幽けき声は冬のいにしえ

旅路編

序  

 丘へ行こうと思ったのは、一面にフラエシルトゥが咲くと教わったからだった。少女の名と同じその花は、青白き森ではほとんど見かけない。それを悔しがって泣くいちばん低い下枝しずえを、あれは爪先の緑だから、と上枝ほずえたちは慰めたものだった。けれどひねくれ者の、一度は折れて外へ出た上枝のアルクントイスが、爪先ほどの小さなものか、あれは丘一面に咲くのだぞと少女に囁いたのだ。

 それで少女の脳裏いっぱいに、いつかの春に見かけた稀かな白い花が咲き渡ってしまった。雪の名残をつぼみに閉じ込めたあえかな甘い香りが胸に充ち満ちて、春を待ち日を数えるまに、少女の足はいてもたってもいられずに雲を踏むように踊り出すようになった。

 丘へ抜け出す日を緑の唱和のときに決めたのは、必ずいないことに気づいてもらえる日だからだ。少女は森を抜けたいわけではなかった。ひねくれ者のアルクントイスは少女へいつも、お前はいつか森へ出て行く、お前には森は小さすぎると言う。その言葉は少女の外への興味を誘うと同時に、思い通りになってたまるかという反抗心を刺激した。だから一面のフラエシルトゥを、の花を見たら森へ帰るのだと、心の中でまほらの森に誓った。

 そして少女は誓いと思惑通りに、唱和の途中でいないことに気づいた皆に探される中、夕日が樹冠に溶け去って、木々の影が夜へと化ける頃に森へと帰ってきた。上枝から代わる代わる叱られ、下枝から上枝へ変わったばかりのファルテアモクには雷を落とされ、下枝からもわいわいと文句を言われ、下枝に満たぬ若葉のセィラキントスは火がついたように泣いて手が付けられなくなった。とにかく耳が痺れるまで皆に怒られた。

 夜もすっかり更けた頃、少女はもっとも高い上枝に誘われるまま、炉端に腰を下ろした。空には玻璃をちりばめた星の橋が架かり、遠く獣と鳥の声が聞こえていた。

 少女の小さな頭蓋の内側には、今日見たものが次々と浮かび、聞いた話が繰り返し響き渡っていた。これまでに蓄えた少女の経験の泉に、突然に滝が顕れてどうどうと新しい水が満ちていく。その奔流に溺れながら、少女はじっと目の前の炎を見つめていた。

 フラエシルトゥは本当に一面に咲いていた。ひねくれものだが、彼はほら吹きではなかった。そして彼の、お前に森は小さすぎる、という言葉もまた偽りではなかった。

 少女は丘を下って、麓の村近くまで行った。そしてその村の子どもの群れと出会って、日暮れ近くまで遊んだ。子どもたちは最初、少女を仲間には入れてくれなかった。丘の上からくる幻妖げんようが人に化けたのだといって、石を持って追い払おうとした。しかし少女は子どもの投げた石に当たるほど愚鈍ではなかった。下枝の中でも群を抜いてすばしっこくやんちゃな少女が投げられた石を次々と躱すうちに、子どもたちはその動きに目を奪われて、すっかり警戒心よりも好奇心を芽生えさせてしまった。

 お互いに興味を持った子どもたちが打ち解けるのは、森の氷が溶けるよりも早かった。時はあっという間に過ぎていった。日が陰ってくると、村の子らは親に叱られる、と家へ帰っていった。

 親子、という言葉を少女が初めて知ったのはそのときだった。村の子には一対の親がいて、それを家族と呼ぶらしい。顔の似ているのは兄弟姉妹、血のつながりがあるのを親戚、一族などと言ったりする。森ではずっと、子どもは下枝だった。大人は上枝、どこから生まれてもみな、まほらの枝だ。ゆえに青白き森に住むものを、まほらの森と呼ぶ。

