雪漠

 白々とした陽が一面の銀世界を照らしている。気がつくとシルトゥは雪に埋もれていた。体を起こしても、見える風景は変わらなかった。見渡す限りの雪原と、白い空だ。何もない。地平線すら曖昧になるほどの白。

「ここは……?」

「雪漠だ」

 起き上がった少女に手を貸しながら、夜鴉が答えた。雪を払いながら立ち上がる。

「<路>は閉じた。<糸>も切れた。試してみたが霧も呼べん。<眼>も追ってこられないのだけが救いだな」

「<路>? <糸>?」

「魔術の一だ」

 シルトゥの疑問に、夜鴉は一言しか返さなかった。疑問の虫がざわめいたが、少女は身震いすることでそれを振り払う。わからないことだらけの今、ひとつわかったところで何の拠にもなりはしない。それが魔術だというなら尚更、シルトゥには縁遠いものだった。

 深呼吸すると胸の奥が痛んだ。舞う雪を吸い込んだのかもしれない。咳をすると、氷の欠片とともにぽろりと、どうして、と呟きがもれた。

「どうして、何もないの」

 いらえはないだろう。そう思った瞬間、予想もしなかった方向から声が返ってきた。

ふるい神が死んだからさ」

 ぼおんと鈍く弦を弾いたような膨張する声。聞き取れぬものを大量に耳殻の中へ流されるような感覚。それが頭蓋のうちで響きわたりながら、言葉を象る。

「これなるは何者にもうたわれず、何者にも言祝ことほがれず、何者にも悼まれぬ、死すら取り上げられた大地の空漠、白きことばよ」

 音だけではない。まるで視界にも流れ込んでくるような言葉の羅列に、目の前が歪んだ。目を閉じても油膜さながらに、眼裏まなうらで極彩色の虹が揺らぐ。シルトゥにとって言葉はすべて音だ。音が見える。かたちをつくろうとする、その恐ろしさに少女はふるえた。あわてて耳を塞ぐ。けれど声は流れ込んでくる。

「白き詞はほころびだ。世界が繕えなかった死の傷跡よ。女王の愛した世界は奪われ、滅びた。世界に囁かれたまじないは消え去り、人がいたずらに歪めた呪いばかりが息づいた。寿詞よごとは失われ、言祝がれたものはもはや生きてはいない。愚かにも過去は戻らず、未来は定まっている。何が出来ようか、いったい何に抗えようか?」

 歌うように、笑うように、嘆くように言葉は続く。

「……もはや何も出来ぬのだ」

 シルトゥは言葉の圧力に耐えきれず、悲鳴を上げた。

「どうした?」

「何かいる! 聞こえる!」

 夜鴉ははっとして周囲を警戒するが、彼に鳴りわたる嘲笑を聞く様子はない。そしてしばらくして警戒を解く。

「何もいない」

「いる、聞こえないの? 笑ってる!」

「ただの風の音だ」

「違う!」

 掠れた声で訴える少女の耳を、覆う小さな手ごと、夜鴉は大きな手で塞いだ。ぐっと頭を掴まれると、いつかの夜のように雷の産声が頭蓋のうちに満ちた。シルトゥはふるえながら目を開いた。濡れた瞳は金緑石のごとく草緑と赤紫の火花を交互に散らし、ひとときも色が定まらない。夜鴉は息を飲んだが、すぐにその動揺をはだの下に隠した。少女の瞳を覗き込むようにじっと目を合わせ、怯えふるえる少女が、彼だけを映すのを待つ。

 浅い呼吸を繰り返しながらも、シルトゥは夜鴉の黄昏色の目を見つめた。

「聞こえるのは風の音だけだ」

「違う……」言い聞かせる声音に、シルトゥは弱々しく首を振る。

「違わない」その否定ごと封じるように、夜鴉は断言した。「ただの風だ」

 シルトゥはしゃくりあげるように幾度も呼吸を繰り返した。息藏いきのくらを往復する風の音、喉を通る掠れた声が手のひらの中に満ちる間、黄昏の瞳は明けることも暮れることもなく待っていた。シルトゥは目を閉じて唇を噛み、ふるえながらもうなずいた。

