英知の川

 振り向いたものは、夜鴉ではなかった。鈍色の外套を羽織る、肉のひとかけらもない髑髏。虚ろな眼窩には茫洋とやみが広がっている。捕まれた左手に骨だけの指がぎしぎしと食い込む。瞬息の内に指の先までざわついた怯えの血が行きわたり、はだが燃えるようにひきつった。

「ああ――やつが目覚める、世継ぎのすべての力をかき集めて、世界を裏返そうとしている。吟人うたびとは何をしている、忘れてしまったのか、なぜやつを止めない?」

 それは奇妙な声だった。幻妖の、虫の羽音のようなゆらぎとはまた違う。大きな声ではない。むしろ耳を澄まさねば通り過ぎてしまうほどに、かそけき小さな声だ。しかしその響きはまるで鐘のようだった。高らかなる警鐘の、あるいはしめやかなる弔鐘の、耳を囚われずにはおれない研ぎ澄まされた響きを持っていた。シルトゥは耳から鉛を流し込まれたように頭が痺れるのを感じた。指先も動かせず、またたきすら自由にならぬまま、ただ目の前の髑髏を見た。

「なぜ応えぬ、フラエシルトゥ、白き<とこしなえの冬>よ!」

 叩きつけられるような声に、思わずシルトゥが応えかけたその瞬間、落雷のごとき轟音が響き渡った。

 体が後ろへ引かれ、思わず抗おうとすると舌打ちが聞こえる。はっと振り仰ぐと不機嫌そうな夜鴉だった。彼は荷物のように少女を抱え上げた。シルトゥが手足を丸めると、走るぞ、と囁きが聞こえて、必死にうなずく。

「取り戻すのだ、暗愚によって別たれた音と詞を世界に! 神は未だ生まれず、女王は終焉の時を伺っている……」

 しがみついて金貨をくわえ、目をぎゅっと閉じた。それでも声は追いかけてくる。シルトゥの頭蓋のうちを鳴り渡る鐘のように暴れ回る。目蓋の裏のやみが、夢でみた雪原の砦に彩られる。そうだ、あの黒衣の男の声に似ている。鐘のような声。

「なぜわからぬ。なぜ応えぬ!」

 どおん、どおんと太鼓の鳴る音が聞こえる。戦が始まる。いや、違う。シルトゥは必死に閉ざそうとする目を開けた。ここは雪漠の洞窟だ。戦場ではない。氷柱の間を走り抜ける。もう綺麗だと思う余裕もなかった。

 砕けた氷が降り注ぐ。風の唸りが渦巻く。目も開かぬほどの吹雪。

「燃えた灰に、光の後のやみに、散った花に、死に、そして過去に覚えよ、備えるのだ……黒の王がやってくるぞ!」

 どれだけ遠ざかっても耳元で聞こえるような囁き、呼び声。

 雷鳴が響き渡り、雨音が聞こえる。いや、鳥の羽ばたきかもしれない。無数の白い鳥が一斉に羽ばたいていくような。それともこれは、森を吹き渡る風に踊るような葉擦れの音か――違う、これは血臓ちのくらの音だ。そう気づいたとき、一切の音が消えた。

 耳が痛むほどの静寂。

 凍りつく。凍りついてしまう。

 シルトゥは外套にしがみついた自身の指先が、白く染まっていくのを見た。霜がおりて染まった白い指先が、透きとおってはだの色を失っていく。それはおぞましくもうつくしい光景だった。この指先はのものではなくなってしまうのか。凍てついた爪先が外套を握り込む。動く。動くことが、こんなにも恐ろしい。

 触れた外套が氷の花を広げていくことに怯えて、シルトゥは指を開いた。

「落ちるぞ、ちゃんと捕まっていろ!」

 叱責の声が耳朶を打ち、遠ざかっていた音が戻ってくる。ざわついた鼓動も、落ちてくる氷の反響する轟音も。耳元で唸りを上げる風の声も、追いすがる鐘のような声も。そのすべてが混ざり合って、シルトゥはわけもなく叫びだしたくなった。それが恐怖のせいか、悲しみのせいか、安堵のせいかはわからない。わからぬまま少女は衝動を飲み込んで、金貨を噛みしめ、ぎゅっと目を閉じて、再び外套を握りしめた。

 音と風だけが行き過ぎる中、突然に重たい布がまとわりつくような奇妙な感覚が過ぎった。

 一瞬の後、次に感じたのは波が打ちつけるように圧倒的な緑と水の匂い。

 目を開ける。

 真昼の光。目の前を、とうとうと川が流れている。谷へ降りた。雪漠を越えたのだった。



 洞窟で聞いた声を、夜鴉は聞いていなかった。あれはフラエシルトゥと少女を呼んだから、そんな気はしていた。旅人ではない。髑髏だった。夢の中で見たものと同じ。あの短い間に歩いたまま眠っていたのだろうか。

