第12話 その一匹は、ずっと追いかけていた。④
それまですべてが順調だったから、余計それは目立って感じられた。
砂乃子が、だんだんと人との関りを断ち始めたのだ。
「そこからは坂道を転がり落ちるってやつだ。砂乃子は大学にもだんだん来なくなって、俺からの連絡にも反応しなくなっていった。俺は卒業準備そっちのけで、一人暮らししてる砂乃子を探し出だした。家を知らなかったからな」
そうしてようやく砂乃子の住処を突き止め、呼び鈴を鳴らしたその日。
「砂乃子は部屋で死のうとしてた」
苦々しい声が、絶望を告げるようだった。
理歩は青ざめて両手を握りしめた。
聞きたくないと、耳をふさぎたかった。
でも、それではいけないのだと、どこかで踏みとどまる自分もいた。
「あいつは、本当はギリギリだったんだ。あの、鏡のように生き続けるには…………他人の中身に触れ続けて生きるのには、心が限界だった。俺は、それに気が付いてやれなかった。死にてぇと足掻くあいつは言ってたよ。『もう、この『音』の中では生きてはいけないんだ』と」
立ち止まった陣吉を、振り仰ぐ。
その顔は、いつか見た、あの羨ましがるような色をしていた。
「うらむぜ、チビ介。おめーは俺が一番望んで、結局たどり着けなかったとこに居るんだ」
陣吉では、砂乃子の言葉の意味を心底理解できなかった。
陣吉では、砂乃子の心は救えなかった。
「俺の言葉では、届かなかった」
死に損なって暴れる砂乃子を、陣吉は何とか説得しようとした。
砂乃子の親にも連絡を入れ、砂乃子に生き続けるよう訴え続けた。
けれど砂乃子は最後までうんと首を縦には振らなかった。
「そうしてやれることを全部失くした俺は、この世界を捨てようとしたアイツを、あいつの意思を無視して、そういった人間が集まる病院に放り込んだのさ」
再び歩き始めた陣吉の背は、無力感に苛まれたような波を発していた。
「だから、アイツは今でも俺を恨んでる」
生きたいと願えなかった砂乃子を、無理やりにでも生かしたから。
ゆっくりと離れていく背を見送りながら、理歩は考えた。
そうして、ぽつりと声を投げかける。
「どうしてそう思うのに、今でも砂乃子さんに会いに行くの?」
厭われていると知っていて、どうして。
自分なら、きっと顔も合わせられない。
向けられる嫌悪の感情を目の当たりにして、自分が苦しむだけではない。
相手にも、不快な苦痛を味あわせることが分かり切っているから。
傷つきあうのに、どうして、近づこうとするの。
理歩には共感できなかった。
陣吉は、小さく笑ったようだった。
「お前なら、分かるんじゃねーの? 砂乃子と同じお前なら」
お前の中身は、俺をどんなふうに解釈してる?
