竜と歌

 羊群れ山へ入る頃には、夏も盛りを迎えようとしていた。しかし雪漠を有する山の気候は輪を描いて変わりやすく、たびたび今がいったい何の季節なのかわからなくなる吹雪に見舞われた。寒暖が刻一刻と変化し、ひとときも安定していない。体力には自信のあったシルトゥも、さすがに弱音を吐きたくなってきた。けれども、山越えとしてはこれで楽な方だという。

 夏は寒暖差が激しく疲労するもののまだ歩くことが出来る。だが秋になり冬が始まると、初夏になるまでは延々と吹雪が吹き渡り、雪漠との区別がつかなくなる。雪漠は入るのは容易だが、抜けるのは決まった道筋を通らねば出ることができない。だから狩人とて夏の間しか山に分け入らぬそうだ。とはいえいくらこれで楽な道と言われても、感じる疲労が減るわけではない。

 さらにシルトゥを重く蝕んだのが、夜鴉の作ってくれる料理だった。野営をするとき、彼は焚き火を青瑪瑙に任せて青く染め、簡易ながら食事を作ってくれる。狩人からわけてもらった干し肉と、旅の途中で少女も手伝って集めた野草。それを小さな鍋で煮込んだだけのスープだ。鍋が鉄で出来ていたため少女は触れず、木で出来た椀に入れるまでを夜鴉がやってくれる。

 しかしこれが、どういうわけかものすごく不味いのだった。夜鴉は平気な顔で食べているのが、少女には不思議で仕方なかった。あまりにも平気そうなので、少女はそのうちに、自分に原因があるのではないかと思い至った。

 熱いスープだから、食べると痛かったり苦かったり酸っぱかったり、不快な心地がするのは、きっと自身の内側で氷が溶けるせいなのだろう。きっと氷がとけるために必要なことなのだろう。

 せっかく作ってくれたものに文句をつけることも、残すことも出来ない。それに食事を取らずに旅は出来ない。自分に鍋が扱えない以上、シルトゥは自身の解釈を信じて、流し込むように食べるしかなかった。狩人のくれた甘酸っぱい野苺をひと粒、ひと粒と惜しむように口にしていたが、それとて有限。いつしか空っぽになった革袋には、ため息だけが詰め込まれていった。

 食事は憂鬱だったが、青い炎を囲むのはシルトゥの緊張がほぐれるときでもあった。彼女がわずかにでも喉をふるわせた声を出せるのは、青い炎がそばにあるときだけだった。このときだけは、シルトゥの声は吹雪を呼ばず、また幻妖を引き寄せることもない。

「あたしは竜だから、あたしの炎はとくべつ」

 炎の中で薪を囓りながら得意そうに青瑪瑙は顎を上げる。羽虫の音を持つ幻妖の声も、かれのものだけはもう気にならない。

「なにより竜のそばにあるバロに、中途半端な歌はうたえない」

「バロってなに?」

「バロは、風。風はうた。竜はバロゥドを探している。世継ぎになるために。だから声には敏感。バロにもね」

 枯れ枝を青い炎の中に差し入れると、青瑪瑙はするすると枝を引き込んでいく。手のひらほどの大きさの蜥蜴がちょこまかと動くのを、シルトゥは飽きずに眺める。

「あまり見ていると、目が焼けるぞ」

 夜鴉が枝で青瑪瑙を炎から引き上げると、かれはしゃらしゃらと金属のように喉を鳴らし、縞模様の鱗をふるわせた。枝に燃え移った炎を咀嚼しながら、青瑪瑙は夜鴉の手の甲に陣取った。尻尾を抱えて丸くなり、ぱっちりした星の金眼で彼を見上げる。

「旦那はバロゥドを見つけなくちゃ」

「俺は竜じゃないぞ」

「旦那は世継ぎ」

「馬鹿を言え」

 夜鴉は顔をしかめ、青瑪瑙をつまむとシルトゥの手の中に落とした。ぴたりと少女の手のひらにくっついた蜥蜴はしっとりとしていて、ほのかな生き物の重さに、少女はほっと息をついた。

「バロゥドってなに?」

吟人うたびとよ。うたうたうもの、風鳴らすもの。竜の吐息を、巨人の産声を、はじまりのざわめきを知るもの。その喉には、歌のかけらが刺さって抜けない。死してなおうたうもの」

「吟遊詩人とは違うのか」

 夜鴉が口を挟むと、青瑪瑙は少女の手を飛んで火の中へ戻ってしまった。

「ちがうよ。あれはバルドゥール。ひとこえ聞けばわかる」

「じゃあ、これはバロゥドか」

 夜鴉はシルトゥを指し示した。青瑪瑙は炎のゆらぎに合わせて尾を振った。

「さあね。ヤでもなくエメでもない」

「なんだそれは?」

「黒の王だよ」

 しゃらしゃらと金属の擦れ合うような音を立てて、青瑪瑙は笑った。夜鴉は肩をすくめた。青瑪瑙は話の通じる幻妖ではあるが、時折こうして謎かけのように不思議なことを言い出すときがある。そうして、何かを誤魔化すように笑う。こうなると、かれはもうなにごとも話さなくなってしまう。

