のたうつ蛇の谷

 それからというもの、シルトゥは眠るたびに夢を見るようになった。青白き森が燃える夢もあれば、先日の戦の夢のようにまったく知らぬところを見ることもあった。灰と雪の平原を夜の巨人に追いかけられる夢もよく見た。

 ただでさえ旅路で疲弊していた体は連日の寝不足も相まって、瀝青れきせいを流しこまれたように重く痺れていた。それでも置いていかれたら凍てついてしまう、火に捕まってしまうと少女は必死で夜鴉の後を追った。

 森を歩くことは慣れていたが、ここは親しんだ青白き森ではなく、植生も気候も風の吹き方も、土の感触すら異なる。知っているようで知らない地は項にじりじりとした不快感をもたらし、暗雲は決壊の予感をたたえたまま、どんよりと今日も漂っている。

 霧鹿がいないからか、山欅やまぶなばかりがのびのびと生え伸びる森は木々がすっと高く、樹冠がしれぬほど遠い。複雑に絡み合った枝の追持せりもちで昼でも関係なく薄暗く、下草も疎らだ。幹の腐り落ちた株を覆う苔か、垂れ下がる地衣類くらいしか色がない。まるで冬の森みたいだ、あまりにも生気がない。シルトゥは薄気味悪く森を眺めた。なぜ草が生えないのだろう。青白き森のように歩く足裏を押し出して芽を出したりしないのだろう。

 ――今年は山の目覚めが遅い。おそらくは、これからも。

 そう呟いた、狩人の言葉を思い出す。あれはこういうことだったのだろうか。目覚めといえば緑の唱和が思い出されたが、今年の春にはまだまほらの森はあり、きちんと唱和は成されたはずだ。森の緑は冬から目覚め、いきいきとその芽を伸ばした。

 ふと、シルトゥがまだ芽生えたばかりの若葉であった頃、目を離すとすぐに駆け回るやんちゃな娘に手を焼きながら、上枝ほずえが繰り返し言い含めた言葉を思い出した。

 ――森の外には何もない、樹も緑も恵みも、季節もないのだぞ。

 下枝しずえになってからもそれはずっと続いた。そしてひねくれ者のアルクントイスすら、森の外には何もない、と言った。

 ――爪先、森の外には血しかないんだ。大事なものはすべて血だ。生まれながらにして何もかもが決まる。面白いだろう? 道が引かれていて、迷うことがない

 森の外には何もない。だからいい、と彼はよく言った。決まってそれは呟くように、独り言のような言い様で、まるで構ってもらえずふてくされた若葉のようだった。

 ――森の外にシはない、そして同時に、シにあふれている。

 オントディルラも言った。あれが真実聞いた記憶の言葉なのか、あの夢の中だけの言葉なのか、シルトゥは今も思い出せない。あの夢は脳裏にこびりついて離れず、ふとした瞬間に蘇っては少女へ語りかけてくるのだった。

 ――お前はもう、シを知っている。

 それはいったい、なんだったのだろう。森の外になく、それでいてあふれていて、すでに知っているもの。シルトゥには自分が知っていることなどなにひとつない気がしていた。

 幼い日に一度出たきりの森の外はいま、少女の理解し得ぬものにあふれていた。声の不自由さが、襲われる恐怖が好奇心に蓋をして暴れ回る疑問を封じ込めた。そうしている内に、ざわざわと常にはだの下で答えを探して這っていた不快感すら、もはやシルトゥにはわからなくなってしまった。もう、何もわからない、ということしかわからない。

 さまざまなものが麻痺していたシルトゥは、足を踏み外して転びかけた。襟首を捕まれ、思いっきり後ろへ引っ張られる。そのまま放り出されて、したたかに尻を打ち付けた。あまりの乱暴なやりかたに、さすがに腹を立てて夜鴉を振り仰ごうとして、少女は息を飲んだ。

 目の前で地が途切れている。投げ出された足を慌てて引き寄せると、蹴り出した小石がからからと崖の先へ転がり落ちた。

「ちゃんと前を見て歩け」

 隣で同じように座り込んだ夜鴉が、膝の間にため息を吐く。少女は何度もうなずいた。

 暴れすぎて飛び出るかと思った血臓ちのくらがようやく落ち着いて、シルトゥはおそるおそる崖の下を覗き込んだ。一度気づいてしまえばなぜ聞こえなかったのかと首を傾げてしまうほどの水音が、下から響いてくる。

