第15話 水鉢の一匹は、二匹の海を願った。③

 信じる?

 理歩と陣吉がいぶかしむ前で、犬のお面が変わらぬ表情のまま、ぬれた息を吐いた。

「アンタなら、私が死んでも真っ当に悲しんでくれる。そして私が死んでしまっても、悲しみに壊れることなく、きっとそれを受け入れて、ずっと生きてくれる。…………それくらい、アンタは強い。そう信じることができたから、アンタと一緒に居られたの。アンタを後に残すのを迷わず、死ぬことを選択できた」

「?!」

 よく分からない動揺が、理歩を襲った。

 冷え切ったみたいに、指先がふるえる。

 動かない頭を何とか回して、頭は砂乃子の言葉を理解しようとした。

 砂乃子は今、何を言った? 砂乃子が死ぬことを選んだ、理由。

 それは、陣吉だった?

 まじまじと、緩やかな曲線を描く犬の横顔を見つめる。

 けれど理歩の動揺以上に、向かいの波音は混乱に荒れ狂い始めていた。

「ん、だよ、それ……」

 引きつって笑うような調子で、陣吉が体をゆらす。

 あ、いけない。 受信機の警告が、響き渡る。

「陣、」

 理歩が止める前に、波は爆発した。

「じゃあ、何か? 俺が居たから、なのかよ? お前が死のうとしたのは…………俺がいたからだって、そう言うのかよ?!」

 陣吉の波が、怒りではなく、失意の色に染まっていく。

 波を受け止める理歩まで侵食するほど、濃密な色に沈む。

「お前はあの時、死ぬために、俺と一緒に居たってのか!」

「そうよ、これは私の我儘! でも私はずっと、その我儘を、誰にも願えなかった!」

 座った姿勢のまま、砂乃子の全身から気配がほとばしる。 津波だ。

 どろりと澱んだ渦と、制御を失った大波が、ぶつかり合う。

 息継ぎが、圧迫される。

「私は! あなたに出会うまで、たった一人でも心の強さを確信できる人には出会えなかった。私を大切に思ってくれる人はみんな優しくて、優しすぎて、残して逝く事はできなかった」

