わたしの声
楽士のいうことは複雑で難しかった。しかし氷花の行うべきはただ沈黙して耳を澄ますことだけだ。緑あふれる草原を、白く染まった雪原を思い出しながら氷花は口を閉ざし、息を潜めて暮らした。隠者とはほとんど会話をしなくなっていたし、夜鴉は探さなければ会えない。一言も話さず過ごすことは、それほど難しいことではなかった。
楽士は相変わらず三階の廊下で歌をうたい、携えた楽器を奏でて、暇になれば氷花に遠い昔の話をしてくれた。シについてはなにひとつ教えてくれなかったが、
食堂の天気管がまたひとつ白く染まるまでのあいだ、言葉を閉じ込めた氷花の内側は不思議とざわめきにあふれていた。沈黙を選ぶまで、生きるものの限られたこの塔はもっと静かだと思っていた。けれど今は、たくさんの音が聞こえる。朝に踏みしめる雪の音も、瓶に落ちていく刻の水滴も、布に針を刺す小さな衣擦れも。糸の抵抗は波のように指に伝わり耳の奥をふるわせる。氷花は身に纏う衣服を織りなす糸のざわめきを、風をはらむ長い髪が世界を撫でていく音を知った。まるで弦を奏でるように、己をかき鳴らそうとする見えざる指先を感じ取った。
その朝、露台に立って灰色の雪原を見下ろしたときだった。
わたしは温かく、風は冷たい――初めはそう思った。何の不思議もないことだった。しかしその感覚はどうにも氷花を掴んで離さない。風花が舞い、髪に、睫に、肩掛けに六花を咲かせていく。手を差し出せば花は綻び、崩れて丸くなる。当たり前のことが、飲み込めない。
氷花が名付けられる前、まだ凍りついていた頃にも同じことがあった。温かくも冷たくもないのに、氷が氷でなくなったとき。何かが起きていることはわかるのに、なぜなのかがわからない。どうしてか理解できない物事は、氷花に文字を思い出させて心をささくれさせた。目の前で扉を閉じられたような寂寥感にただ唇を噛む。
どこまでも明るい昼の光に満たされているというのに、見渡す限りの雪原は途方もなく暗いものに思われた。巨人と明るい夜ごとに歩いた雪原がうつくしく死に絶えていたように、世界はひっそりと息を潜めて、命あるものすべてを隠してしまったような気がした。あの虹色に沈む涙の重さ、瀝青のまとわりつくような不快は、今もまだ続いているのではないか。
わたしは生きていて、世界は生きていない――やがて少女は、自分と世界を隔てるものが存在していることに思い至った。
氷花は大きく息を吐いた。ああ、と久しぶりに喉が鳴った。するとその響きが、風をふるわせる。世界がふるえる。鳴りわたるのは、己ではない。弦を持つのは世界のほう。かき鳴らす指先を持つのはわたし。氷花はぎゅっと手を握った。
この声は、あかるい。
繰り返し言われたことを、氷花は理解した。風の中に無数の弦が張り巡らされ、触れれば音をはじき出す。氷花の声はどういうわけか世界の弦をかき鳴らし、響いてしまうのだった。
今までなぜその共鳴に気づかなかったのか、不思議だった。どうしてこの声をして、普通に話していられたのだろう。鎖された塔の中では平気だとわかっていたが、それでも氷花は再び声を出すことが恐ろしくて仕方なくなった。
駆け込んできた氷花を、楽士は弦を爪弾きながら出迎えた。この声をどうすればいいのかを尋ねたいのに声を発することが出来ない。大丈夫だとわかっているのに、もどかしく氷花は何度も唇を湿らせた。楽士は幽けき声でささやいた。
「響かぬように、話せばいい。簡単なことだ」
わからない。氷花は首を振った。楽士は弦を片手で押さえながら、小さく弾いた。静かに奏でられた音色を示して、さあ、とかれはうたう。
「己の内側にある、息に共鳴してふるえる舌を止めるのさ。喉の奥にあるものもいれば、額の中央に、耳の中に、腹の底にあるものもいる。あるいは
それから氷花の試行錯誤の日々がはじまった。
楽士は簡単にいうものの、容易なことではなかった。声を出さずに声を出せというのだから、まったく意味がわからない。けれどそのままに口を開けばこの声はあかるすぎるのだということが、氷花にももうよく理解できていた。考えてどうにか試みようとするのだが、やはり出来ない。幾度も繰り返し試す内に、唇を開く前にこの声は駄目だと気づくようになってきた。喉ではない。もっと深いところだ。
額の中央に、耳の中に、腹の底に、あるいは膚のすべて。ひとつひとつと考えては意識してみるが、どれも違う。天気管がまたひとつ白く染まり、氷花は焦りを覚えた。このまま塔の外へ出るときが訪れては、あまりにも危うすぎる。
楽士の元へ訪れてはじっと座り込む氷花に、かれは言った。
