呼霊との暮らし

 積年の風に漂白された階段を上ると、星見のために築かれた露台へ辿り着く。青々とした空の下、どこまでも果てなく広がる雪原を見下ろして、氷花は大きく息を吸った。雪漠、と呟く。言葉が胸に落ちる。空白の地、雪以外に何もない場所。

 その白々とした地を旅していたとき、雪原はけっして平坦ではなかった。堅い氷とやわらかな雪が混ざっていることもさることながら、遠目にはわからぬ傾斜がいくつもあった。雪丘は近づけば山のように思えたし、上ることを避けて迂回するのも困難を極めた。雪丘のそばには深い谷があることも多かった。丘や谷の影は青玉随の裡さながらに仄暗く、薄明か薄暮のあわいをくぐるかのようだった。その昏がりは場所によっては地割れのように深くひびが入っていたり、まるで虚のようにぽっかりと開いていることもあった。氷の裂け目も雪の虚も、覗き込むと深い紺青のうつくしいやみが広がっている。それは延々と白昼に佇むような雪原の中で唯一の夜であり、誘うように両手を開いているかのようだった。

 しかし今こうして雪漠を見下ろしても、あの深い群青はおろか、青玉随の影すら探せない。どこまでも白く平坦で、限りなく何もない雪原だけが広がっている。それを思うとき、氷花は足下から這い上がる怖気を自覚する。この蜃気楼の塔が本当に実在しているのか、今ここにいることが夢ではないのか、疑ってしまう。

 氷花は襟巻きに顎を埋めて、上着をかき寄せた。この襟巻きも上着も、いつの間にか用意されていたものだ。廃墟の街には呼霊のいる工房があって、必要だと思うものはすべて気がつくと用意されている。それもまた氷花がこの塔を夢のようだと思う要因だった。下着も室内着も敷布もいつの間にか現れ、気がつくと回収されて洗われて返ってくる。食事だってそうだ。食べたいときに厨房か食堂へ行けば、温かな湯気をあげる食事が必ずある。

 この塔の中にあるあいだ、氷花は風の声を聞くことも、巨人の影を見ることもなかった。あの魔抜きの薬湯を飲んだせいもあるのだろう。幻に患わされることはなくなった。幻に限りなく近い呼霊があっても、隠者も夜鴉も同じものが見えて同じものが聞こえる。だからそれは、おそろしくない。

 今、氷花にとって何がいちばんおそろしいのかといえば、すべて夢かもしれないという疑心だ。それは氷花の内側から訪れるもので、こればかりはいくら隠者が教えてくれても欠片も消えていってはくれないのだった。だから氷花は、雪漠を見るのが苦手だ。風の声が、巨人の白い手が、雪原から問いかけてくる気がするから。

 唇を噛みしめると、遠くから鳶に似た巡る声が聞こえてきた。氷花ははっと顔を上げて、声のする方へと急ぐ。露台に置かれた大きな日時計を行き過ぎ、歩廊へと足を進めれば、胸壁に体をあずけた黒衣の姿が見えた。

 高く伸びるまじないの声が銀世界に消えていく。普段の声は低いのに、どうしてそこまで高い声が出るのか、氷花にはいつも不思議で仕方がない。氷花の方が声は高いが、これほどの高音は出る気がしない。一度試してみようとしたが、お前の声では何が起きるかわからないと止められてしまった。かつて氷花の声をまじないの声に似ていると夜鴉は言ったが、どこが似ているのかさっぱりわからないままだ。

 氷花の姿をみとめると、夜鴉はまじないの声を止めた。外套にうっすらとかかった雪を払う。風花だろう、つられて氷花も上着をさっと払うと、手のひらに水滴がついた。

「おはよう」

 水滴を握りしめながら言うと、夜鴉も挨拶を返した。

風妖ふうようはきた?」

「いいや、まったく。影もかたちもない」

 夜鴉はもう一度まじないの声を発した。喉の奥でふるわせた声が放たれて、高く伸びる。残響が遠く白に溶けていく。

 この声は風妖を呼ぶためのもので、風寄せというそうだ。呼びたい風妖のかたちによって声は違うらしい。夜鴉としては旅路で出会った斑髭鷲まだらひげわし白鳶しろとんびか、とにかく<糸>を結べる風妖を呼んで、第八邦の都と連絡をつけたいようだった。

