4章 星玻璃

飛翔

 あれから白い鳥はずっと、歩廊の胸壁に止まっている。

 近づけばまた夜鴉に怒られるのではないかと、しばらくは遠巻きに眺めていたのだが、やがて氷花は、好奇心に勝てなくなった。見たところただの鳥で、氷花の呼び寄せたまじないの鳥とは似てもにつかない鳥だったからだ。

 あのとき氷花の声から象られた鳥は、透きとおった翼を持っていた。けれど胸郭に留まる鳥は、ほんの少し翼の先が灰色がかっている以外は真っ白だ。氷花の森から飛び立った鳥と同じで、どうにも郷愁を誘われた。

 おそるおそる鳥に近づくと、かれがどうしていつまでも飛び立たないのか、わかった。怪我をしているのだ。そっと手を伸ばしても逃げない。触れるとしっとりと柔らかく、その向こう側に忙しない血臓ちのくらの音が息づいている。

 怖いのだろうか。首元をくすぐるように撫でると、鳥の目がこちらを向いた。まるで夜のように青く、星のように輝く目だった。この白日の塔にあって遠ざかったそのやみを、氷花は陶然と眺めた。

 この鳥はどこから飛んできたのだろう。きっと遠くから来たはずだ。夜のあるところから。森のあるところから。そう思うと、少女の森はざわざわと落ち着きなく騒ぎ立てた。この森と同じ場所に住んでいた、まるではらからのような思いがした。

 氷花はそっと、尋ねた。

「お前はだれ?」

 鳥はさえずり、答えた。ため息めいた鳴き声はばらけて解け、幾重にも鳴り渡る。ふいに胸元が凍りつき、氷花と鳥のあいだに白く、嵐のような吹雪が渦巻いた。氷花は白銀の睫をまたたいて、星のささやく声を見つめた。

 これは夜鴉と出会ったとき、氷花が名乗って起きた吹雪と同じものだ。少女は自身の喉から金環を外すと、素早く金鎖を解いて鳥を抱いた。金環を抓んだ氷花の左手と、金鎖を引いた右手が鳥を囲んで円を成すと、吹雪は氷霧の尾を引きながら落ち星のように溶け消えた。氷花は安堵の息を吐き、久々にこみ上げてきた氷の粒を噛み砕いた。

 今のさえずりは名乗りだった。氷花のる言葉ではなかったが、ことばだったのだ。すべてがことばをささやいてる。腕の中から、夜色の瞳で見上げてくる白い鳥に眉を下げた。

「魔術師は、名乗ってはいけないのだって」

 夜鴉はそう言っていた。それに真の名は隠すものだと、隠者も言った。だからきっと、氷花は誰何をしてはいけなかった。でも鳥が答えるなど、思ってもみなかったのだ。胸の内で言い訳を重ねたところで、禁忌をおかしたような罪悪感は消えなかった。


 まじないの声を怒られた日から、夜鴉とは話していない。黒衣を見かけることはあったが、謝らなければと思うと氷花の足は地面に凍りついた。夜鴉が何か行動を変えたわけではなく、氷花が動けなくなったのだ。それだけでこんなにも話せなくなるのだと、悔しかった。

 鳥の名を知ってしまったと話して、どうすればいいか聞いた方がいい。そう思うのに、また呆れられるかと思うとどうにも言葉を沈んでいき、森の土の奥深くへ根を張ってしまった。このまま何も言わなければ隠しておける、日の当たらないところ、芽吹かないところに置いておけばいいと、氷花はそっと木陰から目をそらし続けている。

 名を知ってしまってからも、鳥はずっと胸郭の上で蹲っている。怪我が治らないのだから仕方ない。寒そうで塔の中へ入れてやりたいのだが、腕を差し出してもこちらへは寄りつかない。無理矢理に抱きかかえてしまうことも考えたが、下手に翼を動かして飛べなくなったらと思うと、それも出来なかった。せめて少しでも寄れば温かいかと、なるべく時間を割いて傍にいる。

 夜鴉が無理なら、隠者に相談すればいい。白い空を眺めているとぽつりと浮かび上がってくるが、夜鴉のように呆れられるかも、とまた沈んでいく。ふと、楽士も知っているかもしれないと思い立った。そしてかれは呼霊こだまだから、秘密は守られる。いい考えだと早速会いに行くと、三階の廊下はしんと静まりかえり、いつもかれのいた端には、蜘蛛が幾重にも入念な巣を繕っていた。囚われた光虫がゆらゆらと風に揺れる。そこにはもう、音楽も歌も響いてはいないのだった。

 思わぬ喪失を味わい、氷花はすっかり塞ぎ込んでしまった。ただ鳥の傍らに寄り添い、秘密を抱えたまま、深く深く土を被せる罪悪感を転がしている。じっと灰色の雪原を見下ろす内に、氷花は鳥と自分を重ねるようになった。

