3章 隠者

蜃気楼の塔

 氷花ひがの朝は水瓶みずがめを取り替えることで始まる。塔の中枢に位置する水秤みずばかりの雫が、瓶の半量を超えていればだ。それより下ならばまだ夜、瓶の縁いっぱいに貯まっていれば夕方。

 半量を少し超えているのを確認して、氷花は自分の半身ほどある大きな水瓶を転がすようにして交換する。一日でいっぱいになるように作られた水瓶を、半日で交換するのは転がしても水が零れないからだ。日に二回、起きてすぐと、寝る前に氷花は水瓶を変える。

 雪漠せつばく白日はくじつは太陽が落ちず、ひもすがら夕やみは訪れぬ。吹雪が続けば露台の日時計も使えず、時を計るものは水秤のみとなる。放置しておいても、水瓶が満ちる頃には呼霊こだまが取り替えるというそれを、やりたい、と言い出したのは氷花の方からだった。水瓶を変えて朝を知ったら、帯の刺繍を一針進める。針目の数で、雪漠を訪れてからの日数がわかる。今日で半月を越えた。

 半量貯まった水瓶をごろごろと引きずるように転がしながら、厨房まで持ち込むのも氷花の朝の仕事のひとつだ。

 石造りの塔に窓はほとんどないが、光虫ひかりむしが漂っているのでほんのりと明るい。それに天井の隅には至るところに蜘蛛の巣に引っかかった光虫の群れがあって、燭台のように照らしている。虫と呼ぶものの実際は塵埃に過ぎぬそれを、捕らえた蜘蛛の方が気の毒だと隠者は笑っていた。命があるわけではないので、巣を払うまではほのかに光り続けるのだそうだ。硝子の瓶に入れると便利と聞いて、氷花も光虫を手にしてみたことがあったが、掌に包むと鱗粉のように淡い輝きを見せて溶け消えてしまった。これを捕らえ続ける蜘蛛の巣の繊細さに感心したものだった。

 光虫を見上げている間に、床を水取魚みずとりうおの群れが銀色に輝きながら素早く泳いでいった。一匹が跳ねて瓶へ飛び込もうとするのをさっと手で払う。群れを外れて落ちた魚はぴちぴちと床を跳ねていたが、しばらくするとすっと溶けて消えた。初めて見たときは驚いて水瓶を倒してしまったが、今はもう慣れたものだ。あのときは倒した水瓶から溢れた水に、大量の魚が飛び込んでいくのを眺めて呆然とするばかりだった。

 突き当たりの扉を開ける。澄んで冷たい風が吹き込み、氷花は肩をすくめて襟巻きに鼻を埋める。昼の光に満ちた外は、今日は晴れて青空を見せていた。列柱廊の石床は運ばれてきた雪をうっすらと積もらせ、その上にはすでにいくつかの足跡が刻まれていた。小さなものも大きなものも、人ではないものもある。その上に水瓶を転がして蛇のように線を描く。

 列柱廊は花壇を囲んで作られたものだと聞いたが、その花壇を氷花は見たことがない。いつでも雪に覆われている。隠者も見たことがないという。私がきたときにはこの街は廃墟で、すでに雪に鎖されていたからね、と。けれどその花壇を中心にして塔が作られ、そして塔を中心に街は作られている。列柱廊まで出れば、食堂、厨房、天文台、居住区、書庫、門へと迷わず行けるのだ。門の外には街が広がっているが、街へはまだ行ったことがない。何もないよ、すべて滅ぼされた廃墟だ、と隠者は言う。

 厨房まで水を運ぶと、前掛けをした白い影が手振りでそこへ、と水瓶の場所を示す。言われた通りに置いて、柄杓で水をもらって顔を洗い、うがいをする。水秤の雫は、決して凍りつかず冷たくもない。柄杓に残った水を舐めると、春めいてやわらかな雪解けの味がするのだった。

 厨房の端で朝食をすましたら、書庫へと向かうのが最近の氷花の日課だ。広くて静かでほの明るい塔を、ゆっくりと歩く。

 この塔の、いやこの滅びた街の中に、生きている住人は三人しかいない。それでも塔には多くの影が、ささやきが、足音があって、そのときどきにどこか妙にちぐはぐな姿をしてぽつぽつと現れる。

 それはたとえば光虫であったり、水取魚であったり、厨房の白い影であったり、幻妖げんようとはまた違う、不可思議な現象としてかれらは存在している。隠者はかれらを、呼霊こだまと呼んで幻妖とは区別していた。

