こわいもの

 塔を目指して進む道のりは、当てにならない太陽を目印に彷徨うよりはるかに容易かった。風向きが変わり吹雪となっても、シルトゥは導を得たように塔を見つけることが出来た。巨人の指が掻いた涙の跡が、目覚めた今となっても雪の上に道となって見えている気すらした。

 しかしそうして廃墟の塔へと近づくことには、恐ろしさもあった。少女の足取りは次第に重くなる。

 シルトゥは、あの巨人を知っている。その白くうつくしい手を知っている。あれは夜の怪物だ。あの青白き森が燃えた夜、月の、火の<眼>を開いて少女を捕らえようとしたものだ。それともあれはただの悪夢だったのだろうか。だとしても、時を置いて何度も繰り返しあらわれる巨大な手は、たしかに少女を恐れさせるものだった。

 鈍る少女の足を疲労によるものと判断したのか、夜鴉は励ますように話をした。

 いわく、あの蜃気楼のようにかすむ廃墟の塔は、歴史の影と呼ばれている。それは古の十三邦より以前のものである。今、十一邦と呼ばれているこの国は昔、十三の邦から成った。今と違って十三邦をひとつにまとめ上げる王が存在していた。王は何でも出来る魔法の力を持っていた。冠を持ち、言祝がれた王だった。しかし魔法の力は暴走し、冠は砕け、祝福は呪いへと変わった。王は倒れ、都は潰えて二邦を失い、今の十一邦となった。

「どうしてふたつ消えたの」

「ひとつは実際に邦が潰えた。もうひとつ、何が消えたかには諸説ある。王族を一邦と数えてこれが消えて一とする説とか、都を持たぬ民が離れて一とする説とかな。前者は第三邦が王の後継を自称して否定しているが、それさえも定かではない」

 砕かれた冠は指輪となり、残る十一邦で分けられた。それは、何でも出来る魔法ではなく、限られた力を持つ魔術として残った。

「今ある魔術は皆、その冠の名残だ。<糸>に<路>、<眼>、それから<血>。お前の氷や声も、おそらくそう。歴史のどこかで途絶えた力なのだろう」

 太陽が西へ傾けば雪洞を作って休んだ。ほの明るいまま過ぎる金の夕暮れを、夢とも幻ともつかぬ巨人と過ごし、東へ戻った朝日が上り始めればまた塔を目指す。巨人は日ごとに大きさを増し、その涙が落ちる飛沫はときにシルトゥの爪先を濡らした。朝になってもそこはしっとりと濡れていて、雪や氷の水とは違い奇妙な感覚がするのだった。

 だんだん眠っているのかいないのか、自分でもはっきりしなくなってきた。シルトゥは起きて歩いている間も、巨人をそばに置くようになった。歩く横をうつくしい指が掻いていく。その溝に足を囚われて、爪先が濡れて少女はつまずく。

 大丈夫か、と夜鴉が起き上がらせるのを、大丈夫と答えたつもりだが、口から出たのはうなり声のような不明瞭な言葉だった。それでも、巨人から少しでも離れようとシルトゥは足を進める。ふらつきながらも歩いていたはずが、ふと気がつくと、少女は夜鴉に背負われていた。

 夜鴉の長靴は涙の川に踏みいり、かき分けるように進んでいた。白波が立ち、波紋が赤に緑に、青に紫にと揺らめく。水のようで、それでいて不透明で、鉛のように重い。シルトゥは瀝青を纏うように鈍い体を動かして、夜鴉の背から降りようともがいた。

「そのまま寝ていろ」

「ねたくない」

 崩れた体勢を直すように揺らされて、目眩がした。頭上には巨人の気配があり、その涙の雫がどっと少女に降り注ぐ。全身を包み込んだ身の毛もよだつような感触に、少女は吐き気を覚えて呻いた。実際には、かすかな吐息と氷の粒が喉からこぼれただけだった。

 夜鴉の体よりはるかに大きな掌が、行く道を導くように前にある。頭はきっと上に。今も涙が降っているに違いない。そう思うと、シルトゥは逃げ出したくてたまらなかった。むずがる子どものように小さく唸り、ふるえる少女に夜鴉は手を焼いた。宥めるように背を揺する。