 誰かを悲しませないために、自分は苦しみ生きることを選ばなければならなかったと、砂乃子は訴える。

 優しさが、ずっと苦しかった。

 その優しさに応えたいと思う自分が苦しかったと、血を吐くように叫んだ。

 大波が割れる。

 凍り付いて、砕けてしまう。

「あなただから……強くて優しいあなただから、私は生きるのをやめる決心がついた。この人はきっと、壊れない。ようやく、苦しいのをやめられると思った」

 あなたが、私を救ってくれたのよ。

 砂乃子は擦り切れるように言って、お面の顔をおおった。

 ぽとぽとと雫の落ちる音が響く中、理歩はよく分からない感情に飲まれて、固まっていた。

 向かい合う二つの流れはぶつかり合うばかりで、決して混ざり合わない。

 表面的な理屈では理解できても、深い深い水底で拒絶するせいで、お互いを受け入れることができずにいる。

 理歩はその全てが見えていた。

 まただと、恐怖がはい上がってくる。

 これは、同じだ。 あの日と同じ。

 理歩の両親が駄目になってしまったあの時と、同じ。

「俺が、お前を救ったって? 優しさを押し付けないのが……生きるのから解放するのが、救いだって言うのかよ?」

 陣吉が、暗く濃密な波間に溺れそうになりながら、立ち上がる。

「俺が、」

 いけない。 沈んでしまう。

 陣吉の心が、遠くに流れ去ってしまう。

「俺がお前を失って、それから何も変わらずに後を生きるだなんて、本気で言う気かよ?!」

 気が付けば理歩は、立ち上がって陣吉にしがみついていた。

「理歩っ」

 弱り果てて打ち付けるような陣吉の声が、理歩をとがめる。

 それでも理歩は陣吉にしがみつき続けた。

 夏の薄い服を握って、目をぎゅっとつむる。

 理歩は、内側で確かな形を描き出す自分の波を見つめていた。

 そうして、「そうか」と消え去りそうな吐息を噛みしめた。

「……砂乃子さん、陣。これ以上はダメだよ」

 一本の線を渡るみたいだ。 理歩にはそう思えた。

 今、二人に向き合うなら、決して思いあがってはいけない。

 上手くやろうとか、間違えないようにしようとか、そう言う事じゃない。

 円居先生がそうしたように、二人を遠ざけるところで――――自分だけ傷つかない所で、重みのない言葉を投げつけてはいけないのだ。

 砂乃子が、言葉にして教えてくれた。

『他者と向き合うときは、自分自身とも向き合わなくては……そうしなくては、ただ相手を傷つけあうだけの伝えかたしか、できなくなる』

 波を拾え。 受信機に、強く命じる。

 ずっと、押し寄せる他人の感情に溺れるのが辛かった。

 けれど、陣吉が言った。

『何を犠牲にしても、構わないんだよ。それくらい、大切なんだよ』

 今が、そうだ。

 理歩は、自分の何を捧げてもいいくらい、大切に想える人たちを手に入れた。

 二人の海の境界へ、受信機を投げ入れる。

 乱れ、荒れ狂う波形に、手を触れる。

「陣、ごめんね。こんな風に、簡単に言うの、嫌なんだ」

 ほんの少ししか、一緒に居なかった。

 そんな自分が、軽く言っていい事ではないだろう。

 それでも、軽々しく言葉にするつもりは、欠片も無いから。

 だから、言葉を、許してほしい。

「でも、分かるよ…………何でって、哀しいの、分かる」

 あなたが砂乃子さんを想って、そうして味わった苦い過去も、隠さず見せてくれたから。

 二人の世界へ、手を引いてくれたから。

 腕に閉じ込めた体が、動きを止める。

 渦が、うねる速度を落としていく。

「砂乃子さん」

 何もかも終わりにする日を、待っていた人。

 うるさい波間で耳をふさごうとしていた私に、静かで美しい世界おわりをくれた人。

「砂乃子さんは、ずっと待ってたんだね。自分では止められない受信機のスイッチを切って、ようやく終わりにできるのを。一人で、きっと、どうしようもなかったよね。私も、ずっと、いい加減静かになりたいって、思ってたよ」

 同じように、願っていた自分たち。

 同じだって、思っていたけれど。

 その先を知ってしまった理歩には、続けたい言葉がある。

「でも、今は思うんだよ。一緒に買い物に行った日。あの星が光るのを知って、初めて、思ったんだよ。こんな綺麗な海を見つけられたなら、受信機があってくれて良かったって」

 嫌気がさすだけだったこの器官にも、愛着がわくようになった。

 それは、

「砂乃子さんが私を見つけてくれたから、そう思えたんだよ」

 哀しさに凍り付く海が、微かにきしむ。

 どうか拒絶しないでと、ありったけの流れを注いだ。

「こんな風に想える人が居るんだって、嬉しかったよ。――――だから、私は砂乃子さんがどんな決心をしても、きっと砂乃子さんに『うん』って言うんだ」

 あなたが持つ、『命を諦める』という哀しい願いを、拒絶したりしない。

 あなたが私に十分すぎるくらいのものをくれたから。

 どんな結果でも、貴女を置いて行ったりしない。

 言葉にしながら、理歩は決意した。

 砂乃子とのこの結びつきを、愛おしいと思う。

 けれど、陣吉と砂乃子が駄目になるくらいなら、理歩は自分と砂乃子のつながりを犠牲にするつもりだった。

 砂乃子とのあの美しい世界を失っても、二人がちゃんと答えを出すのを願うつもりだった。

 そのために、投げ込んだ受信機がつぶれてしまっても構わない。

「でもね、私は陣のことも同じだけ大事だから…………だから言うよ」

 内側から湧き上がる波は、穏やかだ。

 良かったと、心底思う。

 もうこれ以上、弱り切った砂乃子の海をはねつけるような、そんな流れではなくって良かったと、心から。

「砂乃子さんは、ひどかったんだよ。どうしよも無くて、そうするほかに無かったって、私、きっと分かってると思う。でも、それでも、砂乃子さんのそばに居てくれた陣に全部投げ出して、陣を置きざりにしようとしたのは、それは、ひどい事だったよ」