 傷つき、雪漠へ逃げ込み、名乗ってしまった鳥。追われ、傷ついて名乗り、雪漠へ逃げ込んだ自分。氷花は今は傷痕ひとつ残っていない額をそっとなぞった。夜鴉に触れられて、彼の額が裂けたのを覚えている。地下牢から氷花を引き上げ、傷を治してくれた。

 夜鴉のように鳥を救ってやりたかった。傷を癒し、雪漠からとびたたせてやりたかった。そして氷花には失われた故郷へ、帰る場所へもどしてやりたかった。

 氷花はじっと考え、ついに黒衣の背を追った。


「魔術が使いたい」

 そう告げると、一時立ち止まった夜鴉は振り返りもせずに去ろうとした。あわてて氷花は言葉を重ねる。

「まじないじゃない。まじないは、もう使わない」

 今度は振り返った夜鴉が、かすかに首を傾げた。

「お前の中にある魔は、俺にはわからん。わからぬものは教えられん」

「中に、魔がないと使えない?」

「魔術とはそういうものだ。体の中に魔が宿り、そこから術を使う」

「じゃあわたしに、怪我を治す魔術は使えない」

「ああ。お前に<血>の魔はない」

 <血>、と氷花は口の中で呟いた。この塔についた頃、薬湯を飲む前に隠者と夜鴉が話していた。傷を移す<魔>だと。隠者はこれを<天秤>と呼んでいた。

「どうやったら、<血>の魔が得られる?」

 夜鴉は少し悩むように沈黙した後、重たく口を開いた。

「これは第八邦の血族が継ぐ魔だ。外つ民のお前には継げぬ」

 血族とは血の繋がりのある関係を指す言葉だったはずだ。氷花が幼い頃、森を出て村へ降りたときに知った、親子という言葉の延長線上にある。親戚、一族、血族。ひねくれ者のアルクントイスがいった「森の外には血しかない」という言葉を思い出す。大事なものはすべて血だ、生まれながらにして何もかもが決まると、かれはいっていた。それはこういうことだったのかもしれない。

 氷花が肩を落とすと、夜鴉はため息を吐いた。

「あの鳥は幻妖だぞ」

 知っている。鳥が名乗ったとき、声が羽虫のようにばらけた。あれは幻妖の声だった。それにただの鳥が迷い込むには、雪漠は隔絶されすぎている。

「夜鴉だって幻妖を癒してた」

 いつかの逃亡中に蹄が砕けた霧羚羊を、夜鴉は癒してやったはずだ。幻妖だから癒さない理由にはならないはずだ。

「あれは足が必要だったからだ。今のお前に、翼は必要か?」

「でも、<糸>を繋ぐために呼んでいたのに」

 夜鴉は首を振った。

「俺が呼んだかたちじゃない。だからか<糸>は繋げなかった」

 氷花は首を胸に埋めるようにして丸くなる鳥を眺めた。幻妖は食事を必要としない。霧や雪であれば現象に左右される。人語を解し空を飛ぶからには風妖であろうが、これがいちばんよくわからない。いつ消えてしまうかも、わからないのだ。

「翼がないと、あの子は帰れない」

 氷花のまじないの声が、あの鳥を呼んでしまったのかもしれない。無理に呼んで、怪我をさせてしまったのかも。

「あったとしても雪漠から抜けられるかはわからん」

 夜鴉はうつむいた氷花の額を弾いた。

「痛い!」

「わかってるのか、幻妖だぞ」

「わかってる」

「そのかたちが結ばれている限り、何処にでも現れるし、何度でも生まれる」

「消えるのと、死ぬのはどう違う」

 氷花の耳は、弾けて溶けた霧羚羊の最期の水音を覚えている。それはいつか夢の中で杯割れた水鏡の音と重なり、夜鴉に負ぶわれながら見た血の降る悪夢と、巨人の涙の滴る音と混ざり合っている。みんな消えた。みんないなくなった。

 夜鴉は少女の銀髪を掻き回し、垂れ下がる金鎖を指で払った。そして身を翻すと胸郭に丸まった鳥に触れる。鳥は頭をもたげると、何度か確かめるように翼をはためかせた。氷花は駆け寄り、夜鴉の外套を掴んで鳥を見つめた。

 白い鳥は温めた胸郭を軽やかに蹴り上がり、ふたりの頭上をくるりとめぐったかと思うと、あっと思う間もなく雪原を飛び去った。

「幻妖は薄情だな」

 夜鴉は笑う。氷花は呆然とし、雪漠へとためらいもなく飛んだ鳥に驚いた。

 この塔を囲う門の外へ、氷花は出ようと思ったことがなかった。そこは何もない街が広がっていると、最初にそう聞いてからずっと恐ろしかった。明るい夜ごと夢を見た巨人の彷徨う廃墟が、果てまで広がっているのだ。灰色の雪原は、氷花にとって悪夢そのものだ。

