追跡

 暖炉の火は青瑪瑙が奪い返したが、廊下からもまた悲鳴が上がった。

「旦那様、燭台の火が!」

 駆け込んできた従僕は、あちこちが焦げたり凍りついたりしている客間の様子に目を白黒させて言葉を失った。その報告を受けるべき館の主も、すっかり腰が抜けてへたり込んでいる。

 魔術師は少女の綻びた金鎖を直しながら、主の代わりに答えた。

「大丈夫だ。ここは石造りだしすぐに燃えはしない」

「ほ、本当に大丈夫なのですか! ここもまた燃やされるんじゃないでしょうね!」

 座り込んだまま噛みついた男に、魔術師はうなずく。少女は再び目の前に現れた火の<眼>に、魔術師の外套を握りしめてふるえていた。あの<眼>は見た。見つかってしまった。魔術師はしがみついて歯の根が合わない少女を片腕にかついだ。

「視ているだけだ、燃やすつもりはないだろう――おそらく」

「おそらくでは困ります!」

「<眼>は見るだけにすぎん、距離を超えるのは視線だけ。火を操る力はない――はずだが、まあ、わからん」

「呪われている!」

 初めて真正面から魔術師を睨んだ男に、彼はあざけるように笑った。

「なんだ、知らなかったのか。呪われていない魔術師などいない。呪われぬ力などないのさ。何の報いも受けず、自由に使える魔術師がおらぬようにな。……さて、世話になったな。お前に正しく報いよう。恩には恩を。罪には罰を。そして呪いには呪いを。第八邦の<血>は報いるものを過たぬ」

 歌うようにそういったかと思うと、魔術師は片手で手当てされた額の包帯を外した。そして祈るように自らの傷へ触れる。次の瞬間、館の主は悲鳴を上げて額を抑えた。押さえた両手の間から鮮血があふれ出す。魔術師を見上げた男の目は、もはや畏怖と恐慌しかなかった。それを皮肉げに見下ろす魔術師の額は傷ひとつない薄い膚いろ。

 暖炉を出た青瑪瑙の蜥蜴が、廊下で暴れる虫のような火を咀嚼しながら言った。

「旦那、<眼>は閉ざされても耳はそこかしこにある。風が吹くよ」

「ああ、青瑪瑙。お前も気をつけろ」

「あたしは小さくても竜。平気」

 また呼ぶ、と魔術師が囁くと、青瑪瑙は目を細めて満足げにうなずいた。新たな火へ飛びかかっていくかれに背を向けて、彼は館を後にする。

「その氷は扱えるか」

「わからない」

 少女は首を振った。しがみつきながら氷を吐く。火の中に開いた<眼>が、こちらを探している。そう思うとおそろしくてしかたなかった。立ち向かうなど出来ようはずもない。あの青白き森を焼いた、絶対的な炎。

 外はもはや日は落ち、夕やみが両手を広げてすべてを覆い尽くそうとしていた。夜の袖にほころびのように浮かび上がる松明の明かりが、今ほど厭わしかったことはない。

「まったく呪われているな」


 魔術師はひとつため息を吐くと、喉を引き絞るようにして高く、笛のように歌った。短い旋律でうたわれたまじないは、すぐさま夕霧を引き連れてきた。霧が凝ると、見上げるほど大きな幻妖が白い羚羊を象って悠然と立っていた。霧妖むようだ。霧妖の羚羊かもしかは襟巻きのような毛を西風にたなびかせ、魔術師に目を向けた。雲のようにふくらんだ背が、大きく尾の振られるたびにかすむ。

 魔術師は宥めるように霧妖の腹を幾度かなぜてその耳元になにかを囁いた。すると霧妖は脚を折って彼の前にゆっくりと伏せた。その背にシルトゥを乗せ、自身は彼女の背後にまたがると、また笛のように喉を鳴らす。