 幻妖は、たとえば霧妖むようが霧なしには存在できないように、不定形であろうと元になるものがある。それは自然現象と同じく環境に影響を受ける。発生すべくして発生するし、消えるべくして消える。

 それに比べて、呼霊は実に自由だ。現れたいときに現れ、消えたいときに消える。呼霊には意志がある、と隠者は言った。

「おそらくは、幻妖も呼霊も、存在としては同じものだ。幻妖は、己が在るという意識が非常に薄い。だからこそ使役も容易なのだろう。だが、呼霊は使役には向かない。何を考えているのか、何がしたいのか、さっぱりわからずとも、かれらは己が在るという意識だけは強固だからね」

 英知の川で出会ったあの白い船頭も、呼霊だったのかもしれない。氷花はふとそれに思い当たり、そして落ちてきた火を思い出した。火の中に開いた<眼>を。

 少女は立ち止まり、目を閉じて大きく息をした。その目蓋の下で瞳はくるくるとまだ定まらぬ色を抱えていたが、氷を吐くことはなくなった。銀の髪ももはや凍りついてはいない。

「こわい」

 氷花はぽつりと呟いた。噛みしめるように、もう一度。

「こわいから、私は、知りたい」

 それは氷花――シルトゥが、この廃墟の街を訪れてから得た教えのひとつだった。



 あの日、雪狗ゆきいぬのさんざめく息を響かせながら、雪車そりは揺らめく陽炎の門をくぐった。老人は自らを隠者と名乗り、蜃気楼に過ぎなかった塔へと二人を招き入れた。

 街は、シルトゥが夢の中で見たよりもずっと荒廃していた。そうと知らなければ街だと気づかなかっただろう。大通りだったであろう場所に轍が残り、その周辺には大小さまざまな雪丘がある。それが瓦礫の山だったのかもしれない。塔だけが、シルトゥの夢と同じく存在していた。

 少女が青く吹きかけられた炎を幻視して怯えている間に、塔の一室へ案内された。室内では暖炉があかあかと燃えていてシルトゥは更にふるえた。夜鴉からす青瑪瑙あおめのうの蜥蜴を暖炉に住まわせ炎が色を変えても、少女は怖がったままだった。この塔を燃やしたのは青い炎だったのだ。しかしそれを伝える術もなく、ただ夜鴉にしがみついてふるえるばかりだった。

 そんな少女に隠者は深く同情を寄せた。

「かわいそうに。早く魔抜きをしよう」

「魔抜き?」

 夜鴉は不可解な言葉に首を傾げた。彼の言葉では、魔とは体に入れば生涯抜けることのない毒だったはずだ。しかし隠者はうなずいて「もちろんすべての魔が抜けるわけではないがね」と答えた。

「少なくとも灰の魔は抜くことが出来るよ。そうでなければ伝承筆耕師はみな死んでしまう」

 隠者は肩をすくめたが、夜鴉が納得しかねる顔をしたことに気づいたのだろう、首を傾げてしばらく黙考した後、あきらめたように手のひらを見せた。

「まず、雪漠は時が歪んでいる。白日は外の世界が半年巡っても続くときもあるし、黒夜こくよも同じ。その間、人の体は一日と経過しない。雪漠で白日でも黒夜でもない日は合わせて一月もない。つまり、私はとても長生きなんだ」

 他にも長生きの理由はあるが、まあそれは今は置いておこう、と彼は言った。

「私が雪漠へ入ったのは十三邦の最後の王子が亡くなる前だ」

「……三百年は経っているぞ」

「おや、そのくらいか。もう千年は経っているかと思ったよ」

 呆れたように夜鴉が言えば、隠者は火炉かろに青火を移し、小鍋をかけた。

「まあ、長い、長い時が経っているのは間違いない。だから私は今、外がどうなっているか知らない。しかし十三邦の頃、魔は忌むべきものだったんだ。それでいて魔に秘されたものを必要とする者もいた。ゆえに、魔を取り除く方法が研究されていた。その方法を幾度となく私は試してきたし、灰の魔においてはたしかに効果がある」

 語りながらも、作り付けの棚から壺を取り出しては匙で中身を掬い、小鍋へと入れていく。炭の匂いに満ちていた室内に、苦みのある臭いが混じった。

「今のは去行草さりゆきぐさか?」

「ああ。灰の魔を抜くにはこれが不可欠だ」

 去行草は生葉は柑橘の爽やかな香りがするが、ひどく苦い。これを乾燥させると苦みばかりが残るが、薬効は高まる。

 夜鴉は何某か納得することがあったのか、それ以上は黙って作業を見守った。シルトゥは苦みの強い臭いに、夜鴉の作る食事を思い出した。舌に強く残ったえぐみを思い出し、少し咳き込む。喉からこぼれた氷は手のひらで受け損ね、絨毯の上に転がった。

