ゆがまぬ言葉

 ひとつひとつ確認しながら重ねられていく話し方は氷花にもわかりやすかった。聞いたことのない言葉が出てくるとさすがにわからなくなってしまうが、隠者は平易な言葉を心がけてくれる。そのおかげで氷花は問いかけることにもためらう必要がなかった。

「なら幻妖の魔術は誰が使っているの? それとも、隠者の思う魔術は、テイギ、が違う?」

「定義、物事の意味や内容を明確に定め表すことだね」

「定義」

 ゆっくりと発音し直してくれるのを、繰り返して耳に馴染ませる。

「とてもいい問いかけだ」

 隠者は微笑んで氷花を肯定した。こういうとき、オントディルラならば頭を撫でてくれたことだろう。氷花はふと思った。夜鴉もよく頭を撫でてくれるが、隠者は氷花に触れてくることはまずない。たとえ子どもであっても女性にみだりに触れるのはよくない、と夜鴉を注意していたこともあったので、隠者の知識ではいけないことなのだろう。それが化石であるかどうかは、氷花には判断がつかない。

「前者について考える前に、まず後者について考えてみよう。魔術を定義しなければ、幻妖の魔術について考えることは出来ないからね」

「うん……、はい」

 隠者は笑みを深めてうなずいた。

「魔術とは魔を扱う術だ。ここまでは夜鴉もいいね? ではそもそも魔とはなんだろう」

ふるい神――精霊の亡骸だと十一邦では言われている。おとぎ話では違うようだが」

 夜鴉はつまらなそうに黄昏の瞳を細める。魔抜きの薬湯を飲んでしばらくは揺らいでいた極光は、もう見えない。氷花はまだ出ているそようなので、それが支配の違いなのだろうか。

「おとぎ話ではないというのに。しかし旧い神の亡骸というのもなかなか間違いとは言い切れないね。正しくは、旧い神と、神の残滓の二種類がある。特に後者を灰の魔と区別して呼ぶね」

「その言い方では旧い神は生きていることになる」

「生きているんだよ」

 言い切った隠者に、夜鴉はますます胡散臭そうに眉をひそめた。

「おとぎ話の次は創世神話か?」

「そう言えなくもないね。十五盟邦に冠を与えた黒の吟人によるならば、吟人うたびとのはじまりが世界のはじまりだ。かれらはすべてを語り継いできた」

「口伝は歪む」

「その認識こそが、私には不思議で仕方がない。吟人を知るものは口伝こそが歪まぬ唯一正しいものと知っていた。君は十三邦の――十一邦の外を知っているかい?」

「蛮族の地のことか? 行ったことはない。多少なりとも知っているのはこいつの、青白き森くらいだな」

 頭上を行き交っていた会話が目の前に落ちてきて、氷花は目をまたたかせた。

「わたし、蛮族?」

「蛮族とは言葉が通じないもの、という意味だよ。夜鴉、はじめに彼女と話したとき、言葉が通じなかったのではないかい?」

「たしかに訛っていて聞き取りづらかったが、通じないことはなかった」

「ではその訛りを他で感じたことはあったかい?」

「……ない」

「そうだろうね。十五盟邦の昔から、このくにの言葉は欠片も揺らがない。北の端から南の端までまったく同じ言葉を話す。だというのに、国境をわずかにでも越えると訛るんだ。不思議だろう? これは十五盟邦の言語が吟人の言葉から成るためだといわれている。この言葉を聞くものは、この言葉を使うようになる。だから氷花の言葉は、もうすでに邦の言葉になっている」

 言われて初めて、氷花は自身の言葉についてを考えた。旅の途中、何度か言葉を正されることはあったが、今ではもうない。一人称もまだ多少の違和感はあれど「わたし」となめらかに言えるようになった。思い返してみると、アルクントイスの言葉も、オントディルラの言葉とも今の氷花の言葉は少しずつ異なる。それは夜鴉に会った頃に覚えた違和感と同じだった。