「のたうつ蛇の谷だ。流るるは英知の川。あれを下る」

 谷底には、名の通り蛇がのたくったような川がとうとうと流れている。川の流れはゆるやかだが、両側はともに切り立った崖しかない。とてもではないが、降りられるとは思えない。

「降りるの」息だけで問えば、「翼がなければ無理だな」と返された。

「ないのだから、地を這うしかあるまい」


 まさか蜘蛛のように崖にしがみついて降りるのかとはらはらしたが、夜鴉は勾配はあるものの森の奥へ進路を取った。

 霧が立ちこめはじめ、シルトゥは足下に注意して夜鴉を追う。葉擦れの音がしてはっと振り向くと、木陰から竪琴の角を持つ見事な白鹿が覗いていた。その姿はほのかにかすみ、彩雲さながらに毛皮には虹を描いている。

 歩みを進めていくと山欅はみるみる数を減らし、冬檜ふゆのき風見香かざみこう捻子松ねじまつ金楡こにれの木々が現れはじめた。整然と枝を伸ばしあい、こぼれる光を互い違いにすくいこぼした木漏れ日が下草までを育み、木陰には羊歯や苔が青々と茂っている。風見香の熟れた実を鳥が啄み、転がせた種や松毬を栗鼠がさらっていく。捻子松の日の当たる枝には宿り木が垂れ下がり、それを食む霧鹿と、獣の森鹿が首を擦り合って寄り添っていた。

 まるで青白き森に戻ったようで、シルトゥは目を瞬く。

「季節がねじれているだろう? 雪漠が近いとこういう森が出来る」

 夜鴉の言葉に、少女は首を傾げた。この森は、季節がねじれているのか。では青白き森は、そうだったのだろうか。

 さらに一歩を踏み出した少女の足下で、さくりと霜柱が折れた。夜鴉の息が白い。日差しは山欅の木立の方がはるかに少なかったというのに、この緑に分け入ってからの方がずっと寒くなっているのだと、シルトゥは初めて気がついた。それにも関わらず、風見香は実を成し、山欅もまた葉を青々と残しているのだ。たしかにこれは、季節がおかしい。

 立ちこめた霧に、紗をかけたようにさあっと虹がかかる。それは極光のごとくひるがえり、緑の裾を払って紫の靴を履き、青の髪飾り、赤の襟を金の鎖で繋いでたなびく。ひとときもじっとしていない子どもじみた虹の舞いに、シルトゥはひととき目を奪われた。

「この虹が出ると、雪漠がほど近い。空漠は魔で満ちていて、それが世界とせめぎ合って反発する。それが虹になって現れるらしい。お前の瞳に遊色が現れるのと同じだ」

の?」

「わたし」正されて、シルトゥは繰り返した。「わたし」

「わたしの、瞳」

「そう」

 夜鴉は時折、シルトゥの言葉を正すようになった。だいたいは一度正されれば治るのだが、一人称だけは何度か繰り返し直されている。わたし、という響きはどうにも慣れない。

 唇の中で繰り返している内に、夜鴉は下生えをかき分けて岩盤がむき出しの斜面へ辿り着いていた。近づいてみると岩棚が並び、その下にはぽっかりと空洞が開いている。

 洞窟だ。そこから風が吹き、帳をひるがえすように虹が揺らいでいる。触れそうなほどそばにある虹に、少女は洞窟を覗き込んでいる夜鴉を見上げた。彼は虹を映して瞳を揺らす少女にうなずいた。

「この奥へ行く」


 洞窟は入り口が狭いだけで、中は広々としていた。地面は水晶のように透きとおり、その奥には青々とした水が見える。少し奥へ行くと、夜鴉は玉随を打って白い火花を散らした。蛍のように彼の手で燃え始めた白焔が、洞窟を奥まで照らす。ゆるやかな坂道がうねりながら続いている。

「ここは一本道の雪漠だ。ひたすら坂を下りていけば、のたうつ蛇の谷まで降りる。雪漠だから幻妖が襲ってくることはないし、火の<眼>も見通すことは出来ん」

 おどおどと夜鴉の腕にしがみついている少女に、言い聞かすように話す声が、反響して幾重にも戻ってくる。遠雷のような轟きが響く。夜鴉は返ってくる音の波が収まるのを待って、囁くように言った。

