書庫と文字

 貪欲に知識を求めた氷花に、隠者が今教えてくれているのは文字だ。初めは食堂や談話室で行われていた授業は、文字を教わるに至って書庫へと場所を移した。その頃になると夜鴉は、文字なら知っているからと行動を別にすることが多くなった。

 冷たい風の匂いがする石造りの塔のうちにあって、書庫は唯一、革と木の匂いばかりがした。開いた扉からの光が白くかすみ、飴色のつやを帯びた床板を輝かせていた。石床では本に黴が生えるのだそうだ。床が濡れては困るからとやわらかな羊革の靴に履き替える必要があった。初めての室内履きは、あまりの頼りなさに足先がもぞもぞしたものだった。

 光虫ひかりむしを詰めた瓶が至るところに吊された書庫は、いついっても古びた琥珀に閉ざされ、時を忘れたような心地にさせられた。

 氷花はここで生まれて初めて文字を見て、本というものを知った。本は獣の皮を薄く削いだもので出来ていた。この革を皮紙ひし、これに文字を書いたものをようといい、葉を束ねたものを本と呼ぶそうだ。

「文字は、時と場所と血筋を越えて、言葉を伝えるための手段として生まれた」

 そういって隠者が本を開いて見せてくれたとき、書庫全体に漂っていた樹木と果実と獣の匂いが混然と立ち上った。乾いた秋風さながらに香った一葉に、氷花はそっと触れた。

「古くは吟人うたびとに言葉を奪われぬようにと生まれた技術だそうだ。彼らから音と言葉を守ろうと奮闘したものが文字を生んだ。そしてその試みはときに勝利し、ときに敗北した。今となっては解読できぬ文字や言葉もある。しかしそれもまた、いにしえに失われた言語があった、というひとつの歴史を残してくれた」

 これは口伝では残せぬ文字の功績だ、と隠者は語った。

「また本の大いなる流行を生んだのもまた吟人だった。失われようとする吟人の痕跡をつなぎ止めようとして、人は崩れ去る言葉を皮紙に書き留めた。それは一部では正しく、一部では間違っていた。文字にしたためたことによって、吟人の言葉からは音が消えた」

 これは文字の抱える負の一面、と隠者は続ける。

「ことを重く見た十三邦末期の王は文字と詩人らの歌から音を復元しようと試みた。吟人の声にはいずれかの魔が宿っていたとして、魔の研究を行った。伝承筆耕師でんしょうひっこうしは暗やみに囚われ、耳を澄ませ目を閉じて文字の音を追った。やがて病を患うものが現れ、そのうちにそれが魔によるものと判明した。王は歓喜し、よりいっそう筆耕師たちを追いつめた」

 隠者は氷花に、手のひらに載るほどの香舎こうしゃを手渡した。金糸で編まれたような繊細なそれは針葉と柑橘と煙の濃い匂いがした。これは何かと氷花が問うと、隠者は書庫へ入るときには必ず持っているようにと答えた。

「王の研究によって文字には魔が宿ることがわかっている。吟人の歪まぬ言葉と違って、ときに歪むのだ。墨で描かれた文字が泳ぎ、皮紙のなかで姿を変える。その隙間を見てしまうと、魔を吸い込んでしまう。書庫で幻が現れるときがそうだ。もし幻が現れたら、必ず匂いを嗅ぐようにしなさい。幻は姿を持ち、影があり、音も持っているが、匂いは決して持たない」

 匂いがない、と氷花は唇で繰り返し、かつて己が見た幻を思い出そうとした。しかし、氷花は旅をしていたとき、ずっと匂いを感じていなかった。温度を失い、嗅覚を失い、このまま音を失うのかと怯えていた夜を思い出す。膚が言いしれぬ不安にざわめいた。まるで、旅をしたことそのものが幻だったみたいに。氷花は夜鴉の匂いを記憶から探ったが、あれほど傍にいたのにまったく感じられなかった。魔抜きの薬湯によって解放されたあとも、夜鴉とは近かったのに。この場にはいない夜鴉の外套を今掴みたくて仕方なかった。

 空を彷徨った氷花の手が隠者の袖を掴み、そのまま自身の鼻へ押し当てると、彼は泡を食って大いに慌てた。

「うら若い乙女がそのようなことをするのではないよ」

「隠者は葡萄の匂いがする」

「氷花!」

 思ったことを口にしただけなのに、他人の匂いについて言及する悪行についてこんこんと諭された。話を聞いているうちに、匂いを覚えていなくても問題ないのではないかと思えてきたので氷花はひとまず落ち着いた。なお、他人の匂いを口に出すことは夜を匂わせてよくないとのことだった。夜の匂いとはどんなものかを問うと隠者が困り果てた顔をしたので、答えを聞くのはあきらめた。夜の匂いなら、氷花も知っている。冷たく遠い花の香りと落ち着いた土の匂いがするのだろう。氷花は青白き森にいた頃の匂いを思い出してほっとした。あの頃のことはみな真実だと思えた。

「文字は言葉に劣るというのが、十三邦の頃は常識だった。しかしおそらく十一邦では、文字は歪まず口伝が歪むというのが常識なのだろうね。それでも、氷花には覚えておいてほしい。文字は歪むことがあり、必ずしも正しいとは限らない。吟人の言葉は歪めることが出来ないが、文字で書かれた言葉であれば、ただひとでも歪めることが出来る」

「文字が正しくない言葉なら、それを知ることに意味はある?」

 氷花が疑問に思って尋ねると、隠者は深くうなずいた。

「言っただろう、たとえ今は解読できぬ文字であっても、それが記されていたということに価値があると。歪められた文字にも理由がある。歪んだという結果が大事であることも。なぜ歪んだのかを探ることで得られる真実もある」