 少女の手の上から耳を塞いでいた手が離れると、内側の静寂の名残が指の隙間から零れていく。小さな手では保てなかった安寧を追うように、シルトゥは魔術師の外套を握った。

「さて、塔を探すぞ」

 夜鴉は一面の雪原を見渡した。

「方角からいって落ちたのは南側の雪漠だ。ならば塔は北」

 第八邦の空漠たる雪漠は、各所に点在しているが実はすべてが繋がっている、という伝説がある。どの雪漠からでも凍った塩湖にいけるし、蜃気楼のような塔が見える。そしてこのひと繋ぎの雪漠からは必ず塔を通じて出られるのだと。

「雪漠を旅した者の話などあやしいもんだが、残念ながらそれ以外に手がかりがない」

 夜鴉は少女の頭に手を置いた。

「声はまだするか」

「……もうしない」

 本当はまだ聞こえていたが、シルトゥは嘘をついた。おそらくその嘘は夜鴉にはわかっていた。

「まだ歩けるか」

「歩ける」

 夜鴉は雪を払うように彼女の頭を撫でた。

「お前の冬のおかげで、備えがあって助かった」

「うん」

 真っ白な世界を、歩き始める。


 白々とした空はやがて青みを帯びていく。

 シルトゥは初めて雲を見たような気がした。平原で見るよりも、森で見るよりも大きな雲だった。あまりの果てない大きさに、頭上を仰いでその先を見ようと思ったほど。天上、と思い浮かんだ。空の上、その先。天。天の、上。

 かつて天上にあったという女王が、といつか上枝ほずえの語りを思い出す。その女王が座したのは、雲の白だったのかも知れない。玉座からあふれた白繭が絶え間なく降ってくる。

 睫に雪が積もっているのがわかる。視界の白がまたひとつ増える。夜鴉も眉毛に睫に、髭にも雪が積もって凍りついている。

 天の息吹は渇いた雪の粒を動かし、ときに巻き上げて周囲を真っ白に染めた。風は何度も吹く方角を変えた。十二方位から不規則に乱れ吹く風は、陣地取りで遊ぶように互いの風紋を引っかき回しては新たに複雑な紋様を刻み残し、ひとときも同じ盤面であることを許さなかった。めまぐるしく変わる風の情勢は旅人の心も掻き回し、焦燥をかき立てて行く足を速めさせた。

 どれだけ歩いたのか、夜鴉が陽の傾く方を見ながら呟いた。

「太陽がまったく信用ならんな」

 辺りが金の夕焼けに染められてからずいぶん時間が経っていた。あまりにもその時間が長いことは、さすがに気のせいでは誤魔化せなくなっていた。

 しばし休憩することにしてその場に雪洞を作り、一向に沈む気配のない太陽を眺めた。すると太陽は地平線を滑るようにゆっくりと、影の方角を変えていくのだった。このまま一周してもおかしくないな、と夜鴉は呆れたように呟いた。

「夜がないのかもしれんな」

 シルトゥははっとする。

「夜なき冬」

「なんだそれは?」

 まほらの森では、夜にちゃんと眠らない子は夜なき冬に迷い込むのだと言い聞かせられた。眠るために夜があるのだから、眠らない子には夜が当たらなくなる。夜がなければ季節が巡らず、冬のまま。眠らぬまま朝を迎えると、夜なき冬に迷い込むのだと。一度夜なき冬に迷い込んだら、連れ帰ってくれるものが現れるまで、その子は冬を彷徨い続ける。だから夜なき冬には、眠れぬ子どもの魂が迷っている。

 そういう話を夜鴉に聞かせると、彼はつまらなそうに笑った。

「連れ帰ってくれるものが現れるまで、か。さっぱり期待できんな」

 シルトゥはふいに、自分を連れ帰ってくれるものはもういない、と気づいた。少女を捜してくれるものはもうどこにもいないのだ。彼女を知るものは、まほらの森だった。青白き森は燃えてしまった。丘一面のフラエシルトゥを見に行ったあの日のように、探されることも、怒られることもないのだ。心配してくれることも。気づきはまるでこの白い世界を映すように、シルトゥの内側を白く染めていった。