 氷が、溶け出す。

 微かだった砂乃子の気配が、理歩の波に応えるように溶解する。

「砂乃子さんが、辛いのから逃げられなかったのと同じだけ、陣だって、砂乃子さんが大事だから、ずっと苦しいんだよ」

 交り合わない二人の海を、理歩の流れが埋めていく。

 陣吉の体に額をすりつけて、波を起こし続ける自分の受信機に集中する。

 どうか、通じてほしい。

 てんで混ざり合わない二人の流れを同調させて、三人一緒に星座を見たい。

 理歩にはもう、流れの先を見定めることはできなかった。それでも最後の一潮を、祈るように送り出す。

「陣、砂乃子さんも。これ以上、『分かって』って自分を全部、押し付けちゃだめだよ。二人共、もうこれ以上、抱えきれないんだよ。だって、」

 こんなにも行き場がない波が、あふれている。

 自分で自分を持て余す。

 だから、目の前の誰かに押し付けようとする。

 それがそもそもの間違いで、両親はその結果、苦い傷を負ってしまった。

 遠く離れる道を、選んでしまった。

 理歩は、ようやくたどり着いた答えに全身の力が抜けるようだった。

 送り出した波と、理歩の言葉は、二人にたどり着いたのだろうか。

 砂乃子と陣の海は…………そう考えた時。

 ぐっと強い力で、理歩はすべり落ちそうな体が支えられたのを感じた。

 ぼんやりとした頭が、なんとか理解する。

 ああ、陣だ。

 陣があの乱暴な手で、理歩の背を撫でてくれている。

 そうして、背後から近づく細い気配。

 陣が理歩を手放して、砂乃子へと送り出してくれた。

 背中に柔らかな体を感じて、理歩は顔を上げる。

「理歩ちゃん」

 お面越しじゃない、ぬれた砂乃子の目が、理歩を見ている。

 ああ、やっぱり好きだなぁと、素直に思った。

 制御できない流れに澱んでいるよりも、透明に澄み渡った、何もかもをそのまま見る、鏡のような目。

 それが砂乃子にはよく似合う。

 ゆっくりと、砂乃子の顔が理歩の頭の横に落ちてくる。

 さらさらとした髪が頬をくすぐって、目を細めた。

「理歩ちゃん、ありがとう」

 砂乃子の海が、溶けだして行く。

 理歩の流れに交り合って、次から次へと、息を吹き返す。

 理歩を抱きしめた体が深く息を吸って、最後の氷を振り払った。

「陣」

 理歩を捕まえたまま、砂乃子が顔を上げる。

 ふらりと上げた視界の先で、砂乃子と陣吉が、見つめ合っていた。

 海は、凪いでいる。

 混ざり合いはしないけれど、静かに、たゆたっていた。

「陣、私……あなただから、分って欲しかった。あなたに、望んでばかりしてしまった。でも、その前に、私は言うべきだった」

 陣吉が、お面を取る。

 失意も、苦しみも洗われたような、穏やかな面持ちだった。

 砂乃子が手を伸ばして、陣吉はそれを受け入れる。

「陣、あなたは私の想いを認められないかもしれない。でも、それでも、あなたと一緒に居られて、私は確かに幸せだった。それだけは、本当。今更許されようとは思わないけれど、これだけは、本当なの」

