1章 左手小指の爪先

黒衣の魔術師

 シルトゥは弾かれたように目を覚ました。夢の終わりに鳴り響いた轟音の名残が、少女の血臓ちのくらに、息臓いきのくらに、はだにはりついて体をふるわせていた。今もまだあの<眼>が少女を見つめている気がする。せわしなく周囲を警戒し、そこが変わらず昼夜もわからぬ暗やみのままであることを確認して、少女は跳ねる胸と呼吸を意識して整えた。幾度か喉が詰まり、咳き込む。口を押さえた手が痺れるように冷たい気がして握りしめた。

 閉じ込められた地下の寒さを、感じなくなってずいぶん経つ。初めは痛んでいた額の傷も火傷も、今は痺れたようになってよくわからない。相変わらず、何も見通せぬ暗やみの中にいる。

 少女が現実にため息を吐いたとき、ごおん、と地面がまるごと揺れるような轟音が再び響き渡った。ひゅっと息を飲む。余韻も消えぬうちに、頭上からなにやらざわめきが聞こえてきた。暗くてまったくわからないが、そこには格子がはめ込まれ、さらに鎧戸でふさがれた天窓があるはずだった。この地下牢からの唯一の出入り口だ。壁際に作られた階段は途中で途切れ、梯子が下ろされない限り上がることは出来ない。その天窓は少女が死ぬまで開くことはないと、重石までして閉ざした男に言われたはずだった。

 しかし今、天窓の錆びついた蝶番が悲鳴を上げている。鎧戸が開かれたとき、太陽が飛び込んできたのかと思った。まばゆさに焼かれた目を押さえて少女は呻いた。

「寒いな」

 低い男の声がした。声は梯子を用意しろと命じ、ほどなくして足音が降りてくる。シルトゥは光で真っ白に染まった視界を、幾度もまたたきしながら取り戻そうと苦心していた。何度またたきしても一面が白いままだったが、降りてきた男の姿はよく見えた。

 繰り返し染め抜いたような深い黒の外套に身を包み、髪も髭も真っ黒だった。やみを閉じ込めた髪には、金の鎖と、さまざまなものが編み込まれている。歪な真珠、淡い緑や深い飴色の琥珀、薄紅の珊瑚、鈍色の光沢を持つ黒玉、黄昏色の宝貝。髪だけではなく、耳には黒蝶貝の珠が一粒、夜露のように飾られている。更に肩掛けから手袋にかけても幾重もの金鎖が架かり、夜空の星さながらにきらきらと輝いていた。

 少女がそのさまに呆然と階段上の黒衣を見上げると、高々と白い灯火を掲げていたその男はひゅうと下品に口笛を吹いた。そして後ろを振り仰ぎ、彼に続いて降りてきた小太りの男へ声を掛ける。

「お前が捕らえていたのが魔術師ではないならば、これは幻妖か精霊ということになるな」

 小太りの男は寒さにか、男の言葉にか、顔を青ざめさせてふるえた。

 魔術師でなければ、幻妖か精霊? 少女は黒衣の男が自身を見ていることに気づき、首を傾げた。吾がなんだというのか。座り込んだ足を、手を改めて見下ろして、少女は驚きに目を見開いた。

 視界が白いのは、光に目を焼かれたせいだと思っていた。しかし、違う。灯火に照らされた周囲には氷霧がゆらめき、水晶を散らしたようにきらめいていた。床は雪で埋もれ、壁一面にびっしりと霜がおりて真っ白に染まっている。

