新しい名前
「それはおとぎ話かなにかか?」
「いいや、これは真実さ。それを語り継いだ
苦笑いと共にいった言葉に、まったくゆるぎない態度が返されて、夜鴉はたじろんだ。
「所詮、口伝だろう。言葉は歪む」
「歪まぬ言葉があったのだよ、はるかいにしえにはね。しかし今はそれを憂うときじゃない。さあ、君たちにはまず休息が必要だ」
隠者は杯の薬湯を一口含み、白くゆたかな眉をぐっと寄せた。
「うん、すさまじい味だ。だが毒はない。それは保証しよう」
再び寄せられた杯を夜鴉は拒まず受け入れた。黄昏の瞳を細めて彼を睨むようにしながら、杯を一息にあおる。隠者は小さく目を瞠り、夜鴉の袖にしがみついていたシルトゥを見た。
「この子の遊色幻膜は、落ち着いたことがあるかい?」
「会ってからは一度もない」
「明滅が激しくなったり、色が紫にまで変化したことは?」
「……ある」
頭越しにかわされる自身についての会話に、シルトゥは足下からふるえが這い上がるのを止められなかった。なにか恐ろしいことが、自身に起きようとしている、あるいはすでに起きている。今すぐどこかへ逃げ出したい、そう思うのに、次の瞬間には追いかけてくる火の<眼>が蘇り、どこにも行く場所などないことを思い知る。その繰り返しで、忙しない
「ならば、<冬>だけでなく、灰の魔も帯びている可能性がある。君同様、彼女もそちらだけでも抜いた方がいい」
杯を差し出されて、シルトゥは息を飲んで後じさった。
少女の脳裏に閃いたのは、オントディルラの白い手だった。暗い水面に青い炎を揺らめかせた杯が、あの夢の中で少女の指先を凍りつかせた杯と重なった。それはやみの内に、月となって<眼>を開くのだ。今なお鮮やかな記憶は少女の
あえぐように呼吸しながら氷を吐く少女に、隠者は痛ましげに目を細め、杯を卓へと戻した。シルトゥから数歩離れたところへ膝をつく。青ざめた少女の顔を見上げながら、隠者はそっと問いかけた。
「君は何が怖い?」
いくつもの答えが喉の奥を埋め尽くすように浮かんで、そのどれも音にならずに凍りついた。胸の上の金貨を握りしめると、金鎖がひとつふたつ、はじけ飛ぶ。解けていく金鎖を捕まえて、シルトゥは自身が巨人に変わっていく様を幻視した。こんな短い金鎖ではもう捕まえておけない。足りないのだ、器も、かたちも。だから弾けてしまう。
言葉もなくただ
「魔が怖い? それとも<冬>が怖い?」
声が届いて、
「わからない」
言葉にして、少女は自ら理解した。夜鴉が教えてくれたように、怖いものが何かを答えることが出来ない。何もかもすべてが怖い、それは間違いではない。なのに具体的におそろしいものをなにひとつあげることが出来ない。
隠者はほほえみ、穏やかに言った。
「そうか。わからないと、怖いね」
「わからないと、こわい」
繰り返して、少女は幾度か瞬きした。
「よくわからないものはこわい。未知の恐怖は、当たり前のことだ。君はその氷がどこから来ているのか、なぜ凍りついてしまうのか、何も知らない。だから、こわい」
シルトゥはうなずいた。そうだ。何もわからないことが、何よりも怖い。
「ならば、知ればいい。知識は力だ。己に制御できる力を、君は身につけなければならない。君は魔の奴隷でも
「
「そう。君が、君を守らなければいけない」
隠者はゆっくりと立ち上がった。彼の背がずいぶん高いことにシルトゥはそのとき初めて気がついた。見ようとしていなかったことに、気づいた。
ふたたび差し出された杯を、今度こそ少女は受け取った。臭いから味の想像はついていた。雨雲の目を見上げて、一口含む。痛くて、苦くて、酸っぱい。隠者がそう言ったから、これをすさまじい味というのだとシルトゥは知った。
「これで七日もすれば灰の魔は抜けるだろう。どちらにしろ雪漠から……、ええと
「三月だと?」
夜鴉の驚きに隠者はうなずいてゆたかな髭をしごいた。
「白日――太陽が沈まぬ期間が、外の半年も続くことがあると言ったろう? 雲間の星を測るに、あと三月続くとみている。白日の内は何処まで行っても外と繋がることはない。そもそも入ることもできぬはずなんだがね、おおかた<管>を通し間違えたのだろう?」
「<管>が転移のことならば、その通りだ。外へ転移することは出来ないのか?」
「それは君が使えるのかい? いや、使えても無理だがね」
夜鴉はあきらめたように首を振った。
「三月をここで過ごして、外の時間はどうなる? 飛んだ翌日か? それとも三月経ってるのか?」
「さあ、どうだろう。残念ながら私は雪漠を訪れてから一度も外へ出たことはないんだ。ああ、迷い人を外へ出したことはあるから、安心していい」
安心できるか、と夜鴉が呟いたのをシルトゥは聞いた。隠者は聞こえなかったのか、聞かなかったふりをしたのか。
「そうだ、三月を共に過ごすんだ。君たちのことはなんと呼べばいい? ああ、もちろん真の名でなくていい。呼び名を教えてくれないかい」
隠者の問いに夜鴉はあっさりと名乗ったが、少女は首を傾げてしまった。フラエシルトゥ、と名乗ってはいけないようだし、かといって左手小指の爪先と名乗ることも、なんだか躊躇われた。シルトゥにとってその名は、今となってはまほらの森そのものだった。燃えて失われ、奪われてしまったように感じる。
