嵐の前触れ

 階段を駆け下りて、三階の廊下へ出る。いつものように呼霊こだまたちが歩いていた。そのうちの煌びやかに着飾った集団が堂々と前からやってきた。いつもならば身を低くして声を聞かないように通り過ぎる氷花も今日はそんな気も回らず、肩をいからせてずんずんと廊下を進んでいた。

 金糸銀糸の上衣の呼霊が、青金石の眦を歪ませてなにか氷花には聞き取れない言葉を言った。すると嘲笑うように裳裾を持つ娘たちがさざめき、次から次へとかしましく囁く。その、どれもこれもわからない言葉!

「うるさい!」

 氷花はむしゃくしゃした気持ちのまま、大声を出した。呼霊たちが怯んだように身動きを止めるのに、氷花は足を踏み出してもう一度わめいた。

「うるさい、だまれ! あっちへ行け!」

 呼霊は過去を彷徨っていて、今を見ていない。そう聞いていた。関われるように見えて、あちらも、こちらも、何もお互いにすることは出来ないのだと。だから喚いたって叫んだって何にもならないことはわかっていた。それでも、氷花は大声を出したことで気持ちがすっとした。ふんと大きく息を吐き出すと、先ほどまで呼霊たちがそうしていたように、廊下を我が物顔で胸を張って歩いてみる。少し気分がよくなったような気がしたが、それも端に辿り着くまでだった。

「大声を出せば意が通ると思っているのなら、それは大きな過ちだよ、バルドゥール」

 いつも楽器を携え歌をうたっているだけの楽士が、氷花に向かってそう囁いたのだ。かそけき声だったが、あまりにもたしかな音だった。驚いてかれを見ると、楽士の深い霧のような瞳が氷花を捉えているように思えた。楽士は思わず立ち止まってしまった氷花に向かって、さらに言った。

「お前の声は世界には響かない。シを知らぬからだ」

 氷花はかれの言葉に興味をひかれた。思えばかれは、青瑪瑙がうたった歌も知っていた。氷花は驚きに乾いた喉を押さえ、唇を舐めた。血臓ちのくらがざわめくのを感じた。

「シって、なに?」

 呼霊とは会話出来ない、隠者はそう言っていた。氷花は自身の掠れた声の問いに動悸する胸をぎゅっと押さえた。果たして、答えはあまりにもあっさりと返った。

「それすらも知らぬのか。お前が話すのはなんだ? その声がかたちづくるのは?」

 話せている! 血のざわめきは膚を伝って、雷のように氷花の心を打った。同時に会話が続いたことで氷花は頭を悩ませた。わたしが話すのはなに?

「これはことば」

「それがシだ」

 打てば響くように声が返る。けれど氷花はがっかりした。シについて知れると思ったのに、返ってきたのは堂々巡りのような答えだ。思わず氷花は唇を尖らせた。

「違う。だって、わたしはシを知らぬといった」

「そうだとも」

 どこか満たされたように楽士は言った。

「お前のシには音がない。響きもない。それから、数も足りない」

 指摘に氷花は目をまたたかせ、ならばと意を決して求めた。

「なら、わたしに、シを教えて」



 書庫を中心としていた氷花の日常は、それから三階廊下の端、隅の部屋へと移った。楽士の呼霊はどこにでも自由に行けるようだったが、かれはここで歌をうたうことを生業としているらしい。生業とはそれを行って禄を得ることだと楽士は言った。塔を訪れたときに夜鴉が言っていたことだ。魔を操って禄を得ている。両者を総合して、暮らしているという意味だろうとなんとなく氷花は理解した。暮らしの邪魔をしてはいけない。

 朝になったら水瓶を替えて帯を一刺し、厨房で食事を受け取る。これまでは厨房で食べていたが、食堂へ向かうのが新しい習慣に加わった。書庫へ行かなくなったことで隠者が心配して、氷花を探しにきてしまうからだ。