 霧羚羊きりかもしかは起き上がって軽やかに踏み出した脚で大地を掻き、土埃を巻き上げたかと思えば、あっという間もなく風をつかまえて、飛ぶ夜鴉からすの横を駆けた。

 それからほんの数歩で、石造りの門に辿り着く。外壁は霧羚羊なら容易に飛び越えることが出来るほどの高さしかない。遠目にも確認できたであろう、領主館の方角からやってきた巨大な羚羊に、門番たちは混乱に陥っていた。それが霧で出来た幻妖と気づいてからは更に混沌とし、ひとりの勇敢な門番にいたっては、霧妖へ槍を突き出すほどだった。霧に過ぎぬ妖を槍でついたところで、穂先が錆びるだけだということは赤子でも知っている。

 魔術師がまじないの声で呼びかけると、槍は彼の手元にやってきた。金属は魔を通しやすい。霧を掠めて錆びついた穂先に触れると、緑青の甲虫が羽ばたいた。元の鈍色の光沢を取り戻した槍をすがめて認めると、夜鴉は門番の足下へ放り投げた。

「襲いにきたのではない」

 魔術師の声は低く、よく通った。彼は己の喉の使い方を熟知していた。門番たちはたちまちに正気を取り戻し、はっとしたように霧羚羊の上にある男の姿を見つけた。

「ま、魔術師!」

 ひとりが驚きの声を上げると、ざわめきが周囲に満ちた。一見、黒髪の若い男にしか見えぬ彼が魔術師と呼ばれたことに困惑する声と、十数年はこの地へ現れていなかった魔術師の再来に畏怖を覚える声とが混ざり合っていた。あるいは、本当にこの男が魔術師なのかを疑問視する声と。しかし黒衣の外套を許されるのは魔術師だけだ。肩掛けに金鎖を飾るのも、貴石を同じように鏤めるのもまた、魔術師だけの習わしだ。

 熟練らしい年老いた門番が、若者を押しのけ、魔術師を通すよう動き始める。

「お通ししろ」

「ですが、霧妖は、」

 門番たちは外壁ほどに大きな霧羚羊を見上げた。そしてその背にある黒衣の魔術師を。魔術師はふと背後を振り向くと、彼らを見下ろして首を振った。

「急を要する、許せ」

 霧羚羊は怯える人間に歯をむき出して嗤い、外壁と人垣をひと飛びに超えた。ぽかんと口を開けたままその跳躍を見守った門番は、その直後、魔術師が振り返ったものが何かを知って悲鳴を上げた。大通りを蛇のようにのたうちながら向かってくる、炎の群れ。その真ん中には<眼>が開いていた。門番たちが蜘蛛の子を散らすように門から離れると、外門の篝火を食らった火は歓喜して燃え上がり、鳥のように外壁を乗り越えた。

 火は石畳の大通りに焦げ跡を残して壁の向こうへ消えていった。松明も篝火も、みんな<眼>に食われてしまった。後には白煙たなびくやみの中を呆然と立ちすくむ人々だけが残された。



 街道を外れて、二人を乗せた霧羚羊は空を駆けあがる。夜を燃え上がらせながら炎が追いかけてくる。

「まだ追ってきてる……!」

 シルトゥが悲鳴を上げると、炎が歓喜するようにのたうち、やみに金を撒いたように火の粉が散った。

「喋るな」

 魔術師は舌打ちと共に鋭く言うと、霧羚羊は矢のように跳ね、突き進む森の木立は怒声を上げた。風に押され、軋み、枝えだは絡まり合いながらざわざわと葉をこすり合わせた。月の光も星の明かりもすべて木々に絡め取られ、純粋なやみに彩られた森の迷い路は、侵入者を威嚇し、閉じこめようとする。

