第11話 その一匹は、ずっと追いかけていた。③
一人になりたいからと言う砂乃子を残して、理歩は工房を後にした。
砂乃子の家を出てから、祖母の家へととぼとぼと歩く。
そうして見えてきた塀の足元に、影が一つ、座り込んでいた。
「ひっどい顔……」
「……こういう時は、男前が上がったっつーもんだ」
よっこらせと立ち上がった陣吉を、理歩はぼんやりと眺める。
「冷やした方がいいよ。悪くなるよ」
何となく見ていられなくって、そうすすめた。
でも陣吉は目をつぶったまま首を横に振って、ポケットに手を突っ込む。
「こんなもん、気に留めるほどでもねーよ。それに、アイツの方が痛かっただろ」
「……ねぇ、どうしてあんなこと言ったの? 砂乃子さんは、どうして」
あんなに怒ったの?
そこまでききかけて、それは踏み込みすぎだろうかと言葉をのんだ。
理歩には分からなかった。
あんなに泣いていた砂乃子を目の当たりにして、それでも今の自分に、彼女と陣吉の過去に触れる資格があるのかどうか。
あんなに二人、近くにいると思っていたのに、今は砂乃子が遠かった。
どうしようもなく、置き去りにされたような寂しさが襲っていた。
「聞きてぇか?」
陣吉が静かに言って、理歩はやるせなさに力を失くした顔を上げた。
「プライベートをきくのは、マナー違反なんじゃないの」
ぽつりとつぶやけば、陣吉は「マナーなんぞ、クソだ」と、吐き捨てる。
「……大人って勝手だね」
「そうだ、勝手なもんさ。そんな奴らの話だ、聞いても嫌な思いするだけかも知れねーぞ?」
それでも聞くか?
陣吉は、理歩を砂乃子との過去に導こうとしている。
理歩にはそれが分かった。 後は、理歩の心ひとつ。
目の前に差し出された手が、イメージに浮かんだ。
「教えて。私、砂乃子さんを一人にはできない」
理歩の決意に満ちた目を確認して、陣吉は理歩を夕時の下り坂へ誘った。
道を下り、前に砂乃子と買い物に出かけた川沿いの道路を二人、並んで歩く。
砂乃子と一緒のときはくっつく位身を寄せ合って歩いたけれど、陣吉とは一定の距離と保っていた。
それはまるで大人の距離感のようだと理歩は思った。
そして、そういう風に陣吉が理歩を扱うのは、これから彼の過去を話すのが、子供の理歩を対等な相手と見なすという宣言なのだと思った。
陣吉が、理歩を「チビ」と呼んでいた頃とは違うのだと。
「お前くらいなら、もう遠慮して話すこともねぇか。世の中がおきれいなだけだなんて、頭ん中お花畑にしてる年でもねーだろ」
言葉はいつも通りだったけれど、声は真っ直ぐな響きをしていた。
理歩は、最後の確認に同意するように、うんと返した。
「あいつはな、昔とも言えねーくらい前に、自分を殺そうとしたのさ」
ごくっと、のどが鳴った。
全身によく分からない振動が走って、理歩は一瞬足を止めかけた。
直接的な言葉を、ほんのちょっと膜で包むようにして言ったのは、陣吉の優しさだったのかもしれない。
理歩は何とか気づかれないように、なんでもない風を装って、足を動かし続けた。
「俺たちは大学時代、お互いの知り合いの伝手で出会った」
同じ大学で、別の『学科』というものに入っていた二人を結び付けたのは、陣吉が所属していた小規模な小説サークルだと言う。
「『さーくる』って?」
「お前等で言う、部活みたいなもんだ。部活で言えば、文芸部だな」
「小説書いてたの?」
「今も書いてるぜ。というか、そっちが一応、本業だ」
「小説家なの?!」
理歩は驚いて声を上げた。「おばあちゃんが『外仕事』だって、言ってたじゃない!」
「それ一本では食っていけねーんだよ。外仕事はまぁ、趣味兼、副業だ」
日によく焼けた陣吉が小説家という職業についているなんてまるで結びつかなくって、理歩は控えめに陣吉をじろじろ見てしまった。
「売れてるとは言わねーけどな。……そんで、まぁ、俺はアイツを知らなかったが、アイツの方は俺のことを知ってた」
「どうして?」
「サークルで出してた、作品集みたいな冊子があったんだ。毎年何回か出してたそれを、砂乃子は読んでたんだと」
陣吉たちサークルのメンバーが作った冊子は、大学内の学生でサークルに伝手があれば好きなように手に入れることができたらしい。
陣吉も後で聞いた話だと言うが、砂乃子はそれを、友人伝いに手に入れたのだそうだ。
「プロでもない奴らのへったクソな文章だぜ? アイツはそれを、大学一年の冬から全部読んでくれてた」
「二人って、同級生?」
「ん? ああ、一個違いだ。俺が一つ上。だから、アイツは俺の二年からの作品を全部知ってる」
そうして陣吉は小説を書き、砂乃子という読者がいるということも知らず、日々を過ごしていた。
そんなある日。
「俺が三年の文化祭の時だったか。サークルの出し物ってほどでもないが、冊子の感想を自由に書き込める白紙のノートを作って、他の展示品の横に置いといたんだ」
最初はいたずら書きぐらいになれば、来る人間も面白かろうと、その程度のものだった。
サークルの展示室に、メンバーは常駐していなかった。
案の定祭が終わってみれば、中身は落書きやちょっとした感想、応援の一文がニ、三ページに書き連ねられているばかりで終わっていた。
「メンバーの奴らも、大して書かれなかったなーって、笑って済ましてた。ホントは、ちゃんとした感想とか期待してたくせにな」
ちょっと馬鹿にしたような言い方に、仲が良くなかったのかな? と、理歩は推察する。
「仲良くなかったの? 他の人と」
