2章 夜鴉
鳥と狩人
羊群れ山は文字通り、羊が群れているように白い雪冠を戴く山々が連なる。その羊の狭間をのたうつ蛇の跡と呼ばれる渓谷が横たわっている。この山々には古くから幻妖たちが多く住んでいて、それゆえに山越えは容易ではない。
魔術師は朝に夕に霧を集めて
霧妖は金属を錆びさせ、作物の生長を阻害するため嫌われているが、性質は元となる獣に似るのか草食獣のそれと同じで、人を襲うことは滅多にない。青白き森でも霧鹿がよく
霧妖は何もおそろしくない。そうわかっているはずなのに、シルトゥは霧羊や霧山羊を見ると、体が固まって動かなくなった。魔術師に会った夜に幻妖に追われた記憶が、少女をすっかり臆病にしてしまっていた。
ともすればすぐ氷を吐き吹雪を呼んでしまうこともまた、少女の心を蝕んだ。うっかり何かに驚いて声を上げるだけで、喉に絡めた金鎖はひとつふたつと弾けて解け、夏のはしりに周囲が真っ白に染まるほどの冷気に包まれた。魔術師は「涼めていい」と笑っていたが、彼の手が鎖を留めるたび紫に変わるほど冷えるのも申し訳なかった。少しずつ短くなっていく鎖に、足りない、といった彼の言葉が思い返される。このまま金鎖がすべて弾けてしまったら、シルトゥは為す術もなく己の内より吐き出される氷に飲まれ、そして<眼>に囚われてしまうに違いない。その想像は少女に暗雲をもたらし、降らぬ雨を蓄えたまま、ずっしりと重たくのしかかっていた。
そんな折、開けた道を迂回して木立へ入ったときのことだった。
突然に空が陰ったかと思うと、大きな
「カラス、カーラス」
はじめは変な鳴き声だ、と思った少女も、繰り返されるうちにそれが不明瞭ながら言葉であることに気づいた。鳥が喋っている! 思わず魔術師の腕へしがみついた。彼は捕まれた腕を見下ろしたあと、鷲を見上げて毒づいた。
「うるさいぞ」
「オーソイ! オソイ!」
「文句ばっかり達者になりやがって」
魔術師はうんざりとした声で呟く。
鷲はオソイオソイとさえずりながら、器用に両脚を揃えて枝を下へと渡りはじめた。まっすぐに伸びた冬檜の枝を蹴って、光を求めていびつに枝を伸ばした
そうして触れられそうなほど近くの枝までやってきた鷲は、少女が思うよりもはるかに大きかった。そのかぎ爪は少女の頭を捕らえることも易々と出来るだろう。翼を広げればその全長は彼女の身長を上回る。
魔術師は怯えて強く腕を掴む少女の頭に手を当てて、額をぐいと押しやった。警戒もなく鳥へ近づくと、懐から飾り紐を出して鷲の首へ結びつける。鷲はむずがるように数度首を振った。
「……んん、ようやく繋がったか」
そうして次に鳥の嘴から発せられた声は、幻妖の音色を伴っていた。なめらかに低く伸びるが、語尾がうわんと羽音のように幾重にもぶれる。シルトゥは一度ははがされた手を再び伸ばし、今度は押しやられないようにと魔術師の背中にしがみついた。外套をかたく握りしめると、彼は邪魔くさそうに振り向いたが、無理矢理引きはがされることはなかった。
「
鷲は感情ゆたかに、呆れた様子で言った。魔術師はふんと鼻を鳴らした。
「その領主が呪われものの子どもを地下に閉じ込めていた。どうやら十一邦外の難民らしい。見たこともない<氷>の魔を扱う」
「<氷>」復唱した鷲が首を傾げる。「たしかに、聞いたことがないな?」
「故郷は羊越の西、青白き森にあったが、火の<眼>に襲われたそうだ。森は全焼。これ自身も今なお火に追われている。邦都へ連れ帰るので<
「連れてくるのか?」
「捨てるのか?」鷲の問いに問いで返して魔術師は皮肉げに笑った。「新しい魔術師だぞ」
「ふむ。場所はどこだ」
「羊越から南へ少し下った。山にはまだ入っていない。
「ならば<路>を開けるのは
「遠すぎる。もう少し北にないのか? 水なら巨掌の海にもあるだろう」
「無茶を言うな、あれは凍りつく塩湖だぞ。どう考えても
鷲は大きくむずかるように羽ばたいた。いくらか毛繕いしたあと、嘴を開く。
「……やはり、山に<路>を通すのは難しいそうだ。鼠穴湖でもかなりぎりぎりらしい」
魔術師はいらいらと項を掻いた。外套が引っ張られて、彼の顔を見上げる。領主館で綺麗に剃り落としたはずの髭は、旅路によってふたたび頬と顎を覆いつつあった。まるで噂に聞いた山賊のようだ。じろりと睨みつけられるとその相貌の凶悪さは増したが、黄昏の瞳の貴さは薄れない。シルトゥがじっと見ていると、魔術師は舌打ちと共に目をそらした。
「鼠穴湖ではもう少し小さい鳥にしろ。邪魔だ」
「いちいち文句をつけるんじゃない。……切れるぞ」
何重にも聞こえる語尾が途絶えるのと、飾り紐が切れるのは同時だった。まるで枷が解き放たれたように鷲が枝を蹴って飛び上がる。羽ばたきが針葉を巻きあげ、
少女は呆然とそれを見上げ、手を払われて魔術師を見上げた。喉の前に金環が繋いであることを指先で確かめ、息だけでささやく。
「いった?」
「ああ。あれは<糸>繋ぎの無害な