 魔術師はぷっと地へ唾を吐き出すと、それは土に溶け込み、泥の小人になって起き上がった。目もなく耳もない小人は風の通る場所をすぐさま見つけて、くるりと一回転しながら跳ねるように道を案内し始めた。その背を追いながら、魔術師はシルトゥを抱え直し、自身の首に掛けている金鎖を襟から引き出した。その先に垂れる金貨の飾りを少女の唇の前に突き出す。

「噛んでいろ。声はけっして出すなよ」

 シルトゥは浅い呼吸を繰り返しながら、言われたとおりに金貨を噛んだ。目の前が奇妙にゆがんだ。陽炎がたつ。

 まじないの声をあげて魔術師はふたたび霧羚羊を飛び立たせた。吹きすさぶ風が追いかけてくる。木立が呼び声を放ち、風の上を走ると、やみの中に火の粉が舞い散り<眼>がいくつもいくつも光って見えた。そしてそこにいつしか幻妖の<眼>も混じり、どこからでもこちらを見つめていた。獣の遠吠えが聞こえる。追いかけてくる獣の足音、呼吸。あるいは怒号が。水の中の出来事のように、音がくぐもって遠い。一秒が長く引き延ばされるがごとく、なにもかもがもどかしい。振り返ることも出来ない。やがて魔術師の黒い外套の内側に閉ざされた。風が圧力を増して押し寄せる。何も見えない。

 それでも逃げ続けているのならば、今もまだ炎に追いかけられているのだ。そう思うと呼吸がひりつき、息臓が引きちぎれるように痛んだ。ぞわぞわと血が肌を擽っていき、腕が痺れてきた。指先にはちりちりとした不快感がずっとあって、金貨は不思議と甘い。どっどっどっと荒々しい太鼓のように血臓は暴れ、肋骨の檻を破って今にも飛び出していきそうだった。

 どれだけの時間が経ったのかわからない。シルトゥは魔術師に髪を撫でられて、浅い呼吸を詰まらせながら顔を上げた。

「もういなくなった」

 その言葉に、金貨が落ちるのと同時にころりと氷が唇からこぼれた。空を駆けていた霧羚羊は大地を踏んでおり、むずがるように糸遊のたてがみが揺れていた。少女はようやく長い逃亡の終わりを知った。しがみついた外套を握り込んだまま魔術師を見上げると、彼は呆れたように苦笑した。

「髪が氷柱だらけだ」

 金鎖を絡めた淡い髪には霜花によって銀の冠が生まれ、細氷が星明かりにきらめいていた。手櫛を通すと、水晶のように氷がぱらぱらとこぼれ落ちる。魔術師はひとときも定まらず色を変える、極光を映したような少女の瞳を覗きこんだ。

「お前の声は、星の光のように明るい」

 意味を捉えかねてまたたいた瞳が、ちらちら燃えるざくろ石の紅から、眠れる湖底にたゆたう緑柱石の深いあおに染まった。

「ささやきすら鳴りわたる鐘のように響く。その声はなんだ? これではお前は、何処にいてもやつに気づかれてしまう。隠れられない。そのくせ、生まれつきにしては怯えがすぎる。その声がお前の魔なのか? ならば氷は?」

 声、とシルトゥは唇の中で呟いた。

「まじないの声に似ている。あれは自身の喉と、金属を通して力を発する。ゆえに、お前はなるべく喉を使わず、そして金以外の金属に触れぬように気をつけろ。かすかにでも音を出せば、お前の元へあらゆる魔が押し寄せるだろう」