 食堂の暖炉は日によって赤かったり青かったりする炎が揺らめいて、飾り棚には大小さまざまな硝子瓶が並べられていた。瓶の中は霜が降りていたり、吹雪いていたり、凪いでいたりする。それらは嵐と時を識るためのもので、隠者は天気管と呼んでいた。すべての瓶が白く覆われたら、白日の明ける日が近いのだそうだ。今は半分に少し欠けるくらいが凍てついたように曇った水を、残りは透んで明るい水をたたえていた。

 起きた時間が朝という塔の暮らしでは、食事の時間を合わせるのも難しいのだと最近気づいた。隠者は氷花に合わせて、食事をしてから眠るようにしたようだ。夜鴉はそのときどきによって隠者に連れられて来たり、すでにいたりする。

 隠者は共に食事をするが、特に話をするわけではなくなっていた。文字を習い始めてから、氷花は書庫の本に関しての話ばかり聞いていたし、隠者もそれに答えてくれていた。もともと彼の話は記録に由来するものが多かった。文字を避けようとすれば必然的に隠者を避けることになる。彼もまたそれを理解しているようだった。氷花をどう扱えばいいのか途方に暮れている。そんな気がして氷花も隠者とどう接していいのかわからなくなった。

 夜鴉がいても、彼は自主的に話をするわけではないので結局は沈黙を添えて麦粥を食べる。ただ顔を合わせて食事をするというそれだけの習慣だが、氷花には気づまりの時間となった。味と匂いがきちんとして温かい食事なのに、旅の途中で夜鴉が作った食事と同じくらい憂鬱だ。

 今日は夜鴉もおらず、氷花は心持ち急いで食事を終えると、逃げるように食堂を出た。息が詰まる気がして外へ出ると、強い風とともに鳶の巡る声が響きわたる。あれはきっと夜鴉のまじないの声だ。

 一昨日から夜鴉を見ていない。誘われるように歩廊へと向かうと、やはり胸郭に背を預けた黒衣の姿があった。うっすらと積もった雪を踏みしめて近づくと、夜鴉はまじないの声を止めた。

「食事はとった?」

 氷花の問いにうなずきながら、彼は近づいた少女の頭を撫でる。ふと草の香りがして、氷花はいつかの疑問に答えを見つけた。彼は去行草さりゆきぐさの匂いがする。柑橘系に似た香りと、燻されて苦みを増した匂いが混ざり合っている。それは旅の途中で唯一、たしかに感じた感覚の記憶と一致した。夜鴉の作った食事の匂いだ。氷花はひそかに納得し、胸の内の森には去行草の茂みが生まれた。

「夜鴉は食堂へ行かないの?」

「隠者と喧嘩でもしたのか?」

 暗に夜鴉も来てほしいと示したつもりが明確に跳ね返されて、氷花はむっと唇を尖らせた。喧嘩をしたわけではない。たぶん、氷花が勝手に怒っているだけだ。そう思って、氷花は自身が怒っていたことに初めて気がついた。なぜ怒っていたのだろうと考えていると、答えぬ氷花をどう思ったのか、夜鴉が言葉を重ねる。

「あまり隠者を信じすぎるな」

「信じる?」

「やつの言うことは、何が真実かわからない。三百年余前から生きているというのも疑わしい。虚言を繰り返す老人とでも思っていればいい。もしかしたら、生きてすらいないのかもしれない」

 氷花は幾度か瞬きした。夜鴉がじっと目を見たので、きっとまだこの瞳には極光が現れるのだろう。あの猛吹雪の空漠でただ一度だけ見た夜鴉の遊色は落ち着いて、今はもう夕やみをいざなう黄昏に暮れている。白日にあってそれはずいぶん懐かしく、慕わしいもののように思われた。氷花が目を閉じると、夜鴉の手がそっと離れていった。

 信じていたから、怒ったのかもしれない。そう思った。隠者の言うことは全部本当だと思っていたから、きっと本が読めるようになると信じてしまった。だからなのかも。しかし同時に、なら夜鴉はどうだろうと氷花は首を傾げた。歩廊を降りて室内へ戻っていく黒衣の背を見送って、夜鴉を信じているか、と自問する。

