青瑪瑙
そのとき、きんと甲高い音がして火花が散った。魔術師が編み込んだ髪から外した玉随と、右手の指輪を打ち鳴らしたのだ。火花は暖炉の上で、ぽっと白く燃え上がった。そしてくるりと渦を描いたかと思うと、尻尾が生え、手足が伸び、まるで擬態を解かれたかのようにさっと色を変えた。変化した真っ青な蜥蜴は短い手足をせっせと動かし、尻尾を振りながら、宙を泳ぐようにして魔術師の手へよじのぼった。
「あれ、旦那」
蜥蜴が言った。
「この暖炉があたしの新しい住処?」
蜥蜴は魔術師の手の甲に両前脚をついて、仰け反るように振り向いた。鱗は磨かれた金属のようにつやめいて青く、瑪瑙のように複雑で美しい縞模様を持っていた。青い舌を炎のようにちらつかせながら、星のような金の瞳で魔術師を見上げる。
「いいや。しばらくだけ火を見ていてくれるか」
「しばらくってどのくらい」
「竜がまばたきするくらい」
「いいよ。あたしが見ていてあげる。旦那は寝る?」
「寝ない」と魔術師は答えた。蜥蜴がひょいと暖炉へ飛び込むと、炎は青く色を変えた。
シルトゥはわけもわからず、青い火を見つめた。赤々と燃えていた炎に感じていた恐怖は、驚きと変化に溶けていってしまった。これは本当に炎なのだろうか。おそるおそる手を伸ばしてみると、触れる前に魔術師に捕まれてしまった。少女は炎を映して青い瞳で彼を見上げた。
「色が変わっても火は火だ、火傷するぞ」
やけど、と少女は口の中で繰り返す。魔術師はその霜が銀冠となって彩るつむじを見下ろした。
「多少近づきすぎるくらいが、溶けていいかもしれんがな」
彼の手が髪に触れて、そこがまだ凍りついていることを少女は知った。魔術師の外套についていた氷はとっくに溶けてしまっている。魔術師が額の傷に触れると、少女はかすかな痛みに顔をしかめた。
「これは殴られたのか」
少女がうなずくと、魔術師は顔をしかめ、祈るように呟いた。
「必ずその報いを返そう。我が<血>は裏切らぬ」
言葉と同時に、傷口から突き刺すような痛みを感じた。何かが膚を通して流れ込み、ぐるりと体をかき回した後また出ていくような、いいしれぬ不快感。傷に触れる手を払おうと魔術師を見上げると、突然に彼の額がぱっと裂けて血を吹いた。
「おっと、思ったより深いな」
魔術師は痛みなど感じていないかのように言うと、少女の手を取って今し方裂けた額に当てた。すると血がみるみる凍りついた。
「これはいい」
魔術師は楽しそうに笑ったが、シルトゥはもう何が起きたのか、さっぱりわからなかった。混乱したまま、魔術師の額を見たり、自身の手を見たり、青い暖炉の火を見たり繰り返した。そうしたところで、やはりなにひとつわからないままだったのだが。
混乱しているうちに、部屋の中へ何人かの男女が行ったり来たりして、湯の準備がされたり、食事の準備がはじまったりした。
食事を整えている間にと、シルトゥは湯を使うように勧められたが、使い方がわからなかった。わからないことばかりで、だんだん不安で情けなくなってくる。何も答えられずにいるうちに、流されるように水につけられたり、霧のこもった部屋に入れられたり、体を布で拭かれたりした。水につければ水が凍り、霧の部屋ではあっという間に霧が消え、体を拭くに至っては、拭いてくれようとした女の手が凍りついてしまって、少女は謝りながら自分でやるからと女を追い返した。自分でやる分には凍らなかったことは幸いだった。体がさっぱりしたこともさることながら、地下牢へ入れられる際に取り上げられたものが戻ってきたことは、少女の心を明るくした。
黒曜石の短剣や
自分がなぜか凍りついていること。魔術師の不思議。それから、彼が言った「もう遅い」という言葉。ひとつひとつを噛みしめるように考えるうち、理解できたのは最後のひとつだけだった。
もう、まほらの森はないのだ。シルトゥが暗やみに囚われている間に、あるいはその前に、失われてしまった。上枝の、下枝の、あるいは若葉の、さまざまな顔と名前が浮かんでは消える。ひとりひとりの声が弾けては消える。胸の底がひりつくように痛み、こみ上げるふるえが北風のように体の内側を暴れ回る。けれどどこもかしこも渇いて、凍りついて、涙一滴、嗚咽ひとつ少女はこぼせなかった。
着替え終えたシルトゥが促されて先ほどの部屋に戻ると、すでに魔術師も戻ってきていた。身なりが整えられ、額にあった傷の手当てもされていた。やがて食事の準備が整えられ、少女の前にも湯気を上げる玉麦の乳粥が用意される。しかし彼女が匙に触れると、たちまち白く凍りつき、氷菓のようにしゃくと音を立てるのだった。
「氷の魔というのも難儀なものだ」
それを見て皮肉げに笑った魔術師の顔に髭はなく、声のとおりに若い顔立ちが明らかに見えた。黄昏色の瞳の鮮やかさがその膚の薄さを際だてる。たとえ彼が黒い衣を羽織っていなくても、金鎖や貴石の飾りをしていなくとも、シルトゥは彼を尊きものと誤っただろう。その瞳のいろは、それだけ特別なもののように彼女には思われた。
食事を終えて一息ついた頃、茶の準備と共に先ほど地下牢で見た小太りの男がやってきた。薄い赤の肩掛けを羽織った彼は、扉の前で目を丸くして立ち止まった。
「さすが我が邦の指輪殿は、すさまじい力をお持ちでいらっしゃる」