「世界はすでに鳴りわたっている。音に充ち満ちて、すべてがことばをささやいてる。お前はその声に耳を澄ませたはずだ。風の音にも、鳥の声にもシがある。鳥さえもことばをささやいている。かたちづくる
氷花は顔を上げて楽士を見た。携える楽器は日々違うが、かれはいつも青い衣を纏っている。色あせた肩掛けはおそらく古くは赤かったのだろう。
「もし新たな歌が鳴りわたるなら、それは誰もが耳を傾け、聞き入らずにはおれぬような詞だ。かたちが変わっても命であったもの。それもまたシだ。かつて世界に死をもたらした。今はもう歌われぬ、忘れ去られた詞」
――フラエシルトゥ。お前の中にシはあるか。
そう問われたことを氷花はふいに思い出した。あれが夢だったのか記憶だったのか、今でも曖昧だ。けれどそれはひとつの道筋だった。
己の中にあるシが、この声をあかるく燃やしている。そう気づいたとき、氷花は
少女はゆっくりと唇を開いた。喉がふるえる前に、この声は大丈夫だという確信があった。
「わたしの、声」
それは何の変哲もない小さな声で、しかし氷花にとっては大いなる声だった。楽士は微笑み、少女のやわらかな髪をそっと撫でた。幽かな声がささやく。
「命の音、命の声、命の詞に耳をすませよ。お前はいずれ、歌をうたうだろう。かたちづくる歌を。そしてそれを死にたらしめる歌を。白き<とこしなえの冬>を知るものよ。そのときが来たならば、世継ぎを
声は氷花の森に雨となって降り注ぎ、やがて地下深くへと沈んでいく。大地は隅々までを潤す命の水を蓄えて、枝えだの伸びゆく力へ備えようとしていた。
氷花が話し方を覚えたことによって、楽士はいくつかの詞を教えてくれた。理解できるものもあれば、まったく意味がわからないものもあった。聞き取ることすら出来ないものもあれば、すでに知っているものもあった。楽士のいう詞は、象るものと司るものが多かった。それが吟人の知ることばなのだという。
「あなたは、吟人なの」
「さあ、もう風は溶けて消えてしまった。もはや世継ぎを捜そうとは思わぬ。されどこの喉には歌のかけらが刺さって抜けず、
いつか青瑪瑙が吟人について語ったことを氷花は思い出した。死してなおうたうもの、とかれは言った。ならば楽士もまた、そうなのだろう。氷花はそっと喉を押さえた。歌のかけらとは詞だろうか、では自分も死してなおうたうものとなるのか。かれはひそやかに笑った。
「歌わぬものはみな消える。きちんと灰に、風に溶けていく」
「歌ったら、残る?」
「それが歌というものだ」
氷花にはわからなかったが、それ以上は問わなかった。かれは歌について、深くを語らないからだ。代わりに気になっていたことを聞いた。
「前に言っていた、
「うたわせようとする歌だ。シに似ているが、紛いものに過ぎぬ。ことばの、歌の力を借りて蘇ろうとする骸の残響よ。けっしてそれを歌ってはならぬ」
思い浮かんだのは、青瑪瑙と楽士が歌っていた黒の王の歌だった。あれは氷花の内側から語りかけて、その旋律と言葉を知っている、と思わせた。そしてこみ上げるように続きが唇からこぼれ落ちる。まさにうたわせようとする歌のような気がした。
「それは黒の王、のような?」
「あれは
やつの心臓を取ってくる、と言ったのは誰だったか。氷花はつかの間、目眩のような幻影に襲われた。青い炎と吹雪。骸の行進と、大音声の叫びと、高らかな鼓と。あれはまだ氷に囚われていた頃に見た悪夢だ。そう、青瑪瑙の歌を初めて聞いたときに見た。
冠を持つ王、というのは夜鴉から聞いたことがある。十三邦をまとめ上げた王だ。今ある魔術は皆、その冠の名残だと彼は言った。ならば冠とは、魔術のことなのか。しかし隠者は、魔術とは灰のことだと言っていた。滅びより奪い取った力の欠片。ならば別のものか。
心臓は手に入れることが出来たのか知れず、冠は失われている。
楽士が、そしてあの悪夢の中の若者が
――鐘を鳴らしなさい。尊き御方の耳に届くまで、銀の血の御方が目覚めるまで。かの方は吾らが森をいとおしんでくださる。かならず助けてくれる。
オントディルラの言っていた存在は、黒の王のことだったのだろうか。わからないことばかりが増えて、氷花は目が回りそうな気がした。自分には考えも及ばぬところで、何か大きな力が動こうとしている。その気配ばかりが、血臓がざわめくほど伝わってくる。
怖い、と思った。わからないことが、怖い。氷花はよりいっそう、知識を求めるようになった。楽士に教えをせがみ、熱心にかれの声に耳を澄ませた。そうして知れば知るほどに、氷花は心が落ち着くような気がした。
わたしはシを知っている。それは大きな安心のように感じられた。
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