 夜鴉は肩をすくめると、また炎を見つめている少女の目を片手でふさいだ。その手を両手で掴むと、彼の息は白く凍てつき、きらきらと氷霧になってきらめいた。

「つめたい?」

「ああ。吹雪に触れているのだからな」

「さむい?」

「お前は?」

 魔術師は雹のちりばめられたシルトゥの髪を梳いた。転がり落ちた氷の粒が、青い炎に照らされて滴になる。少女はその変化をじっと見つめた。彼女にとっては熱くも温かくもないのに、氷が氷でなくなるのが、不思議だった。何かが起きていることはわかるのに、なぜなのかがわからない。

「わからない」シルトゥは正直に答えた。そして夜鴉の白い吐息に触れた。「指がちりちりする」

 同じように、指先に自ら息を吹きかけても、白くならないし、じんわりと痺れるような感覚もない。夜鴉の黒衣の袖口が六花を咲かせて縁飾りのように白く染まっていく。じっとそれを見ていると、赤く凍えている彼の手の甲には、無数の白い傷跡があることに気がついた。霜を崩すように袖を握り、そっと捲ってみるとその傷跡は腕にもびっしりと続いている。引き連れたような赤黒いものもあれば、稲妻のように白い傷もある。

「痛い?」

「いいや」

 短く夜鴉は答えると、さっさと袖を下ろしてしまった。少女の小さな頭に手を乗せて、親指でそっと額をなぞる。

「さっさと眠ってしまえ、寒い。お前も、眠ると温かくなる」

 うん、とシルトゥは夜鴉の横で丸くなった。狩人から譲り受けた毛皮を掛けられ、遠ざかった青い火の内側で、自らの手首に耳を付ける。とんとんと血の巡る音がする。こうしなければ、自分が本当に今も生きているのか、わからなくなってしまう。

 温度を感じなくなったのは、地下牢の中だった。匂いを感じなくなったのは、いつだったか。味は、強烈な夜鴉の食事がまだ教えてくれる。音も聞こえる、目も見える。でも最近、また少し触覚があやしくなってきたように思う。凍りついてしまうのかもしれない。少女は片手で金鎖をたどり、金貨を握りしめた。耳を澄ます。

 しゃらしゃらと遠く、青瑪瑙の笑う声が聞こえる。語尾が幾重にもぶれながら、かれが何かを言っている。

「石の女王が覗き込む、王が望むは竜の心臓。その身隠すは十五の子……」

 自身の内側で流れる血の音がする。

「ヤでもなくエメでもなく、信じよ、きたるを、黒の王」

 とん、とん、とん、それは太鼓のようにも聞こえ、その音色に耳を澄ますうちに、シルトゥは深い夜に吸い込まれていった。

「ああ、王を失う、都はいずこに――」



 気高い針のような木々の森があった。しめやかに降り続く灰に彩られ、風に霧のように舞い上がる青焔がそこかしこに揺れている。ちりちりと凍てついて燃えながら灰のように崩れていく塔の群れ。もはや意味を成さない砦の防壁が、またゆっくりと崩れ去る。灰が散り、雪が舞い、星は遠く、月は眠っている。夜の底だけがほのかに輝いている。

 外壁の前には、顔のない男たちが刃のない剣を携えて並んでいた。鈍色の外套を羽織る彼らの胸には白骨のあばらが開き、その内側に燃える火がある。

「剣を掲げよ! 戦鼓を鳴らせ!」

 どおん、と低く地面を揺るがす太鼓が轟く。

 外壁の上の歩廊では、寄せ集めて接いだ鎧の傷ついた兵士たちが、それでも思い思いの武器を掲げた。剣と槍とが重なり合い、がらがらと銀琴をかき鳴らすように響き渡った。

「我らが王の進軍に! 戦歌いくさうたなくともとよもせ、吟人うたびとなくとも鳴り渡れ!」

 雷鳴のごとき男の声に、大音声だいおんじょうが答える。――響け、鳴れ、我らが王のために!

