第10話 その一匹は、ずっと追いかけていた。②

 馴染んだ屋内を、裏手へと真っ直ぐ進む。

 薄暗闇から抜け出すと、見慣れたほの明るい工房に出た。

 入り口で砂乃子の姿を探して首を振り、小上がりの陰にうずくまった人影を見つける。

「砂乃子さん……」

 理歩は、恐々と砂乃子を呼んだ。

 さっき見た、砂乃子のあの剣幕が忘れられなかった。

 あんな激しい波を自分に受け止められるのか、理歩には自信がない。

 でも、今さら理歩は砂乃子を失えない。

 自分たちの距離を確かめるために、理歩は砂乃子に近づいた。

 砂乃子は、ひくりと肩をゆらして、ゆっくりと振り返った。

 その顔はひどく涙にぬれていて、胸を締め付けられた。

 不安定な、あの大好きな目が痛ましい。

 今すぐ何とかしてあげたくて、理歩はふらふらとまた数歩近づいていく。

「りほ、ちゃ」

 どうして。

 舌っ足らずな声を聴いて、無意識に手が伸びた。

 壊さないように、理歩は砂乃子の作務衣を指先でつかむ。

 砂乃子はおびえたみたいに身を引いて、目を伏せた。

「ごめ…… これ、は、なんでもない、の…… ほんとうに、なんでも、」

「砂乃子さん」

 それ以上聞いていられないと、理歩は苦い舌を動かした。

 ゆっくりと腰を下ろし、砂乃子と視線を合わせる。

 怖いと、思った。

 怖くて、だから抱きしめて欲しいと思った。

 今にも砕け散ってどこかへ消えてしまいそうなこの人を、自分の体に結び付けて、どこにも行かないようにしてしまいたかった。

 もう一方の手を膝の上で握りしめて、理歩は願った。

「砂乃子さん。私、居るよ。ここに居るから」

 だから、離れないで。

 砂乃子を想いながら、自分願いを押し付けた。 

 そんな自分に絶望しながら、それでもそれ以外を知らずに、伸ばした手を離さなかった。

 きっと今、一杯一杯な砂乃子に、心を求める自分がうとましかった。

 ごめんね、砂乃子さん、ごめん。

 謝罪を繰り返す理歩を、砂乃子が目を見開いて見つめる。

 視界がうるんで、目元が熱い。

 うつむくと、乾いた土間に黒い染みがにじんだ。

 そのまま、長い時間が流れたような気がしたけれど、きっとそれは不確かな感覚だったと思う。

 静寂に身を固くした理歩が何かを言う前に、白い手がそっと頬を撫でた。

「……ありがとう、理歩ちゃん」

 手は頬を過ぎ去り、首筋を過って、そっと理歩をつかまえた。

 包むように回された腕と、柔らかな砂乃子の体。

 確かな質量があるそれらに、理歩はふっと息を詰めて、すり寄った。

 まただ。

 また、この人は理歩を許してくれた。

 余裕なんてないはずなのに、それでも理歩の身勝手な願いを受け入れてくれた。

 砂乃子の波を、受信機一杯に受け入れる。

 むき出しだったあの激しい波は、今は凪いで理歩を拒絶しない。

 でもそのゆるやかさは張りつめた緊張も含んでいて、容易に触れることをためらわせた。

 きっと今、一番弱い所を開いている砂乃子を、その緊張した波は表しているのだ。 理歩には、それが分かった。

「ごめんね、子供みたいな泣き方して。心配かけたよね」

 心地よい声に、腕の中で首を振る。

 謝らないで。

 理歩は、砂乃子に我慢なんてしてほしくなかった。

 子供のように思うさま泣きたいのなら、そうして欲しかった。

 理歩より年上だからとか、理歩を大切に想ってくれるからみたいな理由で、自分を押さえつけて欲しくなかった。

 だって、砂乃子がそうしてくれているように、理歩だって砂乃子を受け入れたいのだ。

 叶うなら、砂乃子が隠そうとする、どんな砂乃子でも。

「砂乃子さん」

 顔を上げて、とても近くで、理歩は砂乃子を見つめた。

「ねぇ、私、砂乃子さんを一人にしないから。砂乃子さんが、私を許してくれたみたいに、どんな砂乃子さんからも逃げないから」

 だから、あなたが抱えているモノを、隠したりしないで。 私に見せて。

 これは、砂乃子の心を無視する自分のわがままなのだろうか。

 それとも、砂乃子に美しい音をもたらす何かなのだろうか。

 それはこの人にしか分からないけれど、理歩はありったけの心を込めて、言葉にした。

 砂乃子は、ぎゅっと目を閉じて、世界を遮断する。

 苦悩するように眉間にしわをよせて、理歩の腕に置かれた手は、動きを止めた。

 そのまま拒絶することも、砂乃子にはできたはずだった。

 けれどもまぶたは開かれ、ゆれる目は理歩をはっきりと見る。

 最後の迷いを含んだ吐息が頬をくすぐって、理歩は砂乃子の許しを確信した。

「ごめんね……本当はこんな姿、見せるつもり、全然なかった」

 理歩の肩口へ額をやって、砂乃子は重く言葉を吐き出す。

 波が、行き場を失ったように渦を巻く。

 砂乃子の中にある、どうしようもない感情がエネルギーを増して、どろどろと堂々巡りを始めるようだった。

「私……私は、生きるのが怖いの。普通に、多くの人がそうできるように、当たり前の顔して生きることが私にはできなくって、生きるのが怖くて仕方ないの」

 ごめんね。 こんなこと、言われても分からないよね。

 理歩は、そう言って砂乃子が距離をとろうとするのを哀しく思った。

 でももう一方で、仕方ないことだとも思えていた。

 こんなになっておびえるくらい、砂乃子が今話そうとしてくれていることは、彼女のもろい部分に触れるものなのだ。