 風妖は幻妖の中でもいちばんよくわからないものだ。風が凝って出来たものではない。人語を解し人を欺き空を飛ぶ不思議なもの。生態からして鳥ではないので、区別するために風妖と呼ばれている。厳密にいえば幻妖ではないのだが、まじないの声に呼ばれるので幻妖とくくられているのだそうだ。

 雪漠の空に、氷花は鳥も風妖も見たことがない。旅をしている間もそうだった。けれど隠者によれば白日のあいだでも氷花たちが迷い込んだように隙間はあって、ときどき幻妖や風妖が紛れ込むことがあるそうだ。そこを狙って風妖を呼び寄せられないかと夜鴉は風寄せを日課としている。

「飯は食ったか?」

 うなずくと夜鴉は氷花の頭を撫でた。そうしてももう氷が音を立てることはないし、彼の手首が紫になることもない。

「長い一日のわりに、寝て起きると腹が減ってるのが解せんな」

 白日の不思議についてぼやきながら、夜鴉が足を進めるのを追いかける。行き先は書庫と知っているが、遅れないように彼の後ろを歩くのはもう氷花の癖になってしまっていた。


 露台から大窓を開いて中へ戻れば、背後で蝶番を軋ませて雨戸が閉まる。振り返ると白い燐光を揺らす人影が、こちらにむけて優雅な礼をした。かれは扉の開閉を担う呼霊のようで、塔のさまざまな場所で見かける。もっとも、いつも同じものかはわからない。塔にいる呼霊のうち、人のかたちをしているものはだいたい白い燐光をまとっていて、うすぼんやりとしか姿がわからない。

 光虫ひかりむしの照らす三階の廊下は広く、足音がよく響く。それから話し声も歌声もよく響く。氷花ひとりで行くときは、この廊下はいつも早足で過ぎることにしている。ここにいる呼霊は、姿がはっきりと見えるからだ。煌びやかな金糸銀糸の刺繍を施された上衣を絢爛な帯でまとめた女や、彼女の裳裾を支える複数人の男女の一団は氷花の特に苦手なものだ。

 初めにかれらにゆきあったとき、青金石に染められた眦を決して、聞いたことのない言葉で氷花は罵られた。これまで呼霊には声を掛けられたことすらなかった氷花はあまりのことに驚いて隠者の元へ走ったものだった。隠者はその言葉は侮蔑に満ちたもので、覚える必要はないから忘れてしまいなさい、と少女は慰めた。古くて今はもう誰も使うことのない言葉だと。それから、呼霊はそこに在るだけでこちらを見ているわけではない、とも。

 呼霊とは会話が成り立たない。かれらは過去を彷徨っていて、今を見ないからだ。隠者は長く塔にあって、そう結論づけている。かれらは衣服を用意したり食事を用意したり、さまざまな手助けをしてくれるが、それはこちらを見ているわけではなく、過去の生業をなぞっているのに過ぎないと。氷花が「よくわからない」と隠者に言うと、彼は苦笑してこう答えた。

「残念ながら私にも呼霊のことはよくわからないんだ。人間のことがよくわからないのと同じように」

 隠者の言い分もよくわからず、夜鴉に尋ねると、彼は面倒くさそうに言った。

「目を閉じて耳を塞いでればいい。幻と同じだ。本当はそこにはない」

 氷花はそれ以上尋ねるのはやめてしまった。本当にそこにはないものを食べて、着て、管理する地で暮らす、今はなんなのだろう。いつの間にか、自分も幻になってしまったのだろうか。そう思ってしまうと怖くてたまらなくなるから。