 あの鳥とて、突然に呼ばれ、傷ついて逃げてきたのだろうに。飛び立てばまた怪我をするかもしれない。追われるかもしれない。それなのに、どうして。

 雪漠の外へ帰してあげたいと思ったのは、嘘ではない。けれど、ひとりで飛び立つとは、思ってもみなかったのだ。

 どうして飛んでいけるのだろう。あんなにも恐ろしいところへ。

 鳥の行き先をただただ見守っていると、夜鴉が離れていく気配がした。あわてて外套を掴んだ。

「今の傷、わたしにちょうだい」

 夜鴉の魔術が癒すのではなく、ただ移すだけなのは知っている。だから夜鴉に使ってもらうのではなく、氷花はその魔術を覚えたかったのだ。使ってもらってしまったからには、傷は氷花がもらうべきだ。そう思ったのに、夜鴉は氷花の手を払った。

「俺にはこれの使い道がある。お前にはない」

 そのまま立ち去る黒衣を見送って、氷花は口を尖らせた。塔の中には幻妖と呼霊と三人しかいないのに、いったいどこに傷の使い道があるというのか。白い歩廊に落ちた小さな血の雫は、どこまでも鮮やかに氷花の目に焼きついたのだった。



 その日、眠りについた氷花は空を飛び回る夢を見た。

 吹雪のなかを突っ切り、夜には星を見上げ、朝にはきらめく氷霧の虹を見た。それは幾度となく繰り返された外の世界の営みであり、氷花が二月ぶりに見る夜と薄明だった。

 なんてうつくしいのだろう。なんて気持ちいいんだろう。この空を飛びたかった。この風が浴びたかった。刻々と色を変えゆく空を、氷花は翼をいっぱいに広げて羽ばたいた。温かくやわらかな風がその胸を支え、爪先までをそっと持ち上げて、導いてくれる。

 遠くに塔が見えた。氷花はそれを目指して嘴を向ける。戻らなければ、と思った。呼ばれている、響いている。あの塔から、わたしを呼ぶ声がする。

 ふと鳥の鳴き声がして、氷を吐きながら氷花は目を覚ました。頭の天辺から爪先まで夢に浸りきっていて、まだ飛んでいるような心地がした。それでも氷を吐いたのはよろしくない。噛み砕きつつ、金環と鎖を整える。

 どうして氷を吐いたのだろう、名を呼ばれたような気がしたからか。

 考えつつも階下におりると、昨日飛び立ったはずのあの白い鳥が、胸郭に止まっていた。飛びたったのは夢だったかと駆け寄れば、歩廊には血の跡がある。

「なんだ、戻ってきたのか」

 夜鴉が後ろから声をかけてくるのに、氷花はちょっと得意になって振り向いた。

「幻妖にだって情はある」

 夜鴉は片眉をあげた。

「行くところがなかったんだろ」

 氷花はむくれながらも、夜鴉の右側に立った。連れだって食堂へ行く。夜鴉の椅子を引いて、食事を用意も手伝う氷花を、隠者は物言いたげな目で見ていた。夜鴉は面倒くさそうに何度か氷花を除けようとしたが、傷ついた右腕の理由を知る氷花はめげなかった。やがて夜鴉はあきらめた。


 夜鴉が煩わしがって部屋へ戻ってしまうと、氷花は鳥の傍らへ寄った。するとかれは翼を揺らして、氷花の差し出した腕へ乗った。大きな夜色の瞳が氷花を映し、嘴を少女の肩へこすりつける。それがたまらなく愛らしく思えて、氷花はそっとかれを撫でた。鳥は氷花に甘えるようにさえずった。

「お前にも名前をつけないと」

 氷花の呟きに、また自身の名を教えようとする鳥を指先で制す。

「違う、本当の名前じゃなくて、呼ぶための名前。だってお前と同じ鳥はきっと、ただの一羽もいない」

 たとえ幻妖が何処にでも現れ何度でも生まれるものだとしても、今このとき、ここに象られた鳥は一羽きりだと、氷花は自信を持って言えた。だってこの子は、名を教えてくれた。だから呼ぶための名が欲しいのだ。真の名は呼べないから、個を呼ぶための名が。

 花の名前にしようか、氷の名前にしようか。氷花のとき、隠者が夜鴉に鳥の名にするかと聞いたのだから、きっと同じ系統の名をつけるものなのだ。そう考えて氷花はじっと考えた。思い浮かぶ名はいくつもあったが、大きな藍色の目に浮かぶ星屑を見つめると、どうにもまだふさわしい名があるように思えて消えていってしまう。

 ふと、炎のうちで悠々とくつろぐ青瑪瑙の蜥蜴が脳裏に浮かんだ。かれと仲のいい夜鴉も。ふたりを繋いでいるような絆が、ほしくなった。

 氷花の森に小さな星が流れ落ち、ころりと一粒転がった。うつくしいひとつを象った。

星玻璃ほしはり

 空から見下ろす星のような目。それから、氷のようでいて溶けない玻璃。石の名にしようと思ったのは、青瑪瑙を思い浮かべたからだ。

「お前は星玻璃だ」

 語尾のほどけた幻妖の声で、鳥は嬉しそうに鳴いた。

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幽けき声は冬のいにしえ @highkyo

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