 隠者が、聞いたことにはすべて答えてくれていたから、氷花にも気づいたことがある。夜鴉は多くを語らない。聞いてもはぐらかされていたことが、幾度もある。

「信じる」

 氷花の森を風が鳴りわたり、どうと妖しくざわめいた。これはきっと長い嵐の前触れになる。しかし氷花は風も雨も小さな我が身にはどうにも出来ぬことと知っていた。おさまるようにしかおさまらぬのだと、つむじ風を飲み込んだ。



 三階の隅の部屋は、楽士に案内されて初めてその扉に気づいたくらい奇妙な造りをしていた。こんなの誰もわからない、と驚いた氷花に、有事の際に後継を逃すための経路だと楽士は言った。明かされる必要のない秘密だと。少女は秘密の共有に胸をときめかせた。

 蜘蛛の巣に囚われた光虫から鱗光がちらちらと雪のように降る。明かりといえばそれだけの本当に小さな部屋だ。経路のための部屋だから、行き止まりのように見えて複数の出口があるらしい。その隙間から光虫が迷い込んでくるようだ。

「七氏族の塔の名残ゆえ、知るものも多かろう。新たに知るものは少なかろう」

「七、氏族?」

「十五盟邦より以前に世を支配していた天上の塔たちよ」

 十一、十三、十五ときて今度は七だ。これまで昔にいくほど増えていた数がとつぜんに半分に減った。十三邦だった頃に生きていた隠者が三百年前で、彼も十五盟邦は知らぬほど前と言っていた。いったいどれくらい昔のことなのだろうか。

 天上の塔と口の中で繰り返した氷花は、ふと昔話を思い出して楽士を見上げた。

「天上を支配したのは石の女王?」

 楽士は少女の唇に親指を当てた。その指先は堅く熱く、氷花は驚いて言葉を止めた。熱とかたちがある。

勾歌まがうたのかけらを声にしてはいけない」

 静かなささやきが、強かに氷花の耳を打ち抜いた。飛び込んできた言葉が、頭の中で響きわたる不快によろめく。

「お前の声はどうにもあかるすぎる。シを知らぬくせにどうにもざわめく。その声は危うい。お前は何を知っている?」

「なにも」氷花は残響に揺らめく視界をこらえて、答えた。「何も、知らない。何を知っているのかも、わたしにはわからない」

 オントディルラなら、あるいは氷花が天を指す上枝ほずえであったなら、きっともっとわかることがあった。旧い言葉だってもっと知っていただろう。しかしもっとも高き枝は枯れ落ち、上枝もみな落ちてしまった。

 氷花の言葉が変わってきていると気づかされたとき、氷花はまほらの森が消えることを恐れた。吾らが受け継いできたもの、王の庇護を捨てても守るべきものがあった、そう語られたものすら、氷花には何なのか知らない。だから氷花はシが知りたかった。己の知るものの意味が。

「知らないから、教えて」

 氷花が願うと楽士はゆっくりと首を振った。

「お前はまず、話し方を覚えねばならない。そのかがやく声の抑え方を。いつも鐘を鳴らしていては、肝心なときに振り向いてもらえない」

 氷花は蜃気楼の塔に来る前、夜鴉と旅をしていた道中のように、ひそやかに息を吐いた。声を潜めるのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。

「喋らなければいい?」

「そう――そうだな。まずは目を閉じて、耳を澄ませなさい」

 楽士の両手がそっと氷花の目蓋に触れ、導かれて目を伏せれば耳に触れて閉ざした。いつかの夜に、あるいは雪漠で、夜鴉に同じように耳を塞がれたことが思い出された。楽士の手には、音がない。かれには血臓がないのだと氷花は不思議な感慨を覚えた。それなのに手が温かいのだ。爪弾き指の堅い腹が耳朶をかすめる感触さえたしかなのに、匂いもない。幻なのだ。

 だからこそ氷花は、縋りつくように耳を澄ませた。何を聞けばいいかさえわからないまま、幻を聞こうとした。呼霊を、遠い過去から鳴りわたり続けるその言葉を、声を。

「音を覚えよ。歌を覚えよ。世界のふるえを、お前に伝わろうとするすべてがことば、すべてが世界の歌なのだとれ。識ろうとするものを世界は拒まない。なぜなら、世界は歌うものを待っているのだから」


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