 氷花にはよくわからない。答えが歪められているとわかっているのに、結果が大事とか、理由とか言われても不思議なだけだった。首を傾げたままの氷花に、隠者はいずれ君が思い当たったときには考えてみておくれと言葉をまとめた。

「文字の悪い面を先に話したが、もちろんいい面だってたくさんある。だからこそ、本があり、書庫があるのだからね。文字を覚えられれば、さまざまな物事を残しておける。それに遠いいにしえの言葉が聞ける。いつでも君の好きなときにね」

 隠者は少女のために砂板を用意してくれた。木枠の中に入ったざらついた砂の上に、隠者がはじまりの文字を描く。それは簡易な線だった。これが重なり合って、葉の上にゆたかな模様を織り上げているのだと氷花は知った。

 隠者はその文字の発音を教え、用途を教え、単体での意味を教えた。そして木筆の握り方から丁寧に教え、手に馴染むように繰り返し書かせた。木筆をともに握るようにして初めて触れた隠者の手はかさついて、葉と同じような感触がした。氷花が慣れない木筆に苦戦しつつも手本の通りに書くと、隠者はおおいに褒めてくれるのだった。

「文字が読めたら、どんな言葉が聞ける?」

「ひとくくりにするのはとても難しいね。君の知りたいことを探して、聞くことが出来る。古い昔語りが聞きたければ、それが書かれた本を探せばいい。本を開けば、いつでも言葉が聞ける」

 氷花は隠者の答えに心を弾ませた。長老へ話を聞くようにいつでも好きなときに言葉を聞くことが出来る、その手段を熱心に求めた。隠者もその熱意に応えようと、たくさんの文字を教えてくれた。

 オントディルラの昔語りが、氷花は好きだった。弓月を奏でながら呟くように歌われる古い語りは、いつでも少女を遠いいにしえへ連れていってくれた。オントディルラに会いたい、と氷花は自然に思い、自身の内でそよぐ緑のざわめきに耳を澄ませた。

 文字の中に幻を見ることはなかったが、氷花はたびたび鼻をひくつかせて匂いを嗅いだ。本はいつでも秋の匂いに満ちていて、氷花は眠りの唱和のことを思い起こした。木々を眠りにつかせて冬を迎える準備の唱和。氷花は高い椅子の上で遊ばせた爪先を、室内履きのうちでもぞつかせた。

 雪漠に入る前、英知の川を渡ったとき外は夏の盛りだった。今頃はもう秋だろうか。青白き森の秋は短く忙しい。いつだって上枝から下枝まで総動員で冬支度をしたものだった。若葉だってかり出されて。それとももう冬になっているかもしれない。常であれば、洞の家に移っているころだろうか。枝も若葉も獣もいっしょくたに狭い洞に入り込んで、ぎゅうぎゅうに身を寄せ合って、火を囲む。獣臭さと煙の匂い。若葉と下枝で分け合う干果実の匂い。雪が降る前に拾った捻子松の折れた枝の、ずしりとした重さ。

 懐かしい。会いたい。みんなの声が聞きたい。氷花はその思いで、文字の練習に励んだ。しかし、その結果が芳しくないことがわかるのはすぐだった。

 氷花はひとつひとつの文字を覚えることは出来る。書くことも出来る。音もわかる。けれど文字が並んでしまうと、その意味や音を解することがまったく出来なくなってしまうのだった。

 はじめに本を開いたとき、氷花にとって文字はうつくしい模様のように感じられた。そして文字を教わった今もそれは変わらない。整えられた書面は何度試みても拒むようにひとつの情報しか教えてはくれない。その葉が整然としてうつくしいという、ただそれだけしか。

 隠者は親身になって幾度も繰り返し教えてくれた。氷花が途方に暮れて、この本が歪んでいるから読めないのではないか、と呟けば、本を何度も変えて教えてくれた。そのうちに、氷花にも自分が文字を言葉として理解できないことがよくわかった。わかってしまった。

 氷花はその日、書庫を訪れて隠者へ香舎を返した。

「もう文字は、いい」

 隠者はうなずいた後、差し出された香舎を受け取ることなく、少女の手のひらに握らせた。ともに木筆を握ったときには乾いていた隠者の手はしっとりと柔らかかった。なぜとなく氷花は、隠者は氷花自身が言い出すのを待っていたのだと思った。それがどうにも悔しく、同時に申し訳ない気もして、唇をきつく噛んだ。

「私は多くの子どもに文字を教えてきたが、書けない子を見たのは、君が初めてではないのだよ。ずっとその理由を言うべきか、迷っていた。もしかしたら違うかもしれないと、何度も思った。でももっと早くに、伝えるべきだったのだね」

 隠者は初めて会ったときにしたように、氷花に視線をあわせて床に膝をついた。

「君は吟人の後継なのだね」

 氷花は目をまたたかせた。そして首を横に振った。

「違う。だって、わたしの言葉、最初は訛ってた」

 たまらない気持ちになった。慰めにしてもあんまりだと思った。隠者はそういう嘘はつかないのだと思っていた。たくさん言いたいことが胸の内をぐるぐると渦巻いて、そのひとつもかたちにならなかった。隠者がずっと付き合ってくれていたことは事実で、やめると言いだしたのは氷花だ。隠者を責めるのは間違っている。

 それでも得られなかった知識にどうしてと彼を責め立ててしまいたい気持ちは消えなかった。だから抱えたまま、氷花はきびすを返して書庫を走り去った。

 文字が覚えられず、この書庫にあるといういにしえの話を聞く手段を得られなかったことは、少女の心に深く影を落としたのだった。

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