暖炉の青い火に驚いたものらしい。シルトゥはそっと、これは驚くべきことなのだ、と安堵した。対する魔術師は片眉を跳ねて唇を歪めた。
「俺は指輪ではない」
「そうでしょうな、まだ」
「まだ?」魔術師の声が一段低くなる。
申し訳ありません、と男は背を小さく丸めて、汗をかきかき謝罪した。そして扉の脇に控えていた従僕に目配せすると、
「報酬の金鎖でございます」
魔術師は造作なく金鎖を取ると、手の中で鎖を遊ばせて、その重さと長さとを確かめた。彼は遠慮を知らぬ魔術師の物言いで、短く言った。
「足りんな」
「どうか勘弁ください。ご存じの通り我が領の大半は
「ここに限らず我が邦の大半は雪漠だ。文句は
いいから追加をよこせと言いたげな視線に、男はふくよかな腹を詰め込んだ上着の金釦を弄った。そしてまるで釦を奪われまいとするように握り込むと、姿勢良く声を荒げた。
「領民だけでも危ういというのに、この春からは難民まで抱えているのですよ」
「西のか? それとも東の?」
「両方ですよ!」
ふむ、と魔術師は顎をさすって、長椅子の上におとなしく腰掛けた少女を示した。
「これはどちらのだ」
「西です。西の森から降りてまいりました。十一邦のものではありません。言葉もひどく訛っていますし、名さえ聞き取れません」
「名を聞いたのか? お前が? 魔術師に?」
繰り返し語尾を上げて問いながら、魔術師は鼻で笑った。男は失言に気づいて途端に青ざめた。首を振り、とんでもないと大きく手も振る。けれどシルトゥは、たしかに男に名を繰り返し聞かれたことを思い出した。そのときには、通り名を名乗ったはずだ。左手小指の爪先、と。
まほらの森では、名を呼び合うことはない。通り名を使う。まほらの森の名はみな植物の名前だから、名を呼ぶと芽生えてしまうのだ。だから春の緑の唱和のときと、秋の眠りの唱和のとき以外には互いを呼び合うときも通り名を使っていた。
魔術師は金鎖を手に掛けたまま、指先でシルトゥを呼んだ。おそるおそる近づくと、彼は冬纏う少女の、胸の上から背へと鎖を回し、まず一重に金円を作った。ちりっと軽やかな音が鳴って、環になった鎖の上に金貨の飾りが揺れる。そして細い首筋から、六花で襟を縁取る鎖骨へ垂れる程度の余裕を持って二重に、さらに雹のちりばめられたしろがねの髪に絡めて三重に、残る鎖を氷柱の飾る耳殻にかけて垂らした。
金鎖から手を離したときには、魔術師の袖はすっかり凍りついて氷柱が伸び、摩る手首は紫に変色していた。彼は少女を眺めて、不満そうにやはり足りないとぼやく。
「だがまあ、ないというものは仕方あるまい」
「まことに至らず、申し訳ないことにございます」
唇を噛みしめて青ざめていた男は、ほっと大きな腹をなで下ろした。
「ところで、西の森は燃え落ちたそうだが、こちらまで火は来なかったのだな?」
胸の前に揺れる金貨の飾りに触れていた少女は、西の森と聞いて顔を上げた。
「戦端が開かれたわけではないと<糸>の御方にお伝えしたかと思いますが、聞かれなかったのですか?」
「聞いた。だから見に来たのだ。なぜ火が西を狙ったのかを知るために」
「燃えたのは守りの丘を越えた向こう側、我が領はおろか第八邦、そして十一邦ですらありません。古の十三邦の頃より、国境はあの丘なのですから」
少女は耳を澄ませて聞いていたが、聞いたことのない言葉と言い回しが頻出するようになると、さっぱり意味が追えなくなってしまった。手持ち無沙汰に用意された茶へ手を伸ばす。茶は当然のように凍りついて、そればかりか手が触れた卓の表面を白く、まるでひびが入るように霜が覆っていく。我ながら意味がわからない。繊細な彫刻を施された呼び鈴が卓とともに氷に閉ざされていくのを見て、少女は慌てて手を伸ばした。
円錐型の鈴を持ち上げると、凍りついているはずのそれは、りんと澄んで高らかな音を立てた。もとよりただよく響くことだけを考えられた、呼び鈴である。けれどそれは常とは異なる妙なる楽の音となり、殷々と響きわたった。
あまりの音に、持ち上げた少女自身も驚いて鈴を取り落とした。絨毯の上へ転がり落ちた鈴は自ら歌い出すかのように幾度も鳴った。その残響のうちに暖炉の火は大きく燃え上がり、突然に赤く色を変えた。そしてまるで生き物のように伸び上がったかと思うと、何かを探すように床へと炎の手が這った。
シルトゥは喉の奥で引きつった悲鳴を上げた。少女の足下からは霜柱が持ち上がるように次々と氷の結晶が生まれ、押さえた唇からは氷の粒がころころと零れた。今しがた結ばれたばかりの金鎖の環がひとつ、ふたつ弾けて解けた。
蜥蜴は威嚇するように鋭く鳴くと、その瞳めがけて飛びかかった。小さなかれの体がすっかり炎の中に収まると、暖炉は再び青く染まった。しかしそれでは気が収まらぬように、青瑪瑙はジャーッジャーッと虫の羽音に似た警戒音を出した。
「なんてこと」地団駄を踏むように蜥蜴の声が幾重にも響いた。「なんてこと、なんてこと、あたしの火を盗むなんて! あいつは竜よ、旦那、いったい何を連れてきたの」
「<眼>だ」
魔術師は少女を自身の金鎖の内に捕まえながら、低く呟いた。
「火の中の<眼>か。なるほど、第三邦の魔術師で間違いない」
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