「この言葉はね、どの地でも通じるんだ。邦の外へ出ても通じる。こちらが相手の言葉をわからずとも、相手はこの言葉の意味がわかる。そして聞いているうちに、自身の言葉を失ってしまう。だからこの邦は外敵が少ない……、いや、今はどうか知らないが、十三邦の頃は少なかった」

 氷花は首を傾げて隠者を見上げた。

「わたしの言葉、夜鴉はわかってたよ?」

「まほらの森は、十三邦か、十五盟邦の頃には邦のうちにあったのだろうね。私は君は、風の民の末裔すえではないかと思っている」

「わたし、蛮族じゃない」

 得意になって夜鴉を見ると、彼は呆れたように手を伸ばして少女の額を弾いた。

「痛い!」

「夜鴉。女子に軽々しく触れてはいけない」

「触れてない、弾いたんだ」

「余計悪いだろう。君はすぐそうやって、」

「説教はいい。あんたの話はそもそも頭が痛くなるってのに」

 夜鴉がうんざりとした様子で手を振ると、隠者はため息をついて言葉を止めた。

「吟人の喪失がここまで隔絶をもたらすとは十三のゼレエドも予想しなかったであろうね」

「ゼレエド?」

 聞き覚えのない言葉に氷花が隠者を見上げると、彼は目を丸くした。

「まさかゼレエドも伝わっていないのかい?」

 夜鴉を伺うと、彼は少し考えるように首を傾げた後、ああ、と思い出したように言った。

「第三邦が自称する十三邦の王の後継のことか?」

「そう、より正確にいうならば、十五盟邦をひとつにまとめ上げた王の後継のことだ。かの王の血族うからは冠を受け継ぐ資格があるとされ、ゼレを継ぐ名を得た」

「ゼレは俺も知らんぞ」

 隠者は首を横に振って静かに嘆きの意を示した。

「十五盟邦のただ一人の王のことだよ」

「ひとりだけ?」

「ああ。十五盟邦とは一代限りの邦だ。はじまりにして最後の王。黒の吟人はかの王の死後、砕かれた冠を手に盟約を継ぐよう後継を導いた。そしてその血は各の邦ぐにの大公にも受け継がれた」

「各の邦に血を? かの王はよほど好色だったと見える」

「ゼレは実に謎の多い存在でね。わずかにも語り継がれているのは、かの王は言葉尽きぬほどうつくしかったということだ。その様をたたえて曰く、すべての女にとって男であり、すべての男にとって女であった、と」

 夜鴉は棒を飲み込んだように言葉に詰まった。

「性別すら明確に伝わっていない。吟人が子細語り継ぐことを拒んだためだと言われているが、それすらも悋気によるものだと憶測を呼んでいる。とはいえ、好色であったかどうかは定かではない。かの王は大公の十五番目の子であり、きょうだいが多かった。もちろんそのすべてが大公と結ばれたわけではないのだが……」

「その話、長くなるのか?」

 話の腰を折られて、隠者は白い眉毛を上げて夜鴉を見た。それから氷花を見て咳払いをした。

「とかく、吟人の喪失は嘆かわしいことだよ」

 隠者の話は吟人が語ったという世界の創世、そして旧い神々のことに移っていったが、氷花は耳の奥に鳴り響いた言葉をじっと味わうように考えていた。疑問の虫が指先から腕を伝い、はだを這って胸の内の森へと入り込む。下生えの草を食み、くるりくるりと脱皮して姿を変えながら虫は育つ。やがてさなぎとなってじっと固まる。

 ――うたうたうもの、風鳴らすもの。竜の吐息を、巨人の産声を、はじまりのざわめきを知るもの。その喉には、歌のかけらが刺さって抜けない。死してなおうたうもの。

 初めに氷花が吟人という言葉を聞いたのは、青瑪瑙の蜥蜴からだった。バロ、それからバロゥドという耳慣れぬ響きを尋ねたのは記憶に新しい。返されたその答えが、どうにも隠者のいう吟人と噛み合わなくて気持ちが悪い。