 呆然とまた黒衣を見上げた少女の、白く凍りついた睫毛の奥、瞳は極光ひるがえるように刻々と色を変えた。

 男はその揺らめく色の変化を確認して、満足げに黄昏の瞳を細めた。

「それとも夏も近い室内でこれだけの氷を作る術がこの地には伝わっているのか? ならば邦都は高く買うだろう。氷屋が泣いて廃業するだろうな」

 皮肉に彩られた声は見目よりもずいぶん若い。けれどそれよりはるかに年嵩に見える小太りの男は、青ざめたまま弁明するように小さな声で呟いた。

「鐘に触れたのですよ」

「それが?」

 黒衣の男が心底不思議そうに問うと、年嵩の彼は驚愕したように声を大きくした。

「この時期に鐘へ触れることがいかなる罪か、あなた様にはわからぬのですか!」

「さっぱりわからんなあ。どの時期であろうと鐘が命より重くなることはない、と我が君ならば仰せになるだろうよ」

 絶句した男を楽しげに眺めると、黒衣の男はゆったりと腕を組んだ。金鎖の流れる音がせせらぎのように響く。

「だが罪を語るお前は、魔術師を捕らえることがいかなる大罪か、知らぬわけではあるまい」

 言われたとおりその罪に思い至ったであろう男は、しどろもどろになにか言い訳を呟いたようだった。しかしそれには一切耳を貸さず、黒衣の男は大げさに身震いするとしっしと犬を追い払うように手を振った。

「さて、体が冷えきってしまった。温かい食事と湯を用意しておいてくれ。それから金鎖とな」

「は、金鎖ですか?」

 突然の切り替えについていけず、取り残された顔をした男に、構わず鷹揚に黒衣はうなずいた。

「そうとも。魔術師に頼み事をしたのだ。報酬は金鎖と決まっている」

 頼み事、と更に不可解そうに眉を寄せた男へ、命じた彼は首を傾げて答えを告げてやる。

「氷室の氷を増やしてほしいと魔術師に頼んだのだろう? 違うのか」

「いいえ!」黒衣の言動に振り回されていた男の青ざめた顔に、はっと理解の色が広がった。「その通りです」

 反射的に口走ってから、彼は慌ててもう一度、大きくうなずいた。

「ええ、その通りですとも。今すぐご用意いたします。湯と、食事と、金鎖を!」

 さっさと梯子を上り始めた男が、大声で命じる声を聞いて、黒衣の男は鼻で笑った。それから、何が起きているのかさっぱりわからずに見守るばかりだった少女へと向き直った。

「お前、この術を弱めてくれないか。寒い」

 少女は声を出そうとしてまた咳き込んだ。すると喉の奥からころころと氷の粒が転がり落ちる。それを手のひらで受けて、驚きに続けて幾度も咳き込むと、男はゆっくりと階段を下りてきた。蹲ったままの少女の背に、大きな手が添えられる。

「冷たいな」

 少女の背には、何の温度もなかった。触れていることしかわからない。男が寒いというこの牢の寒さも、少女はなにひとつ感じなかった。

「お前、生きているのか?」

 男の手が脈を測るように喉に触れる。そのときようやく、じわりとなにかが喉に染みた。ごぼ、と水音を立てて凍りついた喉が溶け出した。

「わ、わからない」

 掠れたが声は出た。

「わからない?」男は少女を見て、眉を上げた。「脈はあるようだが」

「違う。生きてる。術、が」

 ともすれば再びこみ上げそうな氷を厭って、少女は己の喉を手で押さえた。

「ああ、術か。瞳に遊色が出ているからな。目覚めてまだ日が浅いのか?」

 少女は何を言われているのかすらわからず、ただ首を傾げた。男もまた少女の様子を観察するようにして、揺らめく瞳を覗き込んだ。

「それに氷の魔など見たことがない。何処の邦だ?」

 ホウと聞かれて、少女ははっと思い出した。

 シルトゥは青白き森が焼けた日、火の<眼>が開いて天から炎が降ってきたあの日、有事の際には鐘を鳴らして助けを求めよと、言いつけ通りに村へ駆け下りて鐘を鳴らしたのだ。そして、鐘を鳴らした罪として投獄された。

 鐘は鳴らしたが、助けが来たのかはわからなかった。とおときおんかたは、しろがねのちのおんかたは、本当にまほらの森の皆を救ってくれたのか。

 目の前の黒衣の男を見上げると、シルトゥは蹲った身体を正して向き直った。子どもたちは、トートキオンカタは長い外套を羽織って、貴石の飾りを付けているのだと言っていた。ならば彼は、トートキオンカタではないのか。直に願えるのならば、助けを求めるのは今しかなかった。