 傍らに黒衣の男を従えて、ほっそりとした人物が歩廊を進み出た。

 氷をちりばめた白銀の髪はゆるやかな魚の尾に編まれ、真珠と黒玉と宝貝の数珠で飾られていた。血色の肩掛けと、青い外衣を羽織り、幾重にも金鎖を絡めた手足、肌は雪そのもののように白く、その瞳は黄昏に瞬く星のように沈んでいる。

 少年とも少女とも取れる、うつくしい若者だった。かれが片手を上げると、金鎖がしゃらしゃらとせせらぐように歌う。

 黒衣の男は眦を決して大呼した。

「名を知るものよ、鐘を鳴らせ! 響き渡らせよふるき神の名を! かの神を殺す名を! 我が王がうたわれる!」

 雨のように降り注ぐ声のなか、若者はひそやかに微笑んだ。そして赤い唇を引き結び、祈るように呟く。

「お前は信じて待っていろ」

「我が君」

 黒衣の男の瞳が揺れる。気安い仕草でその胸を叩いた若者は、最後にくるりと振り返って男を見上げた。笑う。

「わたしは必ず、やつの心臓を奪ってくる。だからお前は、生きて歌え」

 突風がかれの金の髪飾りをはじき飛ばし、炎のように白銀の髪が広がった。あげた片手を、かれは迫り来る死者の軍勢へ向けて引き下ろす。

 どおん、どおんと大地を揺らしながら戦鼓が鳴る。矢狭間から射られた矢が鈍色の死者を撃ち抜く。歪んだ兜ごと貫いたにも関わらず、足下をわずかに揺らしただけで、顔のない男はその足を止めない。

 投石。砕かれた肩から腕が弾け飛ぶ。均衡を崩したが、その歩みは止まらない。

 煮油が皮を溶かしても、槍が貫いても、地面に縫い付けられたまま、それでも前へ進もうと死者はもがく。

 その死を奪われたいびつな軍勢が、見渡す限り。灰に染まった大地の、地平線まで。蠢きながらやってくる。それでも、戦鼓を力強く鳴らしながら外門が開いた。寄せ集めの兵士が大声を上げながら飛び出していく。

「我らが王の剣に!」

「我らが王の槍に!」

 門はすぐさま落とし格子によって閉ざされ、死出の旅へ踏み出した兵士たちはただ前だけを見つめて道を切り開いていく。その中央に、青い外衣の若者を抱えながら、決死の行軍は突き進む。

 死者に守られた炎を目指して。炎が象る、旧き神を目指して。

 炎が笑う。高らかに笑う。ひび割れて、幾重にも鳴り渡り、繰り返す声が火の粉となって散っていく。炎は大きく息を吸った。

 ふうっとわずかな吐息で、一帯が火の海へと沈んでいった。

 すべてが、青く染まっていった。



 シルトゥは叫びながら目を覚ました。悲鳴は喉の奥で氷の粒になり、しゃくりあげる唇からころころとこぼれ落ちた。眠りの内に目蓋は凍りつき、耳殻には薄氷うすらひが張り垂氷たるひが連なっていた。目が開かず、耳もよく聞こえず、少女は所在を失って怯えた。わけもわからず叫びだそうとすると、大きな手が少女の小さな頭を両手で包んだ。

 それはシルトゥの額の真ん中で何事かをささやいた。言葉に声はなく、しかし息は霧のように白く立ち上った。すると大きな親指の添えられた目蓋からどっと水があふれ、手の平に包みこまれた耳は、雷の生まれる曇天のようにくぐもった音に満たされ、溶け出した氷は静かな雨となって少女の肩に落ちた。

 ちりちりと涼やかな金鎖の流れる音がようやく耳に届いて、シルトゥは目を開けた。夜空よりも暗い髪と外套に、星のようにちりばめられた琥珀と真珠。青ざめた顔色の夜鴉を見上げて、シルトゥは唇を開こうとした。それを制して彼は、黙っていろ、と唇に指を当てる仕草をする。

 青瑪瑙の火はいつのまにか消えていた。

 にわかに自身の息の音すら恐ろしくなって、少女は金貨を握りしめ、喉を押さえてうずくまった。この声がまた、火を呼んでしまう。そして火はすべてを燃やしてしまう。いつもは耳を澄ます自身の心拍も、今は夢の中の戦鼓に重なるように思われて煩わしかった。ふるえるばかりの少女の背を、夜鴉はゆっくりを撫でた。

「まだ朝までは間がある。眠れ」

 シルトゥはただただ首を振った。とても眠れる気分ではなかった。

「おそろしい夢でも見たか」

 うなずくと、そうか、と返った。

「魔を宿すと、体は拒否しようとする。その反応で、悪夢を見たり、魔の力がこぼれたりする。今のお前のように。それは、体に魔が馴染むまで続く」

「馴染まなかったら?」

 少女は声を殺すように息だけで囁いた。かすかな声も、やみの内にはたしかに届いた。

「死ぬ」

 夜鴉の声は淡々としていた。彼は見上げてきた少女の変色する瞳をそっと伏せさせた。

「さあ、寝ろ。寝て、体を休めろ。明日も魔に抗って目を覚ますためにもな」

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