 それを、彼女の波が教えてくれていた。

「ずっと、自分の中の『受信機』が、音を発し続けるのが怖くて…………自分以外のたくさんの感情を受け取り続けるのが苦しくって、仕方なかった」

 砂乃子は言う。

 多くの人同士の間にある感情は、大抵、すれ違ってばかりだ。

 小さな行き違いから、どうしようもなく駄目になってしまうことまで。

 そんなことがほとんどだと。

 表面上は、分からないかもしれない。

 でもそれは人それぞれのちょっとした我慢の上に成り立っていて、受信機がある砂乃子にとっては、見過ごせないズレなのだと言う。

 理歩には、容易に砂乃子の言うズレが発生する瞬間を想像することができた。

 理歩にとってそれは、個々の発する波のぶつかり合いだ。

 波の波長が合っていないから、どうしても互いを打ち消し合ってしまう。

 そんなことはよくあることで、それにうんざりする気持ちは、理歩にもとてもよく理解できた。

 でも、砂乃子のそれはもう一段ひどい葛藤のように思えた。

「私も、砂乃子さんの言いたいこと、多分わかるよ」

 だから、大丈夫、続けて。

 そううながすように、理歩は砂乃子の背を柔らかく撫でる。

 砂乃子の苦しみを丸ごと受信するために、壊れた器官にぐっと意識を集中させる。

 自分よりも大きな体が、幼くふるえて縮こまった。

「ずっと、何とかしたいと思ってたの。すれ違ってひどい音を立てるたくさんの音を……波長を調律したくて、もがいてた。でも、多くの人にとって私は部外者で、関係がない。関係ない自分が、どんなふうに言葉を尽しても、強い意味を成さない。結局は誰かが感情をゆらしたり傷ついたりするのを、見ていることしかできない」

 見えているのに、知っているのに、何もできない。

 それは砂乃子に、途方もない無力感を植え付け続けたのだろう。

 理歩は強く唇を噛みしめた。砂乃子の波が、ひどく弱弱しい。

 もしこのまま理歩が波を捕まえきれずに見失ったら、砂乃子は波形を完全に平坦にしてしまう。

 それはつまり、砂乃子が感情を殺して、全てを諦めてしまうということだ。

 そんなことはさせない。

 理歩は神経を集中して、砂乃子だけを感じ続けた。

「私はみんなに、溶け合った音の中で笑っていて欲しかった。すれ違うことを排除して、負荷のない世界で、笑っていて欲しかった」

 でも。

「でも、それは私のわがままだった。静かな、きれいな音だけを聴いていたいだけの、私の」

 波が表す無力感と自己否定は、砂乃子を追い詰めるようだった。

 ふるえる声に呼応するみたいに、砂乃子の波が張りつめていく。

 壊れないで、砕けないで。

 理歩は必死に願いながら、砂乃子にすがりついた。

「ひどい音のあふれた世界で息をするのは、苦しすぎる。でも、この苦しさを心底分かってくれる人にも、私は出会えなかった。誰も私と同じ人はいない。誰にも分からない。生きる限り、人の間で息をする限り、この耳を引き裂く『音』を聞き続ける。そんなのは、私には耐えられなかった。私は、私と同じ人に、私を見つけて欲しかった。 私は同種が居る、異物じゃないと言って欲しかった。何もおかしいところなんてないと、言ってほしかったッ」

心に爪を立てるような独白が、理歩をおびえさせる。

「私、消えてしまいたかった……ッ」

 叫びは空気にひびを入れ、高まった波が、それをガラスのように弾け飛ばした。

 ほこりが、変わることなく陽の光にきらめいている。

 けれど、いつかのように額をすり合わせた穏やかさは今は見る影も無く、ズタズタに打ちのめされた大切な人がここにあるだけ。

 理歩は、息を殺して腕の中の細い体を抱いていた。

 言ってあげたい言葉も、尽くしてあげたい想いも、あるはずなのに。

 理歩は砂乃子の絶望に打ちのめされて、身をすくませていた。

 砂乃子は、理歩の肩口にうなだれたまま、ピクリとも動かない。

 涙が服を濡らしていく感覚だけが、じわじわと肌ににじむ。

 砂乃子さん。 声がかすれて、のどにからんだ。

 波が、静かだ。

 砂乃子の想いを伝えてほしいのに、こんな時ばかり、受信機は役に立たない。

 こんなに近くにいるのに。

 この人の悲しみは深く遠くて、私は近づけない。

 でも、理歩はそれを黙って砂乃子に許すほど、砂乃子の事だけを想うことはできなかった。

 理歩は、砂乃子を失えない。 だから、

「嫌だよ、砂乃子さん」

 苦い。 自分の身勝手が心を汚すようで、苦しい。

 それでも、言わずにはいられない。

「私、砂乃子さんに、どこにも行ってほしくないよ…… 私のこと、」

 やっと、同じ人に出会えたと思ったのに。

 ようやく、あなたを見つけたのに。

「私を、一人にしないでよ」

 お願い、どうか。

「わたしを、置いて行かないで」

 砂乃子は、答えない。

 理歩にも、これ以上何かを伝える気力は、残っていなかった。

 静寂に、耳が痛い。

 ずっと、波のある世界が嫌いだったのに、今は何も受け入れるもののない受信機が寂しい。

 もう一度、波形のある世界に戻りたい。

 理歩は、薄らいで今にも消えてしまいそうな砂乃子を抱きしめて、そう願っていた。

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