「だが崩落の危険もあるから、ここから先はしゃべれない」

 腰を低くし、体を横向きにゆっくりと降りていく。透明の地面はすべて氷のように見えたが、石英も半々くらいある。安心していると滑るので、少女は気を引き締めつつ足を運ぶ。先を行く夜鴉が道を選んでくれるが、慎重に進む道筋に体は強ばる。

 からんと氷が転げ落ちる音がして、それが鈴のようにどこまでも鳴り響いていく。この坂はいったいどこまで続いているのだろう。夜鴉はのたうつ蛇の谷まで降りるといったが、ゆるやかに下る道は折れ曲がり、高さはともかく長さは想像もつかない。慣れない筋肉を使い続けるうち、果てがないように思われてだんだんと気が滅入ってきた。

 まるで地の底へ下るかのようだ。

 青白き森にいた頃、オントディルラがもっとも高き上枝になる前に、当時の高き上枝が枯れ落ちた。深い穴を掘ってその遺体を埋め、呼称に則って遺品を分けた。若葉は枯れ落ちた枝をなぜ埋めるのかがわからず、上枝に尋ねた。埋めるなんてかわいそうだと言った若葉に、上枝は言った。

「地の底へ下るのだから、埋めてやらねばならないのだ」

 それはなにかと問えば、長い昔話を教えてくれた。

「かつて天上にはすべてを支配し、虐げた女王がいて、彼女は死者すら自身の手にしようとした。女王へ反旗をひるがえした吾らの祖先は、大地を覆い尽くすような死者の群れとの戦を強いられた。だから吾らの枯れ枝は、利用されぬように地下深くへ、地の底へ降りるのだよ。女王に奪われぬように」

「戦いはどうなったの?」

「まだ終わっていない。今はただ、沈黙しているだけ」

「女王は何処へ行ったの?」

「たくさんのかけらに別たれて地へ落ちた。そして再び戻るときを伺っている。だから爪先、お前は忘れてはいけない――」

 また遠くで雷のような轟音がして、少女は足を止めた。今思い返していた物事が砕かれたかのようにかたちを失っていく。その先をたしかに聞いたはずなのに、思い出せない。シルトゥは砕けた欠片が繋がらぬもどかしさに体を揺らした。

 びゅう、と鋭い風が吹きすさび、うなり声のように鳴りわたる。

「忘れてしまったのか――」

 踏み出そうとした足を、少女はぴたりと再び止めた。今のは思い出からの声だったか、それとも本当に聞こえた声だったのか。耳を澄ますと、風は渦巻いて泣いている。

「おーい――」

 それは男の声のように聞こえた。咄嗟に前を行く夜鴉の腕を掴む。

「夜鴉、呼んだ?」

 尋ねると、夜鴉は唇に指を当てて静寂を命じた。その指先を見つめていると、また背後から声がする。振り向く。何もいない。

「どこにいる――?」

 それはたしかに男の声だった。他の旅人がいるのだろうか。だが、夜鴉は聞こえていないように見える。だとしたら気のせいなのか。少女は混乱し、ぴったりと夜鴉の背にくっついて歩いた。

 夜鴉の手の中に点っていた白焔が、ふうわりと飛び立って奥を照らす。

 そこは森の木々のように氷柱群が立ち並び、飛びまわる焔に青い光を返していた。ところどころくぼんだ地面からはひたひたと水があふれ出し、澄んだ泉が揺らいでいる。水の飛沫がさまざまな濃淡の青に染まり、波紋が水を伝って無数の泉へと繋がっていく。その様が鏡のごとく氷柱群に映り、波は絶えることなく続く。それはあたかも洞窟そのものが生きて呼吸しているかのようにすら見えた。

 まるで氷の血臓ちのくらだ。シルトゥはしばし呼吸を忘れて魅入った。

「どこに――」

 しかしすぐまた声がして、少女ははっと我に返った。あわてて夜鴉を追いかける。いつの間にかずいぶん離れてしまっていた。はぐれぬよう外套を掴もうと手を伸ばして、ふと違和感に止めた。

「フラエシルトゥ、どこにいる――?」

 ここに、と答えようとして、少女は口をつぐんだ。違う、夜鴉の声ではない。では夜鴉はいったいどこに、と目を走らせたとき、ふいに何かがシルトゥの手をつかんだ。少女は息を飲んだ。

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