 三階の廊下の端には、ひとりの楽士が佇んでいる。かれは日によってさまざまな楽器を携えて歌っている。夜鴉の後を追って、氷花はかれの前を早足に行き過ぎる。

「獣が目覚め、巨人は立つ。白の憂いは花と星……」

 ささやくように歌う響きに聞き覚えがあって、ふと振り向いた。どこで聞いたのだったか。もう少し聞きたかったが、氷花は角を曲がる黒衣を追いかける方を選んだ。階段を上りながら、唇の内側にあふれてくる言葉をこぼす。

「……その奏でるは、滅びの兆し」

 足を止めた。耳を澄ませても、廊下を越えて楽士の声は聞こえてはこない。けれど氷花は、その先の歌を知っているのだった。

 ――ヤでもなくエメでもなく、備えよ、きたるを、黒の王。

「なにかいったか?」

 夜鴉が振り向く。氷花は「なんでもない」と首を振った。


 階段を上りきった先、奥の扉が開いて、白髪がのぞく。

「おはよう、せんせい」

 氷花が挨拶をすると、隠者は目元をやわらかにゆるめた。

「おはよう、氷花、夜鴉。さあ、今日は何を学ぼうか」

 知識を与える師になると語ったとおりに、隠者はあれから氷花にさまざまなことを教えてくれた。まず彼が教えてくれたのは氷花自身を知ることだった。

「君が何を知っていて、何を知らないのか。私にはそれがわからない。だから氷花、教えてほしい。君がなにもので、どこからきて、どういうふうに暮らしてきたのか」

 隠者の問いに答えるようにして、氷花はひとつひとつ、自身について言葉にした。名前は言えないまでも、今年十三になること、まほらの森の下枝しずえであったこと。教えていくうちに氷花の底で、萎れた木々が青々と枝葉を取り戻すように記憶の中の森が芽吹いた。それは燃えて灰になってしまったことをひととき忘れ去ってしまうほどに鮮やかな緑だった。

 氷花の内に森が生まれ、学びの日々は穏やかに始まった。幻妖について、それから魔についても、氷花は森が水を蓄えるように学んだ。隠者の知識は古く、そして深く、最初は嫌がっていた夜鴉もときに共に聞くようになった。

「隠者のいうことは化石のようなものだぞ。今の十一邦では通用しない」

 呆れたふうに夜鴉は言って、補足してくれることもあった。

 今の氷花は、幻妖が何かを知っている。幻妖とは魔が命を真似て象ったものだ。獣とは発生も異なる。かれらは大地から、あるいは空から突然に顕れ、初めから成長した姿をしている。よって幻妖の子というのは存在しない。幼体に見える幻妖がいても成体であり、そのかたちが変わることはない。幻妖に寿命はなく、核となる魔を奪われるまでかれらは彷徨い続ける。散り散りに溶けたり消えたりしても、幾度でも姿を象るのだ。

 そして幻妖は魔が象った存在なので、魔術を扱う。といっても、夜鴉はそれを魔術と呼ぶことを否定した。たとえば霧妖が金属を錆びさせるように、獣や人には出来ないことをかれらは行う。しかしそれが魔術かと言われると違うのではないかと。

「ふむ、では君のいう魔術とはいったいどういうものだい?」

「身に帯びた魔を支配下において意図的に使うことを魔術という。漏れ出るものを術とは呼ばんだろう」

「なるほど、支配と意図によって術であると定義づけるわけだね」

 氷花はふたりの話にただ耳を傾ける。幻妖の行いは、氷花が氷を吐いたり周囲を凍らせたりしていたのと同じことだと夜鴉は言うのだろう。そしてそれは魔術ではない。納得して隠者の返答を待つ。

「では幻妖を支配し、意図的に操るものがいるとしたらどうだろう? これは魔術であると定義できるのではないかね」

「支配する術が魔術であって、幻妖が扱っているわけではない」

「つまり君は、幻妖には自我がある、と考えているわけだ。そこで私とは認識が異なるのだね。私は幻妖とは現象に過ぎず、命もなく自我もないと考える」


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