第9話 その一匹は、ずっと追いかけていた。①

「ちーび」

 学校帰り。

 呼び止めてきた声は、理歩を硬直させた。

 学校から砂乃子のところへ直接向かおうと、自転車を押している最中だった。

 声の主は、祖母の家の前で理歩を待ち構えていた。

「大したもんだな、上等な面じゃねーか。あいつのと瓜二つだ」

 嘲笑うような言い方に、理歩は追い詰められた心地になる。

 じりっと後ずさって、目穴から男をにらんだ。

「何で居るの……?」

「最近、ここいらでお面女第二号が出没してるって噂を聴いたからよ。そのツラ拝もうと思って待っててやったんだ」

 親切だろ? 塀にもたれかかり、陣吉は嘘っぱちの笑顔で笑った。

「……意味わかんない」

 コイツと関わっちゃいけない。

 理歩の経験がそう叫んでいた。

 理歩は陣吉を無視して、横を通り過ぎようとして――――あっさり捕まった。

「そう急ぐなよ。言ったろ、『仲よく』しようぜ?」

「そんな事、思っても無いくせに!」

 叫んだと同時、視界が開けた。

 陣吉の顔が、空気が、鋭く『受信機』を刺激する。

「こんなもん被っていい気になって、それでいいと本気で思ってんのか?」

 猿のお面が、陣吉の手の中に納まっている。

 理歩は焦って手を伸ばした。

 自転車が倒れて、ガシャンと音を立てる。

「返して! どうしてそうやって構てくるの?! 私たちの事は放っておいてよ!」

 どうして、この男は自分と砂乃子の静かな世界をおびやかそうとするんだ。

 どうして、やっと見つけた平穏なのに、壊そうとする?

 飛び上がって面を奪い返そうとする理歩を見下して、陣吉はあの三日月のような口をした。

「かくしてドチビは、あの卑怯者と同類に成り下がったってわけか」

「砂乃子さんをそんな風に言わないで!」

 あの清くて無垢の人を、そんな風に汚さないで。

 理歩はもう泣き出しそうになりながら、陣吉に立ち向かっていた。

「もう来ないでよ! あの人に近寄らないでッ アンタになんか、砂乃子さんの何も分かんないんだから!」

 ザッ。

 砂嵐のような激しい空気が、一瞬にして襲い来る。

 それを、理歩ははっきりと受信した。

 息苦しくて、痛くて、どうしよも無い波にもまれて、理歩はさっと青ざめた。

「『分からねぇ』、か」

 ざらついた声に、何が含まれていたのかを、理歩は正確に言葉にはできなかった。

 けれどそれが理歩ののど元に迫り、しめつけるに等しいモノだと言う事だけは理解できた。

 そびえるように立っている男の顔が、陰になって暗い。

 カチカチと、奥歯がふるえるような気がした。

「じゃあ、見せてやるよ。アイツがホントは、どんな奴なのかを」

 一瞬で振り返った背を、理歩は呆然と見送った。

 そのまま、ずるずると座り込む。

 大きな背は坂道を登っていき、生えている木立の裏に消えていった。

 砂嵐が去った。

 その安心感に飲まれていた理歩は、我に返るのにしばらく時間がかかった。

「! 砂乃子さん!」

 陣吉が、砂乃子のところへ向かっている。

 その事実に思い当たり、あわてて立ち上がった。

 坂道を駆け抜けながら、理歩の頭は混乱で飽和しきっていた。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 あんなひどい空気をまとった陣吉と砂乃子が出会ったら、どうなってしまうのか。

 混乱した頭でも、それが良くない結果につながるだろうということだけは理解できた。

 悪い予感が背中を、首筋を、くすぐる。

 砂乃子の家の塀が見え出した時、その言い争いは聞こえてきた。

「一体いつまでそうやってるつもりだ、お前は!」

 陣吉だ。 あの男の声だ。

 耳を殴りつけられるような叫びに、理歩は足を止めた。

「なんで…… どうして、今日は、」

 細い声が、合間にこぼれてくる。 砂乃子だ。

「お前がいつまで経っても、その生き方を変えねぇからだろ! いい加減こっちも我慢の限界なんだッ」

「やめて…… どうして私を、から引っ張り出そうとするの?!」

 砂乃子の、悲鳴のような叫びを、理歩は初めて聞いた。

 恐る恐る塀をのぞきこみ、立ちすくむ。

「あの時、もう限界だった私に、あなたはを強いたのに……ッ あなたはまた、私を苦しめる気なの?!」

 砂乃子は炎のゆらぎに全身を染めて、陣吉をにらみつけていた。

 瞬間、ざりっと足が力を失って、理歩はそこに座り込んだ。

 知らない、あんな砂乃子を、自分は知らない。

 息が上手くできない。

 争う二つの意思が、ひどい空気を発して、理歩を窒息させようとする。

「うるせぇ!」

 陣吉の、牙を立てるような叫びに、体がじりっとしびれた。

「いつまでも閉じこもって、自分守ってんじゃねーよっ 出てきて俺の言葉を聞け、俺の言葉で傷つけ! そんで俺を傷つけろよ!」

 涙が、出そうだった。

『受信機』が、理歩に情報を伝える。

 陣吉の声は砂乃子を傷つけるようで、どうしようもない苦悩と懇願に引き裂かれそうに割れていた。

 言葉の一片、一片が、陣吉自身を突き刺すように理歩には思えた。

「俺を見つけたくせに、お前が……ッ お前が全部、放りだすんじゃねーよ!」

 背になって見えない陣吉の表情が、手に取るように分かる気がする。

「逃げんなよ。手の届かせねぇところへ行くんじゃねぇッ」

 空気が、波が、荒れ狂って限界へ向かっていく。

 ダメ。

 声が、出ない。

 でも、言わなければ。

 止めなければ。 ――――それ以上は、あなたたちを決定的に傷つける。

 あの日の、私のお父さんとお母さんのように、

「お前はあのチビ介も、自分と同じように狭い所へ閉じ込める気か!」


 パアン!


 耳の奥と、外で、乾いた音がはじけた。

 その光景は、理歩の目にまざまざと焼き付く。

 空気が限界を迎えた一瞬、砂乃子の手が、陣吉の頬を張り飛ばしていた。

 こらえるような目は怒りを通り越して憎悪に燃え、らんらんと危うい光をたたえている。

 あんな激しい感情が、あの人の奥底に眠っていたなんて。

 信じられない、直視したくないと、頭の何かがつぶやく。

 けれど目はその光景から離れなくって、理歩は呆然と二人を――――もう戻れなくなってしまった、『何か』を見つめていた。

 陣吉は顔を落としたまま動かず、砂乃子は荒く肩で息をする。

 そうして何かをつぶやいた砂乃子は、扉も閉めないまま、家の中にかけ込んでいった。

「砂乃子さん!」

 その時になってようやく動くことのできた理歩は、暗い屋内に消えていく背中を追いかけた。

 玄関先の陣吉の横を通り過ぎても、今度は引き留められなかった。

 陣吉は何も言わず立ち尽くしていて、一番近づいた時、本当に小さな波を『受信機』に発信した。

 波は暗く深い青に染まり、薄く広がって、今にも陣吉を消し去るようだった。

 それなのに、砂乃子のことでいっぱいになっていた理歩は立ち止まらず、陣吉を置き去りにしてしまった。

 今の理歩には、全てに手を伸ばすことなどでなかった。

 どうしようもなく、未熟だったのだ。

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