「いや、ねたくない。夢を見る」

 目を閉じると、シルトゥは自分が巨人となったような錯覚を得た。巨人が目を閉じているからだろうか。世界がとてつもなく小さく、寂しく、すべてが潰えたような、そして取り残されたような、そんな感覚に支配される。それもまたおそろしかった。

「起きていても見るだろう。同じだ」

「こわい」

 すすり泣くようにふるえる声に、夜鴉は呆れたように笑った。

「お前は怖がってばかりだな」

「だって、こわい。夜鴉はこわくないの」

「何を怖がれというんだ?」

 ぜんぶ。そう思ったが、シルトゥは朦朧としながらも、きっと夜鴉には伝わるまいと気づいた。彼には、あの笑い声が聞こえないのだ。巨人の姿も見えていない。足下の鉛を溶かしたような涙の川も、何も。彼の目に映るのはきっと真っ白な雪原で、耳が聞くのは風に過ぎない。少女は孤独と恐怖にふるえ、それでも理解を試みた。

「夜鴉にはこわいもの、ないの」

「そりゃ、あるさ」

 夜鴉の答えに、それはなに、と尋ねた気がする。対する返事はなかったので、言葉にならなかったのかもしれない。

 シルトゥは寂寞とした世界を見下ろす孤独にふるえ、降り注ぐ鈍色の涙の不快に悶えるのを繰り返した。いっそ眠ってしまえば孤独のうちに凍えるだけですんだのだろうか。でもそれはあまりにも耐えられない。それとも、もう何も感じないところへ行ってしまえばよかったのか。枯れ落ちる枝のように。まほらの森の枝えだとおなじところへ。地の底へ。

 少女がめまぐるしい不快の奔流に振り回されていたとき、ぽつりと声がした。

「俺は、水が怖い」

 それは聞かせることを求めない、小さな声だった。しかしそのとき、シルトゥは世界のすべてに耳を澄ます巨人だった。目を閉じ、生けるものの息吹を探していた。だからこそ声は、明瞭に少女の体に響き渡った。

「都を流れる暗渠の留まるところに、塔の水秤がある。滴り落ちる水がいっぱいになると、皿がひっくり返るんだ。俺が呪われた当初、それが臓物と血になる夢をよく見た。首と腕が乗っていたときもあった。生まれ損ねた嬰児みどりごのときも。皿がひっくり返って、足下に落ちてくるんだ。破裂する。生暖かい血が飛び散る。頭上から、食え、啜れ、と笑う声がする。呪われろ、祝福のために、這いつくばれ――」

 それそのものが呪詛のような声だった。少女の内側に、暗い川と水の滞る濁った風が渦巻き、ぽたぽたと頭上から血が滴る。鈍色に油膜のような虹を描く足下の川と、滅びを嘆く笑い声、滴り落ちる巨人の涙が重なる。

「水の滴る音が怖い。流れる音が。悪夢を見なくなった今も、それは変わらない」

 怖い。シルトゥは同意した。涙のしたたる音が、流れていく音が怖い。共感すると、少女のもはや自分のものではなくなったように感じていた小さな体が、かすかに動いた。粘つくような涙を引きずりながら、少女の手は夜鴉の首にすがりつく。

 ああ、おなじだ――。

 シルトゥの耳に血臓ちのくらのたしかな音が響き、夜鴉の荒い息が届く。ここにいる。生きている。生きなくては。そう誓いながら、目を閉じ、次に目を開けると、シルトゥは雪の上に倒れていた。びゅうびゅうと風が渦巻き、体の半分が雪に埋まっている。

 痺れるように重たい体と、覚醒しきらない頭を抱えたまま、暴れ回る吹雪をしばらく呆然と眺めていた。そのうちに、シルトゥはあれだけ雪が降って風が唸っているのに、目を開けていられることに気がついた。周囲に雪も風もないのだ。雪洞があるわけではないのに。

 動こうとすると凍りついたように体が軋む。強ばる手で雪を掻き、どうにか体を起こす。そうして周囲を見回して、息を飲んだ。巨人の手が、まるで少女を捉えるように包み込んでいる。捕まってしまうと恐ろしくなったが、いつまで経っても大きな指が狭まる気配はない。それどころか、揃えた四指と掌が壁のように雪と風を防ぎ、まるで守られているかのようだった。