 それから、村はトートキオンカタというものに守られているらしいことも知った。村が幻妖に襲われると、トートキオンカタが助けに来てくれるそうだ。トートキオンカタは南の羊群れ山の向こう、のたうつ蛇の谷を越えた英知の川の先、いくつもの雪原を挟んだ野槌のづちの丘、丘の下の都、万雷の水の塔に住まうという。そしてトートキオンカタとは、その塔より北側一帯の、ホウを納める主なのだと。

 羊群れ山すら知らなかった少女は、一面のフラエシルトゥ咲く丘の先、春未きの筋雲が青空を縞に染め上げるその下の、雪冠を被る深青のなみ、あれを山と呼ぶのだ初めてと知った。あの稜線までいったいどれほどに遠いだろう。その先を想像することは、少女の小さな体ではあまりにも途方もないことだった。

 たった一日のうちに、青白き森の緑だけを映していた少女の碧い瞳は、万朶ばんだとも草露とも異なる深い色を帯びるようになった。フラエシルトゥの白い花々が星のように燦めき、夜風にはぜる炎の影を映して揺らめく。

 もっとも高い上枝のオントディルラは、長い時の風にすっかり漂白された髭を揺らしながら、静かに弓を奏でていた。狩りに使う弓と何も変わらぬのに、老爺の手にかかるとそれはゆたかな旋律を歌う一弦の楽器となる。まるで月を奏でるように夜風に鳴らしながら、オント老は少女に言った。

「シルトゥ。お前の中にシはあるか」

 シと少女は口の中で呟いた。それはさまざまな意味を持つ言葉だった。まほらに伝わるふるい言葉は、短ければ短いほど多くの意味を持つ。ことば、枯れ落ちること、強い思い、あるいはたたかうもの、おしえるもの。多くの意味が少女の、フラエシルトゥの中で巡った。老爺は彼女の返事を待たなかった。

「森の外にシはない。そして同時に、シにあふれている」

 意味が理解できずに、老いた顔を見上げた。その顔がふいに滲む。ぱちりと一際大きく、炎のはぜる音がした。少女は突然に目の前の炎がおそろしくなった。やみを退ける火は温かく、いつもそれを見るのが好きだったはずだ。なのにどうしてこんなにも逃げたくなるのだろう。己の膝を抱え込むように引き寄せ、ふいに少女は理解した。

 ああ、これは夢だ。の膝は、今はこんなに小さくはない。

 シルトゥは安堵とも哀しみともつかぬ息を吐いた。緑の唱和を逃げ出して怒られたのは、少女が八つのときだ。今から五年も前のこと。少女の足は自覚とともにしなやかに伸び、座ったままの背も大きくなったが、夢は覚めなかった。変わらずオントディルラの顔は滲んでいる。彼の顔を、今年十三になった少女はもう思い出せないのだった。

 けれど彼の奏でる弓月の音色はよく覚えている。一弦で奏でる音楽に憧れて、少女は弓をもらってからこっそり奏でてみたものだった。似ても似つかぬ音しか出なかったのだが。

「オント。シを教えて」

 フラエシルトゥは温かな郷愁を胸に、炎の向こうへ囁いた。記憶の中で、自身があのとき何を聞いたのか思い出せない。きっと頭の中は一面の花と丘の向こうのことでいっぱいで、何を聞いても耳を滑っていってしまったのだろう。ほど近いやみに、笑い声が返る。