 青瑪瑙のいう吟人は、まるで呼霊のことみたいだ。氷花はいつも三階の廊下にいる楽士を思い出す。死してなおうたうもの。かれはいつも歌っている。その歌は聴き取れないことも多くある。古くてもう誰も使わない言葉だと隠者は言った。耳に入っても意味がわからないばかりか、響きすら覚えていることが出来ないのだ。氷花には初めての経験だった。吟人の言葉に力があり、まほらの森の言葉にもその片鱗があったというのであれば、あれが蛮族の言葉なのかもしれない。

 それに対して、バロやゼレといった言葉は少し違う。耳に飛び込んできた響きが意味を探して羽ばたく。バロは風と歌をつかまえて落ち着いたが、ゼレは王というだけでは納得しない。その響きがざわめいて仕方ないのだ。どこかで聞いた気がするのに。

 ――バロは、風。風はうた。竜はバロゥドを探している。世継ぎになるために。

 世継ぎ。氷花ははっと目を見開いた。瞬きに雪の睫がさっと虹の光を掃く。氷花の内側を風が吹き渡り、梢を揺らすごとく葉擦れの音が森に響いた。それは緑を深める雨垂れさながらに降り注ぎ、止まり木を探す鳥たちが一斉に羽ばたく。あたかも指先からこぼれる弦の音色のように。ふるえ、したたり、ゆらぎ、かぎろいて歌が紡がれる。


 石の女王が覗き込む、王が望むは竜の心臓。

 その身隠すは十五の子。

 ヤでもなくエメでもなく、信じよ、きたるを、黒の王。

 ああ、ゼレを失う、都はいずこに。


 獣が目覚め、巨人は立つ。白の憂いは花と星。

 その奏でるは、滅びの兆し。

 ヤでもなくエメでもなく、備えよ、来るを、黒の王。

 ああ、ゼレを求めよ、冠はいずこに。


 繰り返し歌が充ち満ちて、初めて氷花は、その言葉が知らぬものであることに気づいた。ひとつひとつを切り離せば、氷花の話している言葉と同じ響きはひとつもない。それでもその言葉は音と意味とがたしかに結びついて、共鳴する。繰り返し「王」と歌われるのに、その王の響きはそれぞれ異なり、どれも王を意味するが、同じではないことを氷花は知った。そしてそのひとつがゼレであったことに気づき、胸がざわめいた。

 これは旧い言葉だ。

 氷花は高鳴る血臓ちのくらを押さえた。まほらに伝わるふるい言葉は、短ければ短いほど多くの意味を持った。

 シだ。

 ことば、枯れ落ちること、強い思い、あるいはたたかうもの、おしえるもの。いくつもの意味が氷花の脳裏に響き、鳴りわたり、願いが芽生えた。

 ――お前の中にシはあるか。

 問うた老爺の声が蘇り、氷花はたぐり寄せるように今まさに流れくる歌を捉えようとした。これがシだ。森の外のシだ。

 ――お前はもうシを知っている。

 知っているから、歌を思い出したのだろうか。青瑪瑙が歌っていたのを覚えていただけではないだろうか。わからない。ただひとつ理解できたのは、氷花はもうこの歌を忘れることはないということだった。まるで血の中に言葉が流れるかのように頭の天辺から爪先まで歌が満ちて体の中で響もしている。

 疑問のさなぎが音もなく殻を破り、瑞々しい翅をしなやかに伸ばした。そよぎながら隅々までぴんと張っていく翅は波間をゆく舟の帆に似て、風を捕らえどこまでもゆかんとする大望に満ちていた。

 疑問は飛び立ち、森の花という花を啄みながら飛んで媒介する。花は実を成し、種を落とす。まほらの森で問われた答えが芽吹いた喜びに、氷花の胸は大いにわきたった。知っている。そして、知ることが出来る。その感覚は、なんだってできると少女を奮い立たせた。

 それからというもの、氷花は学びに励むようになった。もっとシを知りたいと望み、これまでずっと閉じ込めてきた疑問の虫をどんどん羽化させていった。

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