糸がなんのことかシルトゥにはわからなかったが、おそらくあの鷲から幻妖の声がしたことが、魔術の一種なのだろう。当たり前のように言い切られてしまっては返す言葉もなく、さりとて黙ってしまうには不安が過ぎる。
「……でも、喋った。カラスって言った。オソイって」
「あれは俺を呼んでたんだ」
「カラス?」
「そう」
「名前は名乗ったらいけないって」
「名前じゃない。通称だ。髪が黒いから
夜鴉は顎に手を当てて唸った。まばらに生え伸びた髭がざりざりと音を立てた。
「しかし、鼠穴湖か」
「遠い?」
「ああ、秋になりそうなほど」
それがどれほどの遠さなのか、シルトゥには想像もつかなかった。夜鴉はしばらく顎をさすっていたが、結局あきらめたようにため息をついた。
「山越えの準備がいるな」
進路を南に取った旅路は冬檜の森を抜け、わずかに東へとずれた。朝日を追う足が夕日に追われる頃、風向きが変わり、突然に氷交じりの雨に見舞われた。
シルトゥは己がまた吹雪を呼んでしまったのではと怯えたが、そうではなく、これは空白の呼ぶ雨なのだと夜鴉は言った。
「雪漠が近いんだ」
せつばく、と口の中で呟く。
「
知らない、と首を振ると夜鴉は肩をすくめた。
「空白の大地のことだ。第八邦では雪原が広がっているから、
それはまるで世界の切れ目のように、唐突にすべてが途絶える地だという。目に見えぬ境界があるかのように山は切り取られ、川は曲がり、草一本その向こうには生えぬ。
「第五邦にある
境界から決してあふれぬ不思議の水、不思議の雪。それが空漠と呼ばれる土地だ。他の邦と違い、第八邦の空漠たる雪漠はひとつひとつは小さく、そして各所に点在している。更に雪漠の近くではその雪が影響するのか、気候や植生が変化するという特徴があった。特に植生の変化した森は開墾が困難ゆえ、第八邦は豊かな
これから行く道は、
氷雨は一刻もしない内にやみ、ふたたび夕日が湿った風を連れて戻ってきた。しかしシルトゥを濡らした凍った水は、のしかかる暗雲に更なる雲を飲み込ませた。
旅路が羊群れ山の影に入るように入った頃、夜鴉は木々に隠れるようにして立つ小さな小屋を訪れた。それは狩人の夏小屋だった。幻妖が多く、獣の少ない山での猟は熟練の狩人をしても容易ではない。特に羊群れ山は雪漠を多く有し、季節が歪んでいる。彼らは細かく狩り場を変更するために、まるで遊牧民のように転々と小屋を移っていく。そのための狩り小屋がいくつも麓にはあるのだった。
小屋の中には、幸いにして狩人が滞在していた。彼はここでの狩りをすでに終え、狩り場を移る頃合いだった。狩人は魔術師の姿には驚かなかったが、その背後にいたシルトゥには驚いて目を見開いた。
「それは<氷>を宿しているのか」
ぼそぼそとした狩人特有の口調で問われると、夜鴉は興味深そうに問い返した。
「これがなにか知っているのか」
「いや……。むかし、爺さんから聞いたことがあるのだ。<氷>を宿す術を探している男が南より訪れたことがあると」
その男は魔術師のように黒い衣を着ていたが、その衣はずたぼろで、物乞いのような風体だったそうだ。狩人の祖父は意味がわからないなりに、雪漠の地を教え、そして男は二度と戻ってはこなかった。
「雪漠を飲み込む術があるのなら是非試してみたいものだと爺さんはよく言っていたが」
本当にあるのだな、と感慨したように眺められて、シルトゥは胸元の金貨の飾りを決まり悪く弄った。
「雪漠を飲み込む、か。言われてみれば、雪漠が内にあるようなものだな、これは」
少女は空白の大地と呼ばれたものが、自身の内にある様を思い浮かべて、ぎゅっと金貨を握り込んだ。身のうちにあった青白き森が、燃え上がり、灰になって雪になる。吹きすさぶ風、覆い尽くす夜。それはすでに、シルトゥの内側にあった。あの森が燃えた日に生まれた空白から、うつくしい白い手が伸びて少女を捜している。この唇から漏れるのは、雪原を吹く風か、それとも錆びついて軋んだ指先の招きか。
夜鴉は少女の握り込んだ手から金貨を取り上げると、目の前に差し出して噛ませた。弾けてこそいなかったが歪んだ金鎖を見て、シルトゥは意識して浅くなった呼吸を深くする。
小屋はかすかに霜がおりていたが、狩人は深くを追求しなかった。代わりに怯えさせてしまったことを詫びるように、少女に赤く熟れた野苺をくれた。
そして夜鴉との交渉の中でシルトゥがまほらの森であることがわかると、狩人の態度は更に軟化した。第八邦の民でありながら森に親しい彼らは、青白き森が燃えたことに心を痛めており、そこに住まう民が失われたことを哀しんでいた。少女が生き残っていることに彼は言葉少なに喜びを示し、山越えの装備を求めた夜鴉へ、小屋も装備も自由に使えと差し出してくれた。彼は去り際に山を仰いで呟いた。
「今年は山が目覚めぬ。おそらくは、これからも」
ぼそぼそと唇の内側に閉じ込めるような言葉は、それでもどうしてかはっきりと少女の耳に届き、いつまでも頭蓋のうちに響いていた。
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