「俺が物書きやってるって、たまたま知ってた奴に引きこまれただけだったからな。最低限の付き合いだけってやつだ」
だから、文化祭の最終日。
陣吉がサークルの展示室に顔を出したのは、本当に気まぐれの結果だった。
「展示室に顔出した俺も、その感想ノートを見たんだよ、何となくな。で、落書きばっかしのページに、うんざりしてノートを放り出そうとした。でも、」
ページをめくっていた手が、止まった。
「ノートの最後から一ページ前に、几帳面な文字が並んでんのを、見つけたんだ」
それは、サークルの冊子に名を連ねている作者全員に向けた、短文の書評と感想だった。
文章は短文とはいえ、数名いるメンバー全員に向けて書かれていたため、ノートの片面にびっしりと書き込まれていた。
「他の奴らも群がって来てさ、ちょっとしたお祭り騒ぎさ」
大概の物書きなんて、そういうのに飢えてるもんだからな。
鼻で笑って、陣吉は続けた。
書評は誠実で柔らかい言葉遣いだが、的確で無駄がなかった。
読者から見て悪い所がある作品にはきっちりと意見を述べていて、でもその下に続けられた書き手本人の感想は温かみがあって、作者に報いる想いが連ねられていた。
「書いたのは誰だって、奴らが騒いでるうちに、俺は自分に向けられた言葉にくぎ付けになってた」
「……なんて、書かれてたの?」
慎重に理歩がたずねると、陣吉は真っ直ぐ前を向いたまま、はっきり言い切った。
「『そんなに人を追い詰めるような文章にしなくても、あなたの想いを逃げずに受け取ってくれる人は、きっと居ると思います』」
そして、
「『世界に失望しなくても、あなたの言葉は、必ず誰かに届く』」
理歩は、どきっと胸が音を立てて脈動したのを聞いた。
「めまいがしたよ。目の前に鏡が現れて、隠しようも無く今の自分ってやつをまざまざと見せつけられた気がした」
「どうして?」
「その頃の俺は、誰って目的も無く、腹が立つと思ったことを題材にして、小説を書いてた。小説の世界で登場人物たちを苦しめて、読み手に見せつけるような話ばっか書いてたんだ。そうやって、現実に自分勝手に振舞う人間を非難した気になって、腹の虫を治めてた」
でもその書評の主はそんな陣吉の鋭い物語を、書いている通り、柔らかく受け止めてみせた。
そうして、
「そいつは見抜いてたんだ。そんな風に世界に腹が立ってる俺の本心ってやつは、本当は世の中に裏切られたくなんかない。理想とする場所で、苛立ちとは真反対の…………みんなに等しく満足して生きて欲しいと思ってる、それを、誰かに認めてほしいって思ってるって」
つまりその感想の主は、陣吉を正確に読み取ってみせたという事だろう。
「それが、砂乃子さん?」
理歩が確認すると、陣吉はまぶたを閉じて答えた。
「ああ。それから色々あって、俺はそいつを……感想の書き手を探しだした。それが砂乃子だったのさ。会ってみて驚いたよ。世の中に、こんなに透き通った人間がいるのかって」
「透き通った?」
「俺から見たあいつは、さっきも言ったみたいに『鏡』だ。自分ってのを出してるようで出してない。目の前にいる人間をそのまま映し出すようなところがある。会話するごとに自分の考えを正確に言葉にされて、最終的には無理矢理にでも自分自身に向き合わせられるように、誘導される」
「なんか、分かる気がする」
理歩は砂乃子との会話を思い出していた。
砂乃子の言葉は、嘘が無い。
真っ直ぐに相手を見て、その正確すぎる『受信機』で、相手を読み取る。
それが、聞く相手によれば心を読んでいるように感じるのかもしれない。
「あいつは俺の小説を鋭いと表現したけど、あいつの方がよっぽど鋭利なガラスみたいだ。だって、本当の自分を知りたくない人間にとっては、奴の言葉こそ自分自身についてる嘘を破るナイフになるだろうからな」
「でも…………伏間さん、は、それが嬉しかったんでしょ?」
自分を言い表されて。
でなきゃ、探し出してまで会ったりしない。
陣吉は小さく笑って「陣とかにしとけ、名字とか寒いわ」と、体をゆらした。
「こんなにきれいに人を見る人間はいないと思ったよ。だって、人の奥深くまで読んじまうってことは、どうしようもなく汚い感情にだって触れなくちゃならない。それから逃げることなく他人と関わろうなんて…………普通の人間ならよっぽど親しくない限り、投げ出してる」
夕日に赤く染まった陣吉は、確かに呼吸をしていると実感するように、深く息を吸い込んだ。
「こいつしかいないと思った。俺が言葉を届けるとしたら、こいつだって、そう思った」
そう、万感を込めてつぶやいた後、
「けど違った。俺にとってアイツは特別でも、アイツには違ったんだ」
陣吉は遠い目をして言葉を切った。
陣吉と砂乃子の交流は、陣吉の卒業間近まで続いたらしい。
最初は良かった、と陣吉も思い出にひたって言った。
砂乃子は変わらず鏡のように鋭く誠実なほど正確に、陣吉の作品に目を通してくれていた。
二人は安定した距離を保ちながら、交友を続けていたという。
あの時、確かに二人は友人だったと、陣吉は断言した。
でも、思い返してみれば、と重々しく口にした。
「そこにあった距離感っていうのは、あいつが自分を守るために意図的に作り出したものだったのかもしれない」
「自分を、守る?」
「……俺の卒業が近づいた頃だった。砂乃子の様子が少し、おかしくなった」
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