「お前はもう、シを知っている」

「シってなに?」

「吾らが継いできたものよ。王の庇護を捨てても、吾らには守るべきものがあった。血よりも尊ぶものがあった。それはお前にも受け継がれた」

 それはなに、問おうとして、シルトゥは口をつぐんだ。沈黙はより深い問いかけとなって、老爺の唇を再び開かせた。

「だからお前は、森の外へいきなさい」

 少女の脳裏に一面の白い花が浮かび、青い稜線がきらめいた。外へ。

「もしこの森におそろしいことが起きたなら、お前は助けを求めなさい。そして鐘を鳴らしなさい。尊き御方の耳に届くまで、銀の血の御方が目覚めるまで」

「とおときおんかた、しろがねのちのおんかた」

 シルトゥは老爺の言葉を繰り返したが、意味はわからなかった。ただ、助けてくれるものなのだと理解した。

「春の目覚めを誘うように、冬の眠りを促すように。名乗り、願えば、かの方は吾らが森をいとおしんでくださる。かならず助けてくれるから――だからお前は逃げるのだよ」

 オントディルラは、少女へ向かって手を差し伸べた。その手には杯があった。ちりちりと閉じ込められた鈴が不自由に鳴くように、杯からかすかな音がする。薄暮のやみの色をした水面に炎と夜空が揺らめいていた。促されて手に取ると、杯は指先が痛みを覚えるほど冷たかった。杯の縁が軋むように鳴きながら六花の冠を咲かせる。凍りついているのだ。少女は手の先から広がっていく氷の棘を、為す術もなく受け入れた。背が震え、歯ががちがちと鳴った。それが恐怖からなのか、寒さからなのかわからなかった。

「すばしっこいお前ならば、必ず何者からも逃れられるだろう。だからお前は逃げて、命を繋ぐのだよ。けっして戦おうと思ってはいけない」

 はたしてそれは記憶と同じ言葉なのか、それとも夢が見せた都合のいい言葉なのか。

 杯の中には、老爺の楽弓に似た細い月が浮かんでいる。その月が揺らぎ、星の橋をかすませて月暈を滲ませたかと思えば、ふるえながら目蓋を開いた。

 それは火の<眼>だった。

 炎心の瞳は暗く、揺らめく光の睫を赤く燃えさからせてまたたき、少女を捕らえた。見つかった。

 ああ、と少女の喉から嗚咽が漏れた。ああ、ああ、なぜ忘れてしまっていたのか!

 杯が少女の手から滑り落ち、大きな音を立てた。ふるえる水鏡の星空が割れて、月が落ちてくる。

 一瞬のうちに、すべてが炎の内に崩れ去った。

 白い髭のオントディルラが、ひねくれ者のアルクイントスが、世話焼きのファルテアモクが、少女の背中を追い回していた小さな小さなセィラキントスが、青白き森が、フラエシルトゥの一面の花が、一息に炎の息吹に飲まれていく。

 まだ燠火の走る灰の上で、焼け焦げた何かが蠢いている。獣の、鳥の、人のかたちをした黒いもの。炭化した体を引きずりながら、うめき声を上げて泣いている。

 黒煙を吹いて燃えあがる森の骸の狭間を、少女は逃げ出した。そうだ、少女は逃げ出したのだ。

 あの日、火は雨のように天から降ってきた。あっと思う間もなかった。赤々と炎を上げて、少女を育んだ青白き森は燃え落ちた。万朶を青々と彩っていた葉はすべて失われ、焦げた樹幹を残すのみの木々は、垂条を異様な風に揺らしていた。熱風が吹きすさび、ごうごうと嘆き巻き上がる火の粉に焼かれながら、少女は走った。

 何処へ逃げればいいのか。いったいどうしてこんなところにいるのか。

 これは夢か、それとも記憶か、今がまさに現実なのか。

 少女はいつしか炎の中で凍えていた。降る灰は、気がつけば雪と変わっていた。自身の引きつった呼吸だけが響く。足下が凍りついていく。細氷が一面に輝き、風は冷たく凍てつき、ごうごうと吹雪が舞う。

 もつれる足を必死に動かし、灰と氷の平原を駆ける。それでも炎は執拗に少女を追いかけてきた。炎は蛇であり、鳥であった。蜥蜴であり、魚でもあった。瞳を持ち、対の手足を持ち、揺らめく尾と鰭を持っていた。金に朱に白にと揺らめきながら、炎は地を這い、あるいは風を縫って少女へと迫っていた。

 吹雪の切れ間に、薄い三日月が見えた。<眼>だ。これではどこへ逃げても見つかってしまう。そう思ったとき、夜は巨大な怪物と化した。握りつぶさんとやみの手が落ちてくる。冷たくもうつくしい手だった。

 少女へ触れる寸前に、それは錆びついた金属のように軋み、やがて訪れた轟音は、雷土いかづちのごとくすべてをふるわせた――

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