理歩はそっと目を伏せた。
今までに見た、陣吉の波を思い返す。
「……最初はざらざらしてる、痛いような波だったよ。とにかく砂乃子さんを傷つけたいんだって思ってた」
でも、違う。
「違ったんだね?」
陣吉は言った。 『俺の言葉で傷つけ。俺を傷つけろ』
懇願と、苦悩で引き裂かれていた声。
理歩は、そこに潜む陣吉の本心を、おぼろげにとらえていた。 とらえてしまった。
「陣、は、砂乃子さんが遠くに行くのが嫌なんだね。もっと近くで、そばに居て欲しかったんだね」
それが、お互いを傷つける距離でも。
陣吉は振り返って理歩を見つめた後、どこか寂しそうに微笑んだ。
それが今にも壊れてしまいそうな波長をまとっていて、理歩は立ち尽くす。
夕日に赤く焼かれながら、陣吉は理歩を手招いた。
それにつられるように理歩はふらりと歩き出し、陣吉のすぐそばで足を止める。
落ちてきた手が、とても優しく髪をかき混ぜた。
「俺たちはもう、前みたいな距離感では一緒にいられねぇんだ。俺は砂乃子を手放したくない。砂乃子は俺を遠ざけたい。てんですれ違っちまってて、かみ合わない歯車を回すみたいなもんだ」
語りかける口調はとても穏やかで、理歩は泣きそうになった。
陣吉の言うように、砂乃子と陣吉、二つの歯車がひどい音を立てて互いを削る様が思い浮かぶ。
理歩には、それが耐えられなかった。
砂乃子は勿論だが、陣吉まで体の奥の大切な部分を傷つけているような気がして、哀しかった。
この屈強な出で立ちをした男の、一番柔らかな部分が損なわれていくような、そんな気がしたのだ。
「離れた方が、お互い傷つかなくて済む。それが、賢いやり方なのかもしれねぇ。でも俺は、そんな風に自分をだます、賢しいやり方は選べなかった」
理歩を見ているようで、どこか遠くを臨むように、陣吉は語り続ける。
「自分が傷ついても、相手を傷つけても……それが大事な相手で、傷つけることが本意じゃなくても。俺はぶつかり合って、同じだけ削り合って、妥協できるまで向かい合っていたかったんだ」
「それで、どんなに苦しんでも?」
理歩は涙を流しながら、聞いた。
目頭が熱くて、頬はぬれて、それでも止められなかった。
「言ったろ? 俺にとって砂乃子は特別だ。何を犠牲にしても、構わないんだよ。それくらい、大切なんだよ」
柔らかな声が、凪いだような目が。
全てがとても優しいのに、全てが理歩の心を締め付けた。
ああと、息を吐く。 そうして、理解する。
これをきっと、人は『切ない』というのだ。
それを、理歩ははっきりと体感した。
「そんなに泣くなよ。目立っちまうだろ」
困ったような、でも仕方なさそうに、陣吉は目元をぬぐってくれた。
理歩はうぅと唸って、うつむいた。
砂乃子の張り裂けそうな願いも、陣吉の静かな決意も、両方を理解できるようになってしまって、体が縫い付けられたように思えた。
もう、どちらもが理歩にとって大切だから、何か少しでも力になってあげたいと願ったけれど。
同時に、それはできないことだとも理解できていた。
砂乃子に陣吉の決意を伝えても彼女を困らせるだけだし、陣吉を応援しても、部外者の理歩の言葉なんてただの安い慰めにしかならない。
これは二人の問題で、第三者である理歩ができる事なんて、何一つないのだ。
理歩は両親が別れることになった日を思い出した。
あの時も、理歩はこんな風に無力感を感じていた。
結局のところ、あの二人が互いに欲しがっていたのは、お互いの言葉だった。
母は父親に共感を求めていたし、父は母親に理解を求めていた。
それが、そばにいた理歩にはよく見えていた。
けれど、二人が本当に欲しがった言葉を理歩が代わりに伝えてみても、駄目だった。
それでは、意味がなかったのだ。
だって言葉は、言ってほしい相手に言ってもらえて、本当に力を持つ。
「私、じゃ、二人のために何も、して、あげられない。ごめん…… ごめんな、さい」
悔しかった。
口惜しさと、あきらめを行き来する感情に飲まれて、胸が痛かった。
砂乃子を、音のない世界へ導いてやれたら良かったのかもしれない。
でもそれは、この世界から砂乃子を失うのに等しい。
陣吉を、砂乃子のところへ導いてやれたら良かったのかもしれない。