 領主館で、突然歌うように鳴りわたった呼鈴の理由を知って、シルトゥはうなずいた。

「どうして」

 少女は唇でつぶやいた。魔術師はいつの間にか綻びていた金鎖の先を、彼女の喉の前で繋いだ。視線で先を促され、なるべく喉をふるわせないように、吐息だけでささやく。

「どうして<眼>は吾を追ってくるの」

「お前が呪われものだからさ」

 魔術師はなんてことないように答えた。少女はおそるおそる尋ねた。

「吾、呪われているの」

「呪いというのは魔だ。おそらくお前の持つその氷の魔を、やつは求めているのだろう」

「こんなものあげるのに」

「残念ながら、一度身に帯びた魔は死ぬまでそのままだ。取り除く方法は伝わっていない」

「ずっと凍ったまま?」

 思わず尋ねると魔術師は首を傾げた。

「いや、引っ込めることはできるようになるはずだ。お前、いつから凍っているんだ? 瞳の色が安定していないところをみると最近なんだろうが」

「森が燃えてからだと思う」

「そのとき何か飲んだか?」

「なにも」

 答えてから、夢の中でオントディルラから差し出された杯を思い出した。しかし、差し出されただけで飲んではいない。まして夢でのことだ。言うまでもないだろう。

「よくわからんな」

 霧羚羊の白いたてがみが風にたなびいて解けていく。夜の底がほのかに青くにじみはじめた。魔術師は二度、三度と喉を鳴らして散じようとする霧をつなぎ止める。

 紺碧の草原を渡る波が月光にかぎろい、幻妖は蹄を南風に沈めて、薄暮のやみを再び駆けはじめた。

 霧の背に揺られながら、魔術師が言った。

「我が邦は魔術師を徴兵している」

「ちょうへい」

「戦える者として連れて行く、という意味だ」

 少女は戸惑いながらうなずいた。

「本来なら瞳に遊色が現れた後、落ち着くのを待って邦都へ発つ。だが、お前の持つ魔は、十一邦にはなかったものだ。そしておそらくその力を<眼>は狙っている」

 狙われているだろうことは、シルトゥにも昨夜の内によく理解できていた。あの<眼>は魔術師にも誰にも視線を向けずに、彼女だけを捕らえていたから。

「氷の魔を手に入れたいのか、恐れているのか、どちらかはわからない。だが、やつが新たな力を手にすることはこちらも避けたい。だから、お前には第八邦の都まで来てもらう」

「ダイハチホウ?」

「そこからか。守りの丘を越えた先は、よほど未開の大地らしいな」

 魔術師は呆れて呟いた。

「第八邦というのは、十一邦という大きな連邦国のうちの一邦だ。十一とはいうが、実態は九邦しかない。更にこの春に戦があって減った。だが便宜上、十一邦と呼ぶ。そしてその第八邦というのは、ここでもある。雪漠と羊群れ山を有し、英知の川流るる、南は静かなる湖を邦境とする」

 新しく聞く言葉ばかりでほとんどわからなかったが、魔術師は待たなかった。

「とにかく、南へ行く」

 東の空のやみがついにほどけて黎明に綻び、やがて白みはじめた。それを映すように、少女の瞳に朝焼けと同じ橙の光と、未だ夜のなかにある紫水晶のやみが揺らめいた。

 霧羚羊が飛び越えた草原に、少女は幼き日に視た白い花を幻視した。緑の唱和の日、ひとり丘を駆け下りたあの胸のざわめきを。

 お前はいつか森を出て行く――その言葉の通りになってしまった。森が狭かったわけじゃない。望んだわけじゃない。シルトゥはあまりにも遠く離れてしまった青白き森を思った。

 帰るんだ。

 少女はぐっと唇を噛みしめた。何処へ行っても、必ずいつかあの森へ帰る。そう誓えば、少女はまだまほらの森の下枝でいられる気がした。本当は、心のどこかではわかっていた。たったひとりで、森にはなれない。青白き森が失われたのであれば、少女はもはや枝ですらなく、よりどころを失ったのだと。

 それでも郷愁に彩られた帰還の誓いは少女のはりつめた心を慰めた。

 日差しは早くも熱を帯び始めていたが、霧羚羊の足跡には霜柱が残された。日が中天へ差し掛かる頃にはその小さな冬の上に春芳しゅんぽうが芽生え、夜半には夏草に紛れて消えていった。

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