 光にかざした両手も、きちんと膚の色をしていて、凍りついていない。

 シルトゥは今し方見たものがなんなのか、どうにか噛み砕こうとしたが口の中にすら入らず、結局両腕に抱えたままふるえることしかできなかった。

 雪漠の近さゆえの虹が浮かぶ川を見つめる。

「川、凍らせて渡れないか」

 少女があまりにも凍りついたまま動かなかったからだろうか。夜鴉はそう言って、氷だらけになった髪をかき混ぜた。

「どうやって?」

 息だけで尋ねると、彼は首を横に振って苦笑した。

 ぐっと伸びをすると、夜鴉は霧妖を呼んだときのようにまじないの声を紡いだ。詞のない歌が、吹き抜ける風のように谷間に響き渡る。反響が混ざり、重なり合って揺らぐ。幻妖の声がぶれるように。

 その響きを追いかけるように切り立った左右の崖を眺めていると、ふいに目の前を青い光が過ぎって驚いた。蜻蛉だ。はね刃金はがねのようにきらめかせ、水面をすべるように飛んでいく。その翅に切り取られた風景に、シルトゥは今更ながら見知らぬ土地にいることを深く思い知らされた。そしてこれから、もっと遠くに行くのだ。この川の下る先へ。そのはてしなさに、目の回るような思いがした。

 やがて音の響きが消えていき、しばらく経った頃、上流から一隻の舟が流れてきた。白い衣をきた船頭がおり、ふたりのいる岸辺へと舟を寄せる。

 舟は木をくりぬいて作られた古いもので、外側は苔むして緑に染まっていたが、内側にはまったく濡れたあとがなかった。かいを持つ船頭は頭から足先までが白い衣に覆われ、その裾は陽炎のごとく揺れて滲んでいる。ともすれば風に解けて消えていきそうなその存在は、霧妖むようとよく似ていた。

 夜鴉がさっさと舟に乗り込み、シルトゥもおそるおそる足を踏み入れる。船頭はおもむろに櫂を動かし、岸辺を突き放した。船底で水が泡立ち、魚の吐息のように静かに流れていく。樹冠を彩る地衣類に似た水草が緑のさまざまな濃淡で織り上げた裳裾を、尾びれさながらに揺らめかせ、舟は英知の川の流れに乗った。

 真昼の光が川霧に白くかぎろい、舟はゆったりと水音を立てて進んでいく。

 やがて崖を降りてきた白鳶しろとんびが、音もなく舟縁に止まった。斑髭鷲まだらひげわしに比べれば小さかったが、それでもずいぶん大きな鳥だった。夜鴉は鳥を眺めてため息をつき、さっと飾り紐を結んだ。

「でかい」

「文句ばかり言うな。山を渡るのに小さな鳥では食われるだろうが」

 斑鳶はせっせと羽を繕いながら幻妖の声で言った。

「無事に雪晶窟せつしょうくつも越えたようだな。まずはひとつ安心した。こちらの準備は整っている」

「もう開けるのか?」

「開けぬこともないが、もう少し先だ。あまり遠いと途中で<みち>が切れる。鼠穴湖でもぎりぎりなのだぞ。鈴虫に感謝するがよい」

「帰ったら飯をおごると伝えてくれ」

 喋る鳥は、二度目ということもあり恐ろしくはなかった。しかしあの洞窟で聞いた声が今も頭蓋のうちを響き渡り、それが少女の体の隅々までを鐘のようにふるわせていた。シルトゥはふるえを堪えるように膝を抱え、洞窟を振り返った。

 そのとき、崖の上で何かが光ったような気がした。光りながら、何かが降ってくる。それが水面へ落ち、上流から流れてくる。シルトゥはぞっとして立ち上がった。両腕に抱えたはちきれんばかりの恐怖が決壊する。舟が揺れる。

「おい!」

 思わず舟縁を掴んだ夜鴉の胸へ、少女は飛び込んだ。

「火だ」がちがちと歯が鳴った。

「――火が降ってくる!」

 夜鴉は息を飲んで上流を振り返った。

 火はあたかも蛇のように、水面を這って向かってくるところだった。水へ落ちた炎は消えることなく、降る度に蛇は大きく、のたうつように伸び上がっていく。まるで翼を開き、頭をもたげるかのように。舟尾の水草が燃え上がる。

 炎は灼熱の唇を開いて、感嘆に金色の吐息をこぼした。そして炎心に隠された<眼>をひらいた。瞳は暗く、渇望に満ちていた。揺らめく光の睫は煤をこぼしながら、見つけた、そう囁くようにうっとりとまたたきした。

「おい、<路>を開け!」

「まだはやい!」

 夜鴉が鳥へ怒鳴ると、かれは反駁した。それを押さえつけるように更に声を荒げる。

「灰になるよりマシだろうが! いいから開け!」

「くそ、どうなってもしらんぞ!」

 斑の鳥が羽ばたき、舟縁を蹴る。飛び立つ。舟が傾く。鳥が水中へ落ちていく、と思った瞬間、シルトゥは空に浮かんでいた。

 虹色に歪む視界。燃え落ちていく舟。まったく怯えずに舟を漕ぐ船頭。

 落ちる。放り出される感覚。

 空。逃げていく鳥。あの鳥は、燃えずに逃げ出しただろうか――

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