 隠者が顔を上げてシルトゥを見た。少女は夜鴉にしがみついたまま慌てて氷の粒を拾った。老人の瞳が細まり、ため息をついた。

「残念だが、この子の魔はおそらく抜けないね。それはおそらく<冬>だろう」

「<冬>?」

「身のうちに氷を宿している。いくら温かくなっても溶けないのだろう?」

 夜鴉の外套も老人の髪にも、もはや雪は残っていなかった。シルトゥだけが未だ雪冠を戴き、外套にも六花を咲かせている。拾い上げた氷も、手のひらに丸いまま残っていた。隠者の言葉は的を射ていた。

「灰の魔ではない、<冬>は十五盟邦の成立前より存在する力だ。外つ民には扱うものも多かったと聞くが」

「十五? 十三ではなく?」

「十五だよ。十三邦になる前は十五だった。まさかそんなことさえも伝わっていないのかい? ……ああ、そうか、吟人うたびとが絶えたから。なるほど、まったくかの王は罪深いことをした」

 ことことと小鍋が沸く音と、火のはぜる音が響く。

「神殺しのためにくにぐにが集って盟約を結んだとき、その数は十五だったのだよ。伝わらなかった二邦はおそらく、外つ民だろう。妖の民と、風の民」

「聞いたことがないな」

「さもありなん。かたや幻妖と混同され遠ざけられ、人とは袂を別った。かたや十三王の立ったとき、冠なき王は王にあらずと統治を拒んで去った」

「まるで聞いてきたかのように言う。雪漠に入る前から長生きだったのか?」

 夜鴉が皮肉げに問いかけると、隠者はゆっくりを首を横に振った。

「長生きは雪漠からで間違いないよ。私はちょっと物知りなだけのただ人さ。……さて、出来た」

 小鍋を火から下ろし、煮立った緑色の薬液を杯に注ぐ。ふたつに分けて注ぎきると、隠者は片方を夜鴉へと勧めた。

「いや、俺は魔を抜かれると困る。こいつの魔が抜けるならと思ったんだが、無理なんだろう?」

「ああ、<冬>は抜けない。君はなぜ嫌がる? 遊色幻膜が生じているということは、幻も悪夢も見ているはずだ。不快だろうに」

 夜鴉も幻と悪夢を見ていると知って、シルトゥは驚いて彼を見上げた。彼の黄昏の瞳が、濃い睫の影でさまざまな色に揺らめく。

「あんたの時代にあったかは知らんが、俺は魔術師だ。身のうちにある魔を操って禄を得ている。魔が抜けたら飯が食えん」

「魔術師」

 驚いたように隠者が繰り返した。そして、幾度かうなずく。

「なるほど、そういう方向へいったわけか。理解した。だが、魔が操れているなら遊色幻膜は生じないはずだ。その後に新たな魔を得て、それを拒否していることになる。もしや君の操っていたという魔は<天秤>ではないか?」

「<天秤>なんて聞いたことがないな」

「では、野槌のづちの丘の不死しなずの王は?」

 夜鴉は口を閉ざし、老人の頭から爪先までをじっと見直した。髭に覆われた顎をさすり、ゆっくりとまた口を開いた。

「<天秤>というのは、自分の傷を他人に渡す術を持つ力か」

「そう。今は<天秤>とは言わないようだね。なんと呼ぶ?」

「<血>と」

「ふむ……、ふむ、ありそうな話だ。だが君の元々持っていた魔が<天秤>であるなら話は早い。<天秤>は灰の魔ではないから抜けないよ」

「その灰の魔というのはそもそもなんだ?」

「言葉通り、灰になった魔だ。すでに死した力。<管>に<骨>、<眼>、<鱗>」

「<眼>以外聞いたこともない」

 夜鴉は首を横に振った。

「おそらく名が変わったのだろうね。君の<血>のように。それにしても皮肉だ。血臓ちのくらは最後まで得られなかったというのに、その名がつくとは」

「得られなかった?」

 再びの疑問に隠者は、吟人の喪失はあまりにも大きい、と静かに嘆いた。

「灰の魔とは、かつて天より支配せし石の女王が、土塊つちくれを捏ねて成した滅びの残骸だ。十五邦は滅びを退けるために、この神を殺すために興った。灰の魔はこの滅びより奪いし力。そして削り取り燃やし尽くしてなお、人を滅ぼそうとする女王の手よ」

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