「もしかして、ないのかい?」
隠者は驚愕に目を見開き、それから夜鴉を叱りつけた。
「名を隠すのはわかる、当然のことだ。しかし呼び名も与えないのは、怠慢で実におこがましい態度だ。なぜつけない?」
夜鴉は面倒臭そうに反論した。
「俺と、こいつと、二人しかいない旅路でわざわざ名を付ける必要がなかった。名をつけるのは主か、師の役割だろう。俺はどちらでもない」
隠者は行儀悪く鼻を鳴らした。どうやら彼の言い分は納得しかねたようだ。隠者は戸惑っているシルトゥに気がついてやわらかく目を細めた。
「ならば私がつけようか、私は君に知識を与える師匠になるのだからね」
「勝手にしてくれ」
「だが、私は彼女について全く知らない。だから夜鴉、君の意見を参考にしようと思う。君だったら彼女になんと名付ける?」
夜鴉はぐるりと目を回して床に落とした。
「君が鳥の名なのだから、彼女も鳥の名にするかい?」
「それはない」
鋭く早い否定に、隠者は少々面食らったようだった。夜鴉はその様子にばつが悪そうに首を振った。しばしの間があって、夜鴉はつぶやくように言った。
「
「ひが?」
「氷の花のことだ。八邦の南では、英知の川は幾筋もの支流に分かれて細く、そしてうねるようになる。そのうねりの片隅で夜中に凍てついた氷が、明け方に流れてくるのを氷花と呼ぶ」
「いいね、それにしよう」
隠者はうなずき、少女の方へ向いた。未だに朝と夜と、夏と冬とが繰り返し入れ替わるように瞳の色が揺らめく少女に、そっと新たな名を囁いた。
「君の呼び名は氷花だ。これより、名乗る必要があるときにはそう名乗るといい」
「ひが」
少女は唇の中でそっとその響きを噛みしめ、ゆっくりと飲み込んだ。
「
それから、隠者は食事を用意してくれた。彼が作ったのではなく、呼霊が作ったのだと説明を受けたが、このときは塔の中に他に住人がいるのだと少女は思っていた。
温かな湯気をあげるスープを一口含んで、少女はあまりの感動に目を瞬かせた。美味しい。それは久しく感じていなかった食事の喜びだった。思わず匙の運びが早くなり、夜鴉が不思議そうに呟く。
「今日はよく食べるな」
隠者がゆたかな白眉を跳ねて夜鴉を見た。
「もしかして、君が食事を作っていたのではないだろうね」
「それ以外に誰が?」
「なんてかわいそうな!」
「かわいそう?」
「だって、君、味覚が鈍いだろう、とんでもなく。魔抜きの薬湯は常人なら舌が痺れて飲み下すのにずいぶん苦労するんだよ」
眉ひとつ動かさずに飲んだものなど見たことがない、と隠者は言う。夜鴉は美味しそうに食べている少女へと目をやった。
「まずかったのか?」
心底わからないというように夜鴉がいうので、少女もびっくりして目を丸くした。
「まずかったわけでは、なくて」
咄嗟に否定してしまったものの、夜鴉の作る食事が痛かったり苦かったり酸っぱかったりするのは事実だった。それをまずいと言うのは作ってくれたものに失礼だという気持ちは、少女にもあった。だから少女は言った。
「すさまじい、味がした」
隠者が吹き出し、夜鴉はふてくされたような顔をして少女の髪を掻き回した。
腹が満たされると、目蓋が重たくなってきた。長い旅と悪夢による不眠もあり、少女の身体は夢も見ぬ休息を求めていた。薬湯の効能もあったのだろう。夜鴉と隠者はまだ何かを話している。だからもう少し起きていたい。うとうとと微睡みながら、落ちてくる目蓋をどうにか引き上げる。
青い炎に照らされた部屋が、燃え上がる青い平原に変わった。少女は悲鳴をあげたが、声は凍りついて出ない。喉を押さえようとした手が光り輝いている。白くてうつくしい、ああ、これは巨人の手だ。この手ではすべてを壊してしまう。望まぬものまでも凍らせてしまう。少女が絶望に嘆くと、ふと影が差して白い両手をそっと握った。
――お前に名を与えよう。
影はそうささやいた。
――
額に吐息が触れて、音が膚をなぞる。それはまるで自身が弓月の一弦となったかのような感覚だった。流れる血潮が、呼吸が、体の隅々まで響きわたる音に満たされて鳴る。風が吹きわたり、梢が葉擦れの音を万雷に響かせるかのように。目の前が青から緑へ変わり、凍りついたうつくしい手は、まほらの枝のものとなる。胸に抱いた思い出の森が褪せぬ色をたたえて揺れた。
胸が軋むように痛み、顎がふるえ、寒くも恐ろしくもないのに歯ががちがちと鳴った。それでも噛みしめきれない郷愁が、ゆたかな緑に咲き誇る。その香りを少女はいっぱいに吸い込んだ。
少女の変色する空から、しぐれるように雨は降り始めた。潤んだ極光の瞳はますます輝きを増し、光の雫がついにこぼれ落ちた。それは氷には結ばず、少女の幼い稜線を残す頬へとしとしとと伝い落ちていった。
雨は大地へと染み渡り、やがて湧き出でて川となる。静かな雪解けの水はときに堰き止められ、うねり、押し寄せながら流れていく。身のうちをとうとうと溢れて洗っていく水の流れに、乗り切れず溶け残る氷の花を少女はそっと手の中に包み込んだ。それは宝物のように白く、雪の名残が甘く香る稀かな花と似ていた。
そうして少女は、氷花となったのだった。
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