 突然に姿勢を正した少女を、黒衣の男は不思議そうに手を離して見守った。それに許された心地がして、少女は喉を押さえたまま、声が途切れぬように言った。

「とおときおんかた、しろがねのちのおんかた。どうかお助けください。吾はまほらの森、左手小指の爪先フラエシルトゥ」

 少女が名乗った瞬間、どこからか風が吹き込んできたかのように吹雪が渦巻いた。足下の雪も巻き上げ、あたかも山を吹き降りる嵐のようにごうごうと耳元で吹きすさぶ。わけもわからず少女が固まっていると、舌打ちとともに引き寄せられて、かちりと耳元で金属がぶつかる音がした。すると吹雪が和らぐ。男の息が、凍てついて星のように囁いた。

「今のは、まさかお前の名か?」

 うなずくと、彼は額を抑えた。

「魔術師は名乗ってはならないと、言われなかったか」

「魔術師? が?」

 それすら知らないのか。男はつぶやき、ため息をついた。

「悪いが、俺は貴族ではない。貴きも銀も持たぬ魔術師だ」

 外套に鏤められた氷を払って立ち上がる。魔術師はシルトゥの腕を掴んで立ち上がらせると、天窓を示した。

「とにかく出るぞ。このままじゃ俺は凍え死ぬ」


 梯子を上がり暗い廊下をしばらく進むと、窓から傾きかけたやわらかな陽が差し込むのが見えた。橙色に彩られた光を浴び、シルトゥはようやく外へ出られた感慨に膝を震わせた。同時に緊張と恐怖で遠ざかっていた飢えと渇きがよみがえってきた。それから額の痛みと。

 堪えながら早歩きに魔術師の後を追う。彼は振り返ることなく、少女に問うた。

「まほらの森とは、西にある青白き森のことか?」

「吾らのこと。青白き森は、まほらの森のすみか」

 魔術師は少し首を傾げたが、なにか納得したようにうなずいた。

「われら、か? 訛りがひどいな。お前はまほらの森、であってるか」

 うなずく。なまりがひどい、の意味が少女にはわからず、しかし言葉が思うように通じていないらしいことは理解した。それは村の子どもと会ったときにもあった。たしかに、彼らの話す言葉は、シルトゥの知る言葉とは少しずつ異なっている。それでも少女の知る言葉はただひとつしかなく、通じるように祈りながら話すしかなかった。

「炎の中に<眼>が開いて追いかけてきた。森は燃えてしまった。吾は助けを呼びに来た」

「もう遅い」

 気をつけてゆっくりと短く話した少女の言葉を、返す魔術師の声は素っ気なかった。ぽかんと口を開けて少女は彼の背を仰ぎ、その意味を理解しようと試みた。

 魔術師の後を追って扉を潜ると、裸足の裏がふわりとやわらかに沈み込む。複雑な紋様が織り込まれた毛足の長い絨毯だった。自身の白い爪の下には雷土と水の波紋が描かれ、とうとうと流れていく水が床一面に描かれた緑へと繋がっていた。ところどころ白い六枚の花弁を持つ花が描かれている。シルトゥはそれを見下ろしながら、子どもたちに教わった大地のことを思い出した。羊群れ山、のたうつ蛇の谷、流れる英知の川、雪原、野槌のづちの丘、丘の下の都、万雷の水の塔。きっとこの絨毯はそれを描いているのだろう。あの長椅子がちょうど、村がある守りの丘になるのだ。

 絨毯の模様を追っていた少女は長椅子の向こう、暖炉で赤々と燃える火を捕らえた瞬間、ざわりと膚が剥がれ落ちるような怖気に襲われた。がちがちと鳴り出した歯の音に気づいたのか、室内に入っていた魔術師が振り向く。その視線の先の炎があることに、彼は気がついただろう。

 魔術師は開け放たれた扉の前で固まっている少女を無造作に担ぎ上げ、ふるえて縮こまった体を荷物のように天鵞絨張りの長椅子の上に下ろした。暖炉の目の前におかれて、その炎のゆらぎを見るとシルトゥの頭蓋の内で無数の鈴がさんざめいた。黒煙を噴き上げる緑が今にも目の前によみがえってくるかのようだった。

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