 そばに居てくれて、ありがとう。

 頬を滑る細い手を取って、陣吉は息を吐いた。

 手の中にある砂乃子の指先を撫で、顔を上げる。

「俺は、お前の願いを聞き入れてはやれない。それは、どうしようもない」

 海が、波打つ。

 陣吉の想いに呼応して、砂乃子の海へ、波を寄せる。

 一番の理解者ではなかったけれど、それでもと、強く打ち寄せる。

「理解できなくても、お前が苦しいのを、ずっと、分かってやりたい。そう願ってたんだ」

 理歩は、体が軽くなるのを感じた。

 二人の海が、穏やかに混ざり合って、理歩を飲み込む。

 まぶたの裏に、光が浮かび上がった。

 それは美しく幾多の星座を描き、三人を取り巻いて、

「星が、」

 自然と零れ出た感嘆に、砂乃子が視線をくれる。

「砂乃子さん、音……」

 問いかけた言葉を全部聞く前に、砂乃子は泣きだしそうに笑った。

「聞こえてるよ」

 ひたりと目を閉じて、受信機に意識を向ける、その表情を見ていた。

 涙が、流れ星のように一筋流れて、こわばりが解けていく。

 次に目が開いた時、理歩はそこに自分の姿がゆるくにじむのを見た。

「私も、こんな音を聴けて…………ここまで来れて、良かった」

 私たちの受信機は、嘘をつかない。

 いつかの砂乃子の言葉が去来して、理歩はたまらず砂乃子に抱き着いた。

 抱きしめ返してくれる腕に頬を寄せて、星空の海に二人浮かぶ。

「私たち、またちゃんと?」

「ええ…………理歩ちゃんが、いてくれたからよ」

 砂乃子が声をふるわせた。星が、喜びをまたたく。

「俺を置いてくなよ、お前ら」

 陣吉の手が伸びてきて、髪をかき混ぜられた。 温もりが、込み上げてくる。

 目を合わせ合って笑った理歩と砂乃子に、「やっぱりずりぃだろ」

 全然悔しそうじゃない陣吉が苦笑した。

 きっと陣吉には見えていないだろうけど、確かに今、三人の間にはこの銀河のような海が広がっている。

 この、息のしやすい浮遊感が満ちているのだ。

 ここに辿り着いたことが、決して簡単ではなかったことを、理歩は知っている。

 砂乃子が苦悩を耐え、陣吉が一途に待ち続けた。

 そして二人が自分の想いを越えて、途方に暮れるお互いを見つけた。

 その果ての、一つの可能性でしかない。

 一歩間違えば、理歩の両親のように取り返しのつかない結果に至っていたかもしれなかった、危ういせめぎ合いだった。

 それを知るから、理歩は本当に、自分に笑いかけてくれる二人を切なく思えた。

「砂乃子さん、陣」

 満ちた二人の海の中で、理歩の波が穏やかに遊ぶ。

「私を、傍に居させてくれて、ありがとう」

 理歩はこんな風に美しく通じ合える、自分以外の誰かを見つけたかったのだ。

 ずっと、歪な食い違いばかりではないと、確かめたかった。

 両親がすれ違ったあの日から、諦めそうだったけれど。

 二人がそれを塗り替えてくれた。

 だから、強く噛みしめる。

 二人の出した答えに、心の底から感謝した。

「二人の傍に居られて、よかった」

 大好きな人たちの、優しい笑みが降ってくる。

 理歩の波形を追うように、二人の波が同調する。

 ぴったりと寄り添う三つの波を受信機が確かに受け取って、理歩の心臓に送り出した。

 心にしみ込む波のゆれが増幅し、全身を柔らかく包む。

 砂乃子と出会って、これ以上はないと思った。

 でも、違った。

 理歩は、それ以上を見つけた。

 ずっと傷つき続けた二つの心が響きあう波間に、輝く星屑。

 その光を心から祝福する想いが、喜びを加速させる。

 二人で見た光より一段と美しいと、頬をゆるめる。

 星々が線を引く。

 それが大切な二人を描き出すさまを、理歩は見ていた。

 その世界に自分が居ることを誰にとなく感謝しながら、そっと、ながめていた。

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