 怯えながらうつくしい手を見るうちに、真珠色の爪を持つ親指に囲い込まれるように黒い外套を見つけて、シルトゥは這い寄った。

「夜鴉」

 掠れた声で呼びかけながら、彼の体に積もる雪を払う。金鎖の絡まる黒髪をかき分けて首筋に触れると、指が溶けるような気がした。それを耐えて触れ続けると、かすかな脈が感じられる。生きている。ほっとシルトゥは息を吐いた。

 体を揺すると、いくらかもしないうちに彼はうっすらと目を開けた。黄昏の瞳が少女を映し、不思議そうに眇められる。

鶺鴒せきれい……?」

 シルトゥを見上げて、夜鴉はぼんやりとそう言った。ほとんど唇の内に消えるような声だったが、少女の耳は拾い上げた。この猛吹雪に鳥がいたのだろうか。シルトゥの背後は、巨人の掌しか見えない。でも巨人が見えない彼にはその向こうに飛ぶ鳥が見えたのかも。

 シルトゥが首を傾げていると、夜鴉ははっとしたように目を瞬いた。その瞳が、夕やみに包まれた群青から、朝焼けのようにさあっと茜色に染まり、ゆるやかに金色を帯びながら昼の青へと変わる。シルトゥは驚きに息を飲んでその変化を見守った。繰り返し「瞳の色が定まらない」と言われた意味を、彼女は初めて理解した。もう一度見てみたかったが、夜鴉はすぐに目を閉じてしまった。

 夜鴉はシルトゥを押しやるようにして上体を起こすと、軽く咳き込んだ。喉をさすりながら顔をしかめる。

「大丈夫?」

「ああ。問題ない。この雪は、お前が弱めているのか?」

 周囲を見回しながら尋ねるのを、シルトゥはわからないと首を振った。やはり夜鴉には、巨人は見えていないらしい。今更気にはしないことにした。

「この吹雪では、塔は見えないな」

 荒れ狂う雪で視界は悪く、更に厚い雲が太陽を閉ざすのか、周囲は本当の夜のように暗い。シルトゥには巨人の手が輝いて見えるので、月夜ほどの明るさはあるように思えた。それでも巨人の手から先は猛吹雪に閉ざされて見えない。そして手がそこにあるからか、いつもならば感じられる廃墟の、蜃気楼の塔の方角はわからなかった。気配が近すぎてわからないのだ。

 それでも周囲を見回していると、遠くに明かりが見えた。また川のときのように火が来たのかと怯えたが、それは火と違い、ゆっくりと近づいてくる。近づくにつれ、鈴の音のような音が高らかに聞こえた。

 それは雪狗ゆきいぬを四頭立てに繋いだ雪車そりだった。雪妖せつようは幻妖の中では珍しくしっかりとした実体を持っている。そのせいか、雪妖の声は鈴や金属のように高く澄んだ音になる。鳴り響いた鈴の音は、かれらの声だったらしい。

 車上には、灰色の衣を纏った人影があった。シルトゥはあの舟に乗っていた船頭を思い出したが、気配が違う。ほどなくして、座り込んだ二人のすぐそばまで雪車はやってきた。

「やけに呼霊こだまが騒ぐと思ったら、迷い人か」

 かけられた声は低く、嗄れていた。防寒のためか頭から被った衣の隙間から、ゆたかな白髭が覗いている。

「人がこの地を訪れるとは珍しい。帰るあてはあるのかい? まあ、白日はくじつのうちは出られぬがね」

 声に幻妖の音はなく、あの洞窟やここで聞くような不快な響きもない。まるで人の話す声のようだが、この生き物のなにひとついなかった雪原に現れたことに、驚きを隠せない。夜鴉も雪車を見上げたまま、言葉もなく警戒しているようだった。

 老人は呆れたように息を吐き、二人を見下ろした。

「このままここで凍りつきたいなら止めはしないが、実につまらない計画だ。私についてくるなら、少なくとも屋根と食事のあるところへは案内してあげられる」

「何処へ行く?」

 夜鴉が尋ねると、老人は楽しそうに笑った。

「それはもちろん、歴史の影さ。蜃気楼の先は、そう悪いところではないよ」

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