい記憶を追体験し、うわ言のように呟くと、繭香がハッとしたような顔をする。

 彼が夢を見ていると気づかなかった彼女は、また「お母さん」でいることを咎められると思ったのだ。


「……ごめん、もう部屋に戻るね」


 看病のために用意したものを片付け、立ち上がろうとしたその時である。Tシャツの裾が、くんっと引っ張られた。


「えっ──」


 繭香は奨吾を振り返る。彼の目は閉じたままだが、その口がゆっくりと動いた。


「お母さん……行かないで」


 息を飲む。奨吾が自分のことをお母さんと呼び、はじめて頼ってくれた。

 目頭が熱くなり、自然に涙がこぼれる。


「うん……そばにいるよ……お母さんは、ずーっとそばにいるから……」


 繭香は、そう言って手を握る。

 すると、奨吾が小さく微笑んだ。


***


「ねぇ……起きて……」


 鈴が鳴るような可憐な声がして、奨吾の意識は、夢の奥深くから呼び戻された。

 まぶたは重く開かないが、窓からは光が差し込んでおり、もう朝なのだと理解できる。

 雷が鳴っていたせいで、ずっと悪夢を見ていたらしい。

 だが思い返す、ただの悪夢ではない。

 途中から、なにか暖かいものに包まれたような、幸せな心地も同時に感じていたのを覚えている。


「んっ……まだ眠いんだ……」

「まったくもう……しょーちゃんはお寝坊さんなんだから……」


 懐かしいやりとりに、思わずふっと笑みがこぼれる──懐かしいやりとり?


 奨吾は思い出した。朝起きたら同級生がお母さんになっていた日のことを。

 その瞬間、さっきまで重たかったまぶたがパッチリと開いた。目の前にいたのは、制服姿にエプロンをした美少女だった。


「繭香!」

「違う、私はお母さん」

「いや、お母さんじゃないから!」

「しょーちゃんね、うなされていて大変だったのよ」

「無視しないで!?」


 どうしてだろう。お母さんになんかなってほしくなかったはずなのに、この茶番劇に心が弾んでしまう。


「しょーちゃん、元気になったのね」


 言われて気づいた。熱かった体は元通りになり、頭もすっきりとしている。


「お熱、計ろうか?」


 繭香がそう言って、おもむろに奨吾のパジャマのボタンを外そうとした。


「待って! 自分でできるから!」

「ダメ。お母さんの言うことを聞きなさい?」


 押し返そうとしたけれど、今日の繭香は強引だった。あっという間にぷちぷちとボタンを外され、体温計を持った手がするりと差し込まれた。


「っ……」

「じっとして? しょーちゃん」


 繭香の長い睫毛が重たそうに上下する。こんなことをされたら下がった熱も上がってしまうと、奨吾はぎゅっと唇を噛み締めた。

 ピピッと体温計が鳴り、数字を見た繭香がほっと息を吐いた。


「熱、下がってる。学校には行けそう?」

「うん、体はもう楽になったから」

「よかった」


 繭香が小さく笑う。その目の下に、うっすらクマがあるように見えてハッとした。


「もしかして、ずっと看病してくれていたの?」

「……そんなことないよ」


 繭香が首を横に振る。でも、そんなのは嘘に決まっていた。心臓がぎゅっと締め付けられる。そして奨吾の心に、あるひとつの答えが見つかった。


 ──お母さんだって、いいじゃないか。


「朝ごはんの準備、してくるね」


 そう言って立ち上がった彼女を「待って」と制した。


「ずっとそばにいてくれて、ありがとう」


 さすがに「お母さん」とは呼ばなかったけれど、彼女が「お母さん」としてしてくれたことに、心からお礼を言った。


「どうってことないよ。だって私は、お母さんだから」

 

 まるで今日のお日様のような笑顔で、繭香が笑う。

 彼女がこんな笑顔になるのなら、もうそれだけでいいと、奨吾は思った。

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