でもそれは、砂乃子を一層苦しめるに等しい。
そして、そんな風に二人に関わる資格が、理歩にはきっとない。
だって、理歩はたった今二人の今までを知ったばかりの部外者だ。
二人が今まで積み重ねてきたものに、簡単に手を触れる資格なんて一つもない。
きっと、無いのだ。
例え、二人をどれほど想っていたとしても。
泣きたくなんてない。
陣吉を、困らせたくなかった。
でも涙は一つも止まってくれなくって、理歩は何度も目をこすり続けた。
すると、じっと待っていた陣吉が腰を折って、理歩の前へ膝をついた。
「なにもできないなんて、言うなよ」
波が、受信機をゆらした。
それはとても穏やかなのに、決して無視できない強さをまとった波形だった。
大きな手が、理歩の前髪をさらう。
皮肉気な笑いばかり、浮かべていた顔だったはずだ。
理歩は、飛び込んできたものに、目を見開く。
見たこともないほど柔らかで強い眼差しで、陣吉が笑っていた。
「なにもできないなんて、そんな風に言うな。お前が現れてくれて、砂乃子はきっと、幸せだったよ。人を遠ざけたあいつが、もう一度誰かをそばに置くのを受け入れることができたんだ。お前は、あいつの何かを、確かに変えたんだ」
頬を撫でる手が、砂乃子のそれと重なる。
二つの手が、理歩へと確かに伸ばされている。
受信機が、海に星座を描く。
「お前がいてくれて、きっと、俺たちも変われる。何もできないなんて、ことはないんだ」
いてくれるだけで、いいんだ。
心臓に、直接手で触れられたような。
どこへも伸ばせない手を、強く引かれたみたいに、理歩には思えた。
両親たちの世界に、理歩は入れてもらえなかった。
でも陣吉は、理歩を必要としてくれた。
陣吉と、砂乃子の世界に、触れていいんだと言ってくれた。
関わり合うことを、許してくれた。
理歩はこの瞬間、理解した。
自分が本当に、恐ろしかったこと。
面を被ってまで、遠ざけようとした世界。
それは理歩が関わりたいと望んでも、拒絶されるしかない、大切な誰かの世界だった。
大切で、壊れるのを見ているしかできなかった、両親たちの世界が理歩に残した、耐えがたい痛みだった。
理歩は、ずっと、その痛みが恐ろしかった。
だから、もう何もかもを諦めて、見ないようにしたかったのだ。
そのための、あのお面だった。
それを、はっきりと自覚した。
「私、二人がこれ以上苦しいのを、見てたくない。でも、二人が壊れてダメになってしまうのも、見たくない」
だから、二人の世界に触れることを許してもらえるなら、理歩はどんなことでもしたい。
もう、両親の時のように、無力なだけの存在ではいたくない。
そう、強く思った。
立ち上がった陣吉は優しい顔のまま、理歩を見下ろしていた。
なにも言葉にはしてくれなかったけれど、受信機は確かな波を受け取る。
陣吉は理歩の願いを、はっきりと受け入れてくれていた。
波が調和している。 息がとてもしやすい。
自然とこぼれる笑みを返して、背筋を伸ばす。
陣吉が細めた目で、理歩を見返した。
「悪かったな、今まできつい態度とって。羨ましさあまっての、やきもちだった」
許せな、理歩。
おまけみたいに言い足されたそれに、理歩はぱちりと瞬きした。
私の、名前。
「……覚えてたんだね」
絶対、忘れてると思ってた。
にやっと、あの三日月の笑みで陣吉は笑う。
それから強い光の宿った瞳で理歩を見て、とても、とても丁寧に言葉をくれた。
「あいつを頼む。俺じゃあ、同じところで分かってやれない。あいつの手を離さないでくれ。あいつを、俺のとこまで、連れてきてくれ」
遠くへ行こうとする砂乃子を、どうか、見失ってしまわぬように。
孤独に苦しむ彼女に、手を伸ばして。
「あいつを一人にしないで、もう一度俺とあいつを向き合わせてくれ」
対等なところにある陣吉の目と、その真摯な願いに、理歩はそっと目を細めた。
無力感に力を失っていた体の底から、熱いものが湧き上がってくる。
もう、大切な誰かに関われないことを、諦めてながめていることはしない。
強く決意した理歩は、すっと胸を膨らませ、
「分かった」
決意を込めて返事をしたのだった。
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