 沈まぬとはいえ日が傾けば気温は更に下がる。太陽が再び上り始めるまでは体を休めることに決めた。

 雪交じりの風が吹き抜けて唸りをあげるのを、雪洞の中から見守る。いつまでたっても訪れぬやみを待つうちに、白々とすべてが消えていき、シルトゥはやがて冬の檻にひとり、囚われたような心地になった。

 風の音が消え、身じろぎの音が消え、隣にいるはずの夜鴉の気配が消える。

 そこに音はない。そこに人はいない。ただただ深閑なる沈黙が横たわり、白だけが延々と降り続いている。

 誰もいない。何も、ない。

 昔から何もなかったのか、それとも降る年月に失われたのか。すべてを覆い隠すように降り続ける静寂としろがねの支配する大地に、かすむように建物の影が見えた気がした。

 それは崩壊を待つばかりの廃墟であった。そこには人がいたはずだった。人々は、守られていたはずだった。しかしそれはすべて滅びた。そこにいたものはみな、死んでしまった。ただ骸ばかりがあった。大小さまざまの骨が折り重なるようにあって、ちりちりと燻りながら、灰になるのを待っていた。うずたかく積まれた骸へ向けて、朝とも夕ともつかぬ傾いた光が差している。シルトゥはしめやかに積もっていく終焉をただ眺めた。

 ふと、風紋を描くように白が波打つ。内側から大きな掌があらわれ、骨を掴んで打ち砕いた。白く長い指と、真珠のような爪を持つその手は、芸術家の見いだした雪花石膏から掘り出されたかのように整っていた。這い出すように腕があらわれ、肩があらわれ、しろがねの内に眠っていた顔が起き上がった。それはあまりにもおおきな人だった。巨人は目を閉じ、唇も閉ざして声もなく泣いていた。

 シルトゥを見下ろし、かれはほろほろと涙をこぼす。その雫は鉛のように重く、さまざまな色を映した。天上の争いのように緑や赤の火花を散らしたかと思えば、一面の麦畑が風に揺れるがごとく金に輝き、あるいは海原を跳ねわたる魚の鱗さながらにちかちかと星を点らせたりした。

 涙は凍らずに雪をゆっくりと溶かしていく。水たまりが生まれ、雪解け水と混ざり合い、雫が落ちる度に鈍い波紋を描く。巨大な手が雪を握るように掻き、指先が作り出したみぞへ涙が流れていく。その行方を追ううちに、巨人が遠ざかっていく。双方共に一歩も動かぬまま、あたかもこれまでひとつだったものが、ふたつに分かたれるかのように。巨人がわずかに顎を上げて、シルトゥの方を向いたような気がした。

 巨人も廃墟も静寂もすべてが遠ざかっても、少女にはかれの場所がわかるような気がした。そこにいる。その感覚はとてつもなく大きなものだった。たとえどれだけ離れても、かれを見失うことはけっしてないだろう。それは確信だった。あの巨人の彷徨う廃墟がどこにあるのか、シルトゥにははっきりと知ることが出来た。

 夜鴉に肩を揺らされて、少女は微睡みから覚めた。体が痺れたように重たく強ばっている。眠ったつもりはなかったが、やはり夢を見たのだろうか。シルトゥは頭を振って、ゆるめた靴紐を結び、装備を整え直した。

 雪洞を出ると風はおだやかになっていた。空は金から青へと色を変え、太陽は地平線から離れて上りはじめている。

 ふいに、シルトゥは引っ張られるような気がして振り返った。ひっかき傷じみた筋雲を抱えた空にぼうっと煙が立ち上る。まるで空の端が燃えて、白い炎を上げているかのよう。雲にしては不思議な動きをじっと見つめていると、夢の中で見た廃墟がゆらゆらと陽炎のように浮かび上がった。

 かすかな悲鳴を飲み込むと、夜鴉が気づいた。

「塔か」

 彼は安堵するようにため息をつく。

「見えるの?」

 尋ねた少女にうなずき、凍りついた髪をほぐすように撫でる。

「ああ。あれを目指す」

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